セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

カテゴリ: 十字架の友に宛てた手紙


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 

十字架の友に宛てた手紙』

最終回


croix

 



 3. 十字架に釘付けにされたイエズス・キリストの御傷と御苦悩】

 

57.第三に、十字架に釘付けにされたイエズス・キリストの御傷と御苦悩をご覧下さい。彼御自らあなた方にこう言っておられます: 『私が通過した、棘があり、十字架に釘付けられた道を通る全ての者よ、眺めそして見よ: つまり、あなた方の体験する貧しさ、あなた方のさらす裸、あなた方の受ける軽蔑、あなた方の忍ぶ苦悩、あなたの味わう孤独が私のものと似ているかどうかを、あなた方の身体の目で眺め、あなた方の観想の目で見よ; 私を見よ、罪なきこの私を、そして自分を嘆け、咎むべき自分を!』 十字架に釘付けにされたイエズス・キリストに対するこの視線と同じ視線を、聖霊は、使徒たちの口を通じて、私たちにお命じになっており; 私たちの敵にとって、他の如何なる軍隊よりも突き刺すようで恐ろしい、この思いで武装するよう私たちにお命じになっておられるのです。あなた方が、貧しさ、惨めさ、苦悩、誘惑、さらにそれ以外の十字架に攻められる度に、盾、鎧、兜、諸刃の剣、すなわち、十字架に釘付けにされたイエズス・キリストに対する思いで武装して下さい。以上が、あらゆる困難の解決法であると共に全ての敵に対する勝利なのです。

 

4. 上に、天国; 下に、地獄】

 

58.第四に、もしあなた方が自分の十字架を正しく担っているならば、上にある天国であなた方を待っている美しい冠を眺めて下さい。私たちに値する、下にあるあの場所を見て下さい、さらにこの地獄で、かの悔い改めない盗賊や、神から見放された者たちと共に私たちを待っている者たちを眺めて下さい。太祖及び予言者たちを信仰と迫害において支え; 使徒と殉教者たちを彼らの使徒職と受けた責苦の中で元気づけたのはこの報酬なのです。太祖たちはモーゼと共に、『私たちは望む、永遠に神と共に幸福である為に、神の民と共に悩まされる事を望む。』 と言い、予言者たちはダビデと共に、『罪である快楽を暫し楽しむより、私たちは、あの報酬故に大いなる迫害を耐え忍ぶ。』 と言っておりましたし、使徒や殉教者たちは聖パウロと共に、『この僅かな苦しみのひと時が我々の内にもたらす、永遠の栄光の無限の重さ故に、私たちは死に定められた生け贄の様であり、私たちの苦しみ故に、世間、天使、そして人間たちの見世物の様であり、世の芥にして世に呪われた者の様である。』 と言っていたのです。

 

 『もしあなた方が十字架を正しく担うならば、あなた方に与えられる、十字架の際立った冠を失わぬよう気を付けなさい。あなた方がそれを正しく担わないならば、別の者がそれを正しく担い、あなた方の冠を奪う事になるだろう。』 と、私たちの頭の上で叫んでいる天使たちを眺めましょう。諸聖人たちは私たちに、『忍耐強く耐え忍ぶ事で力強く戦いなさい、そうすればあなた方は永遠の御国を受けるだろう』 と言っています。最後に、『私は己の忍耐によって辛抱し打ち勝つ者たけに報酬を与えよう。』 と私たちに言われるイエズス・キリストに耳を傾けましょう。私たちが当然値する、下にあるあの場所、つまり、もし私たちが悔い改めない盗賊や神から見放された者たちの様に、不平不満や恨み、さらに復讐を伴って耐え忍んでいるなら、その彼らと共に地獄の中で私たちを待っているあの場所を眺めましょう。そして聖アウグスティヌスと共に、『聖主よ、御身が我が罪を来世でお赦し下さりさえするなら、この世でそれらを罰する為、燃やし、切り離し、刻み、断ち給え。』 と叫びましょう。

 

5. 被造物たちについては決して愚痴をこぼさないこと】


59. 規則十二 あなた方を苦しめる目的で神がお使いになる被造物たちについて、意図的にかつ不平の声により、決して愚痴をこぼしてはなりません。その為、試練の中では三種類の愚痴を区別して下さい。一つ目の愚痴は、無意識で自然なものです: それは嘆き、溜息をつき、呻き、泣き、悲しむ肉体の愚痴です。私が申し上げた様に、霊魂がその上級部で神の聖旨に委ねられる時、そこには一つも罪が存在しません。二つ目の愚痴は、理性的なものです: それは、上長や医師の様に、人の苦痛を癒す事の出来る人々に、自分の感ずる痛みを嘆き、曝け出す時のものです。この愚痴は、余り夢中になってしまう場合には、不完全となり得ます; しかしこの愚痴は罪ではありません。‐三つ目の愚痴は、罪深いものです: これは自分を苦しませる隣人の悪を免れる為、あるいは彼に復讐する為に、この隣人の不平を言う時; 又は自分が苦しんでいる苦悩についてこぼす愚痴に同意をし、それに癇癪と不平を加えてしまう時に生ずるものです。

 

6. 感謝を込めてのみ十字架を頂くこと】

 

60.規則十三 どんな十字架も、感謝と共に、遜って接吻する事なく頂いてはなりません; さらに全くの善であられる神が、幾つかのやや大き目の十字架をあなた方にお恵みになるならば、それについて特別に感謝し、自分に対して起こされた不当な裁判により全財産を失ったにもかかわらず、自分の身に起こった良い出来事を神に感謝する為、手元に残っていた十スー硬貨で直ちに一回の御ミサを捧げさせた、あの貧しい女性に倣い、これらの十字架について他の人々に感謝させて下さい。

 

7. 自発的な十字架を引き受けること】

 

61. 規則十四 もしあなた方の協力なしに到来するであろう、最善の、十字架を頂くに相応しい者になりたいのであれば、優れた指導者の意見を聞きながら、自発的な十字架を引き受けて下さい。例えば: 幾らか愛着を抱いている不要な家具がご自宅にありますか?それなら、イエズス様がとても貧しい時に、お前は余計なものを欲しがるのか?と言いつつ、それを貧しい人々に与えて下さい。ある食べ物が嫌いですか?それとも、ある徳の行いが嫌いですか?ある悪臭が嫌いですか?それなら、その食べ物を味わい、その徳行に親しみ、その悪臭を嗅ぎ、それらを克服して下さい。さらに、やや行き過ぎた愛情と熱狂さにより、ある人、ある物が好きなのですか?では、それらを慎み、断ち、自分を満足させるものから遠ざかって下さい。

 

 あなた方は生まれつき人と交際する才気をお持ちでなのすか?それとも、行動する才気ですか?あるいは、人目を惹くそれですか?ある場所に行くそれですか?では、立ち止まり、沈黙を守り、身を隠し、視線を逸らして下さい。

 

 ある対象が生まれつき嫌いですか?それはある人ですか?それなら、頻繁にその人のもとに足を運び、克服して下さい。

 

62. もしあなた方が真実に十字架の友であるならば、常に巧妙である愛が、このように小さい千の十字架をあなた方に見出させてくれるでしょうし、またこれらの小さな十字架によって、しばしば輝かしい十字架を耐える時の忍耐に混入する自惚れを心配する事なく、あなた方は何時しか豊かになります; そして僅かの事についてこのように忠実であれば、聖主は、御自ら約束された通り、多くのものの上にあなた方をお据えになるでしょう: つまり、聖主があなた方にお与えになるだろう多くの恩寵の上に、さらに彼があなた方にお送りになるだろう多くの十字架の上に、そして彼があなた方の為に準備されるであろう多くの栄光の上に . . .

 





***



Totus tuus:



聖ロラン・スュル・セーヴル(Saint-Laurent-sur-Sèvre)にある
聖ルイ・マリー・ドゥ・モンフォールの墓





にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 

十字架の友に宛てた手紙』

第十八回


croix

 



 【例外を設けず、手当たり次第に、あらゆる種類の十字架を耐え忍べ。】

 

 

54. 規則十 親愛なる十字架の友よ、例外を設けることなく、手当たり次第に、あらゆる種類の十字架: つまり、あらゆる貧しさ、あらゆる不正、あらゆる喪失、あらゆる病気、あらゆる屈辱、あらゆる反対、あらゆる中傷、あらゆる無味乾燥、あらゆる孤独、あらゆる内的及び外的苦しみを、『私の心は覚悟が出来ています、私の神よ、私の心は覚悟が出来ています』 と絶えず言う事によって、耐え忍ぶ覚悟をして下さい。ですから、人間と天使たちから見捨てられ、神御自身と同様に; 全ての人から迫害され、裏切られ、中傷され、名誉を棄損され、見捨てられる覚悟をすると共に; 擦り付けられる犯罪、飢えや渇き、物乞い、裸、国外追放、投獄、さらに、絞首刑やあらゆる種類の拷問を、自分とは関わりのないものだったとしても、耐え忍ぶ覚悟をして下さい。最後に、ヨブやハンガリーの女王である聖エリザベトの様に、自身の富と名誉を失い、自宅の外に放り出された末、この聖女同様、泥の中に放り込まれ、そして酷い悪臭を放ち、潰瘍に覆われたヨブ同様に、傷口を覆う布きれや、馬や犬には誰も拒まないであろう、食用のパンの一切れも与えてもらえずに、堆肥の上を引きずられ、神が極僅かな感覚的慰めもあなたの霊魂にお注ぎにならず、これらの極限的不幸と共にあなたを悪魔のあらゆる誘惑の餌食として放っておかれるのを想像して見て下さい。これこそが真実にして完璧な十字架の友の神的栄光と本物の至福の絶頂なのだと固く信じて下さい。

 

 

正しい苦しみの四つの刺激物

 

55.規則十一 正しく苦しむ為に、四つの事に目を向ける聖なる習慣を身に付けよ:

 

1. 神の御目】

 

 第一に、偉大な王の様に、塔の高みから、戦う兵士を、満足とその勇気に対する称賛を以て、お眺めになる神の御目。神はこの世で何をお眺めになるのでしょうか?王座に就く王や皇帝たちでしょうか?神は彼らをしばしば軽蔑を以てしかお眺めになりません。では、国軍の大勝利や宝石、要するに、人間の目にとって偉大な事柄でしょうか?人間の目にとって偉大な事も、神の御前では忌まわしいものなのです(ル1615)。それでは、彼は何を喜びと満足を以てご覧になり、またそれについて天使や悪魔からでさえも情報をお求めになるのでしょうか?‐それは神の為に、富、世俗、地獄、そして自分自身と戦う人、つまり自分の十字架を喜んで担う人です。聖主はサタンに言います、お前は全天が驚きを込めて眺める偉大な驚異を地上に見なかったのか; 私の為に苦しむ『私の僕であるヨブをお前は見なかったのか?(ヨ23)』 と。

 

2. 神の御手】

 

56. 第二に、最も大きいものから最も小さいものに至るまで、私たちに生じる自然界のあらゆる悪をもたらす、力強き聖主の御手を眺めて下さい。十万人の軍隊を打倒したまさにその御手が、木の葉やあなた方の頭髪を落ちさせるのであり; 荒々しくヨブにお触になられたまさにその御手が、自らもたらす小さな悪を通して優しくあなた方に触れるのです。それと同じ御手によって、彼は昼と夜、太陽と闇、善と悪を形成します; しかしながら聖主は、誰かがあなた方を怒らせる為に犯す罪をお許しになったのであり; さらに言えば、聖主はこの罪の悪意を生じさせたのではなく、この罪の行為をお許しになったのです。

 

 ですから、シメイがダビデ王にしたのと同様に、シメイの様な人があなた方に罵詈雑言を浴びせかけ、石を投げつけるなら(サ下16511)、それについて自分自身にこう言って下さい: 『報復は一切してはならない、放っておこう、何故なら聖主は、私にこう振る舞うよう彼にお命じになったからだ。私はあらゆる侮辱に値するし、神は正義に基づいて罰しておられると私は知っている。止まれ、私の腕よ; 私の舌よ、止まれ; 一発も殴るな、一言も発してはならない。この男あるいはこの女は、私に罵詈雑言を浴びせるか私を侮辱する; しかし、彼らは神の御憐みの御名の下に、穏便な裁きを下す為に現れる、神の使節なのだ。神の復讐権を奪う事によってその正義を刺激してはならない; この御憐みが私たちを永遠の純然たる正義へと、復讐する為に、送還するのを恐れて、非常に愛情のこもった神の鞭打ちに抵抗する事によりこの神の御憐みを軽蔑してはならない。』 全能かつ無限に賢明な神の一方の御手を眺めて下さい、それはあなた方を支えるのに対し、もう一方の御手はあなた方を叩きます; 彼は一方の御手で屈辱をお与えになるのに対し、もう一方の御手で元気づけられるのです; 彼はあなた方を低くされるのに対し、彼は高くされます、そして御自身の二本の御腕で、彼は静かに、かつ力強く、人生の始めから終わりまで、あなた方のもとに到達されるのです: 静かに到達されるとは、あなた方が自分の力以上に誘惑されたり、悲しんだりするのをお許しになる事によってであり、力強く到達されるとは、この誘惑と悲嘆の強さや持続期間に相当する強力な恩寵であなた方をお助けになる事によってです; さらに力強く到達されるとは、神が御自分の聖なる教会の(聖)霊を通して言われている様に、あなた方の為に御自ら『絶壁の縁の支え、さ迷う道中の伴、焼き尽くす暑さの中の涼しさ、身を濡らす雨と凍えさせる寒さの中の衣類、疲労困憊時の馬車、危うい歩行時の杖、破壊と遭難により生命を脅かす嵐の中の避難港。』 となる事によってです。


(続く)

Totus tuus:



聖ロラン・スュル・セーヴル(Saint-Laurent-sur-Sèvre)にある
聖ルイ・マリー・ドゥ・モンフォールの墓





にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 

十字架の友に宛てた手紙』

第十七回


croix

 



 【感情的ではなく、理性的かつ超自然の愛を以て、これらの十字架を愛せよ。】

 

50. 規則九十字架を愛するよう誰かがあなた方に言う時、その人は人間本性にとって耐え難い、感情的な愛について話しているのではありません。ですから、三つの愛を正しく区別して下さい: つまり感情的な愛、理性的な愛、忠実かつ最高の愛; 換言するなら、肉欲である下級部の愛、理性である上級部の愛、そして最上級部の愛、または信仰により照らされた知性たる、霊魂の頂の愛です。

 

51. 神はあなた方に、肉体の意志を以て十字架を愛するようお求めにはなりません。肉体は完全に堕落し罪に染まっているので、そこから生ずる一切のものは腐敗しておりますし、さらにこの肉体は、神の聖旨や十字架に釘づける神の法に自力で服従する事が出来ません。だからこそ、それについて聖主がオリーブの園で話された時、『聖父よ、私の意のままにではなく、あなたの聖旨が行われますように!』 とお叫びになったのです。もし、イエズス・キリストにある人間の下級部が、聖なるものではあったとはいえ、十字架を絶えず愛する事が出来なかったならば、ましてや、完全に堕落している私たちのそれは十字架を拒絶してしまうでしょう。実のところ、幾人もの聖人たちが感じたのと同様に、自分が苦しんでいるものに対し、時には感情的な喜びさえ覚える事が私たちには出来ます; しかしこの喜びは、肉体の中にありながら、肉体からは生じません; それはまさに、聖霊の神的な喜びに著しく満たされた、人間の上級部からしか生じないものであり、この上級部がそれを下級部にまで及ばせているのです。その結果、最も苦悩する人(聖王ダビデ)には、『私の心と肉体は、活ける神において歓喜に身震いした!』(詩83.3)と言う事が出来るのです。

 

52.私が理性的と呼ぶ十字架に対するもう一つの愛があり、それは理性である人間の上級部の中にあります。この愛は完全に霊的であって、さらに、それは私たちが神の為に苦しむ事によって得る幸福の認識から生ずるので、霊魂によって知覚可能であるどころか、認識可能であり、霊魂を内的に喜ばせると共に、それを強めてくれます。但し、この理性的かつ認識可能な愛は、喜びを以てまた完璧に(divinement)苦しむ為には必ずしも必要ではありません。

 

53.ですから、霊的生活の大家たちの言う、霊魂の絶頂にして頂点というもう一つ別の愛又は、哲学者たちの言う、知性のそれがあり、‐それによって、悲鳴を上げ、呻き、泣き、安息を求めている、(霊魂の)下級部において、私たち皆がしばしば争い、不安に陥っているとはいえ、一切の喜びを感覚に於いて感じる事や、一切の理性的楽しみを霊魂に於いて気づく事がなくとも、純粋な信仰の見方を通して、自分の担う十字架を愛し味わいますので、私たちはキリストと共に『父よ、私のではなく、あなたの御旨が行われますように!』 と口にするか、あるいは聖なる童貞(聖母)と共に『我は聖主のつかいめなり、仰せの如く我になれかし!』 と口にするのです。

 

 私たちは、上級部にあるこれら二つの愛の内のこの一つによって十字架を愛し、快くそれを引き受けなければなりません。



(続く)

Totus tuus:



聖ロラン・スュル・セーヴル(Saint-Laurent-sur-Sèvre)にある
聖ルイ・マリー・ドゥ・モンフォールの墓





にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 

十字架の友に宛てた手紙』

第十六回


croix

 



 【大きな苦しみより、小さな苦しみを活用せよ。】

 

49. 規則八 またそれ以上に、大きな苦しみよりも小さな苦しみを活用して下さい。神は我々の苦しみ方ほど苦しみをご覧になりません。多く苦しむ事と悪く苦しむ事は、滅びる者として苦しむ事であり; 多くそして勇敢に、但し悪い理由から、苦しむ事は、悪魔の殉教者として苦しむ事であり; 神の為に、多くあるいは少なく苦しむ事は、聖人として苦しむ事になるのです。

 

 我々は十字架を選べるという事が真実だとしたら、それは特に、小さく取るに足りない十字架が、大きく輝かしい十字架と対比して現れるならば、それを選んでも良いという事なのです。というのも、人間本性の傲慢さは、大きく輝かしい十字架を要求し、追求し、それどころかそれを選んで抱擁さえするからです; しかし小さく取るに足りない十字架を選び、かつそれを歓喜して担う事は、大いなる恩寵と、神に対する偉大な忠実との効果でしかあり得ないのです。ですから、商人が帳場(ちょうば)に向かってする様にして下さい: つまり、(与えられた)十字架が蝿(はえ)かピンの一刺し、隣人のちょっとした欠点、無視による小さな侮辱、金銭の僅かな損失、霊魂内の些細な心配事、微かに感じる身体の倦怠感、あなた方の手足のどこかにある微々たる痛みなどでしかないなら、それら全てを活用し、この真の十字架の極僅かな小片を見逃さないようにして下さい。食料品店の店主がする様に、全てを活用して下さい、そうすれば、この店主が店内の帳場にあるドゥニエ貨(フランスの古銭)の上にドゥニエ貨を重ね置きするうちに、金において裕福になるのと同じ様に、あなた方はやがて神において裕福になるでしょう。あなた方に訪れる最も些細な災難に対しては、『神は賛美せられさせ給え!我が神よ、われ御身に感謝し奉る』 と言って下さい; 次に、あなた方が獲得したばかりの十字架を、あなた方の帳場のようなものである、神の記憶の中に隠して下さい、そして『心から感謝し奉る』 あるいは 『憐み給え』 と言う時以外は、それについてもう思い出してはいけません!



(続く)

Totus tuus:




にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 

十字架の友に宛てた手紙』

第十五回


croix

 



 【取り乱す事なく、自身の過ちについて遜(へりくだ)れ。】

 

 46. 規則五 無知によるどころか、自身の過ちによって、何らかの十字架を生み出してしまう幾らかの大間違いをあなた方がやらかしてしまう時、神の力強き御手の下に、故意に取り乱す事なく、例えば、心の中で:『聖主よ、これが私の熟練技なのです!』と言いながら、直ちにそれについて遜って下さい。そしてもし、あなた方の犯した過ちに罪があれば、それが原因で天罰として自分に戻って来る屈辱を迎え入れ; もしそこに罪が全くないなら、自らの高慢に対する辱めとして、この屈辱を迎え入れて下さい。しばしば、いやむしろ、非常に頻繁に、神はご自分の恩寵において最も高くされた、御自身のいとも偉大な僕たちが、最高に屈辱的な過失を犯す事をお許しになります。それは神が彼らにお与えになる恩寵と、彼らの行う善行とに関する思い上がった見方や考えを、『如何なる被造物も』、聖霊の言われるように、『神の御前で自慢しない』よう、彼らから取り除く為なのです。

 

 【神は我々を浄める為にお辱めになる。】

 

 47. 規則六 アダムの罪と我々の自罪によって、あなた方の内にあるものは全て堕落しており、しかもそれは単に肉体の諸感覚だけに留まらず、霊魂の全能力にも及んでいるという事、また我々の堕落した知性が、我々の内にある神からのある賜物を、熟慮と自己満足を以て眺める時、この賜物、その働き、そしてその恩寵は、完全に汚され堕落したものとなり、神は御自身の神的な御目をそれからお背けになるという事を十分確信して下さい。もし人間の知性の視線と思いが、人間の最高の行為と神の特上の賜物とをこうも台無しにするとしたら、知性の働きよりさらに堕落した人間本来の意志の働きはどうなることでしょうか?そういう訳で、もし神が、人間の視線や人間本来の自意識によって御自分の愛しい者たちが少しも汚されない為に、彼らを御自分の御顔の内奥に(dans les secrets de sa face)隠すのをお楽しみになるからと言って驚いてはなりません。彼らをこのようにして隠す為、この嫉妬深き神は何も容認されず、また何もされませんように!彼はどれだけの辱めを彼らにお与えになるでしょうか?神はどれだけ多くの過失に彼らが陥るままにされることでしょう!神は、聖パウロと同様に、どれだけ誘惑を、彼らが襲われるようにと、お許しになるでしょうか!彼は何という疑念、闇、困惑を彼らにお残しになることでしょう!おお!御自分の聖人たちにおいて、また彼らを謙遜と聖性に導く為の彼がお持ちの手段において、神は何と素晴らしい方なのでしょう!

 

 【自身の十字架の中にあって、傲慢の罠を避けよ。】

 

 48. 規則七 ですから、高慢で自惚れの強い信心家たちの様に、自分たちの十字架は大きいだとか、それらは自分たちの忠実さの試金石なのであって、自分たちに対する神の特別な愛の印だなどと考えないよう十分に気を付けて下さい。この霊的傲慢の罠は、非常に繊細かつ優美ではあっても、毒を含んでいるのです。あなた方は以下の事を信じなければなりません: つまり、1)自分の傲慢さと脆(もろ)さは、藁(わら)を梁(はり)と思わせ;虫刺されを傷口と; 鼠(ねずみ)を象と; 軽はずみな言葉や、真理に含まれる些細な事柄を耐え難い侮辱や残酷な放棄だと思わせるという事; さらに2)神があなた方にお送りになる十字架は、実際に、あなた方に対する(神の)特別な好意の印であるというよりは、むしろ、あなた方の罪に対する愛情に満ちた罰であるという事; そして3)あなた方の攻撃した、何一つ汚れを知らない、神の聖性を通してのみ; またあなた方の罪の外観を目の当たりにするという苦悩により死にかけ、打ちひしがれておられる神を通してのみ; あなた方が千度、いや恐らくは十万度も値した永遠の地獄を通してのみ眺めなければならないあなた方の罪の数と大きさを考慮に入れ、神はあなた方にお送りになる何らかの十字架や辱めを無限に容赦して下さっておられるという事; そして4)あなた方の小さな思いやりの目撃者や、秘かな慰めの追求、あなた方の友人たち、又は恐らくあなた方の指導者へのごく自然な接近、非常に巧みで素早い言い訳や、極めて上手く表現されており、大そう親切に発音される、あなた方に悪を行った人についての愚痴というよりは悪口、自分の不幸に関する回想や微妙な自己満足、さらにあなた方は大物であるというルチファー由来の確信など、あなた方が思っている以上に人間的かつ本能的なものを、自分が苦しんでいる時に伴う忍耐に混入しているという事をあなた方は信じなければならないのです。本能の紆余曲折をここで描写しなければならないとしたら、私は決してそうしないでしょう、苦しみの中にあってもです。



(続く)

Totus tuus:




にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ

にほんブログ村


 聖ルイ・マリー・ドゥ・モンフォールの祝日です。滞り気味の連載記事をこの日に掲載させて頂きます。どうかゆっくりとお読みください。この世の精神と天主の精神はどれほど違う事でしょうか!

 元号があと数時間で『平成』から『令和』へと変わります。明人天皇陛下、この平成の30年間、我々日本国民を励まし、良き模範をお示しになり、象徴としての御役務を完璧なまでにお果たし下さった事に心から感謝致します。また、美智子皇后陛下、この30年間日本国民の心の支えとなって下さった事に感謝致します。聖主よ、聖母マリアよ、令和の徳仁天皇陛下と雅子皇后陛下に祝福と御保護、そして願わくば、改宗の恩寵を与え給え!敵のあらゆる謀略からこの日本を守り給え!偽りの権力者と為政者たちをこの日本から一掃し給え!聖ルイ・マリー・ドゥ・モンフォール、我らの為に祈り給え!


***

十字架の友に宛てた手紙』

第十四回


croix

 



 【十四の規則】

 

 【故意にかつ自身の過失から十字架を手に入れてはならない。】

 

 42. 規則一 故意にかつあなた自身の過失から十字架を手に入れてはいけませんし;善が生じるよう悪を行ってはならず; 特別な<聖霊の>霊感もなく、人々の軽蔑を我が身に招こうと、不適切な方法で諸事を行ってはなりません。むしろ全ての事柄を立派に為されたと言われているイエズス・キリストに、自己愛あるいは虚栄心からではなく、神を喜ばせ、隣人を獲得する為、倣わなければなりません。しかも、もしあなた方が自分の職務を全力で果たすなら、あなた方の意志に反して、またあなた方の好みとは無関係に、神の御摂理があなた方にお送り下さる反対や迫害、そして侮辱にも事欠く事はないでしょう。

 

 【隣人の利益を考慮せよ。】

 

 43. 規則二 もしあなた方が、都合悪く、隣人の憤慨する、良くも悪くもない事をしているのであれば、小さき者たちのこの憤慨を止めさせる為に、それを愛徳によって控えて下さい; そうすれば、あなた方がこの機会にする愛徳の英雄的行為は、あなた方がしていたか、したいと望んでいた事より無限に価値があります。しかしながら、もしあなた方が行っている善が隣人にとって必要、もしくは有益であるならば、それからもしある偽善者又は意地の悪い人が、運悪くそれに憤慨するのであれば、自分の行っている事が大多数の隣人には必要で大いに有益であるかどうかを知る為、賢明な方の意見を求めて下さい; そしてもしこの判事が然りと判断するなら、それを継続して、あなた方の行う事に干渉さえしないなら、彼らには言わせておいて下さい。そしてこの場合、御自分の御言葉と御業に律法学者とファリサイ人たちが憤慨していたと教えに来た弟子たちの何人かに我らの聖主がお答えになった事: 『彼らを放っておきなさい、彼らは盲人である。』と回答して下さい。

 

 【聖人たちの卓越した聖徳を、自分はそこに到達していると主張せずに、感嘆せよ。】

 

 44. 規則三 ある聖人たち及び偉大な人物たちが、滑稽な行ないを以て、十字架や軽蔑、さらに侮辱を求め、探すどころか獲得しさえしたとは言え、彼らの霊魂における聖霊の特別な働きだけに礼拝を捧げ感嘆しましょう。そして、これらの素早い鷹や吼えたける獅子たちに及びもしない、意気地なしの青二才でしかない私たちは、大胆にも非常に高く飛ぶ事をせずに、極めて卓越した彼らの聖徳を前に、遜りましょう。

 

 

 【十字架の上智を神に求めよ。】

 

 45. 規則四 にもかかわらず、あなた方は十字架の上智を求めて良いどころか、求めなければならなりません。それは最も隠された玄義、とりわけ十字架の玄義を信仰の光の中で理解させてくれる、味わい深くも実験に基づいた真理に関する知識であり、過酷な労働、極度の屈辱、さらには熱心な祈りを以てしか手に入れないものなのです。もしあなた方が、最も重い十字架を担わせてくれる、この主要な精神を必要とするなら; 霊魂の上級部において、最も多く滴っている苦汁をなめさせてくれる善良で柔和な精神を必要とするなら; 神以外何も探し求めない聖にして真っ直ぐな精神を必要とするなら; 万事を含有する十字架の知識を必要とするなら; 要するに、その正しい活用が、霊魂を神の友情への参加者とする無限の宝物を必要とするなら、この上智を求めて下さい、絶えず、力強く、躊躇せずに、それを手に入れないのではないかという恐れを抱かずにこれを求めて下さい、そうすれば、あなた方はそれを確実に手に入れるでしょうし、その上、どのように人間は十字架を望み得るか、探し求め得るか、また評価し得るかを、経験を通じて、明瞭に理解するでしょう。


(続く)

Totus tuus:



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村





 十字架の友に宛てた手紙』

第十三回


croix




 【3.『これほど輝かしいものはない』】

 

 35. ですから、神があなた方に何らかの優れた十字架をお告げになる時には、喜んで歓喜に身震いして下さい; 何故なら、天において、さらに神において最も偉大なものが、気づかぬ内に、あなた方の上に降って来るからです。十字架という神の偉大な贈り物が!もしこれを理解するなら、あなた方は幾つもの御ミサを依頼し、聖人たちの墓でノベナを行い、この神の贈り物を天から獲得する為、聖人たちが行ったように、長い旅を計画するのですが。

 

 36. 人々はこれを狂気、恥辱、愚かさ、無分別、軽率と呼びます; これらの盲目的な人々には言わせておいて下さい: 十字架を人間として、また全く歪んで眺めさせてしまう彼らの失明は、私たちの栄光の一部をなしているからです。彼らが侮辱や迫害により何らかの十字架を私たちに与える度毎に、彼らは私たちを王座に就かせ、栄光の冠を被せてくれます。

 

 37. いやそれどころか、聖ヨハネ・クリゾストムは言っています、専制君主や皇帝たちの全財産、全ての名誉、全支配権、全ての輝かしい冠も、十字架の栄光とは比較のしようがなく; それらは使徒や聖書記者の名誉を凌いでいると。『もし私に選択の自由があるなら、‐聖霊に照らされたこの聖なる人はさらに言います‐天の神の為に耐える為、私は喜んで天国を去るだろう。私は天国の王座より、独房と監獄を選ぶだろう: 私はセラフィムたちの栄光を、最も偉大な十字架の栄光ほど欲していないからだ。私は、悪魔たちに命令し、自然を揺さぶり、太陽を止め、死者に生命を与える奇跡の賜物を、苦悩の名誉ほど高く評価しない。聖ペトロと聖パウロは、第三天にまで上げられ、天国の鍵を授かるより、独房の中で足かせ状態にある方が、より輝かしいのである。』

 

 38. 実際、『イエズスの御名によって、天、そして地上、さらに地獄の誰もが、屈従するように、あらゆる名誉に優る名誉』をイエズス・キリストに与えてくれたのは十字架ですよね?正しく苦しむ人の栄光というものは非常に偉大でありますから、天国や、天使たち、また人間たち、さらに天の神でさえ、それをまるで最も華々しい光景でもあるかのように喜んで観想しており、もし聖人たちに希望があるとすれば、それは何らかの十字架を担いにこの世へ戻って来るという事でしょう。

 

 39. しかしもしこの栄光がこの世においてでさえ偉大であるとするなら、天においてこの人が獲得するそれは一体いかなるものとなるでしょう?正しく担われる十字架のたった一つの機会を我々にもたらしてくれるこの『栄光の永遠の重み』をいつ誰が説明し、そして誰が理解するでしょうか?十字架と苦しみの一年、時には全生涯が天国にもたらす栄光というものを誰が理解するでしょうか?

 

 40.我が親愛なる十字架の友よ、天は間違いなくあなた方を、何か偉大なものの為に準備している、とある聖人は言っています、なぜなら聖霊は、万人が細心の注意を払って避けているものにおいてあなた方をいとも親密に団結させるからです。間違いなく神は、あなた方が自分の召命に忠実で、自分の十字架を、イエズス・キリストが担われた様に、正しく担うなら、あなた方が十字架の友となるのと同じ数だけの聖人及び聖女たちを生み出したいとお考えなのです。

 

 【D.『そして私に従いなさい!』】

 

 41.しかし苦しむだけでは十分ではありません: 要するに悪魔や世俗には殉教者がいるのです; しかしイエズス・キリストの足跡に倣って苦しみ、自分の十字架を担わなければなりません: 『sequatur me』、私に従いなさい!つまり彼がそれをお担いになったようにです;‐それで、以下のものは、その為にあなた方が守らなければならない規則です:



(続く)



Totus tuus:











にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ


カトリックランキング



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村





 十字架の友に宛てた手紙』

第十二回


croix




2.『これほど有益で甘美なものはない』】

 

34. しかし、その反対に、もしあなた方が立派に苦しむならば、十字架は非常に心地よい頸木(くびき)となることでしょう、イエズス・キリストがあなた方と共にそれを担って下さるからです。この十字架は天に昇る霊魂の二つの翼となり; あなた方を適切かつ容易に救いの港へと至らせる船の帆となるでしょう。あなた方の十字架を忍耐強く担って下さい、そうすれば、この立派に担われた十字架を通して、あなた方は自身の霊的闇の中で照らされる事になるでしょう; というのは、誘惑により何一つ苦しまない者は、何も知らないからなのです。喜んで自分の十字架を担って下さい、そうするならば、あなた方は神の愛に抱擁されるでしょう; 聖主に対する純潔な愛における苦しみなくして誰も生き続けはしないからです。薔薇の花は棘の中でしか摘めないものです。木が炎の糧となるのと同様に、唯一十字架だけが神に対する愛の糧となるのです。ですから、あなた方は『キリストに倣いて』にあるこの美しい格言を忘れないようにして下さい: 我慢強く苦しみながら、『おまえが自分に対して暴力を加える程度に応じて』神への愛において『前進するだろう』。十字架が自分に近づく時、それを拒絶し、遠慮してそれから何も獲得しない、過敏で怠慢な霊魂たちから何一つ大きなものを期待しないで下さい: つまりそれ(この種の霊魂‐和訳者)は、棘しか与えない不毛の地です、何故なら、この土地は賢明な農夫によって一切刈り取られも、踏み固められも、耕されもしないからであり; それは洗濯にも飲むのにも適さない腐った水なのです。喜んで自分の十字架を担って下さい、そうすれば、あなた方はそこにあなた方の敵の誰ひとり抵抗し得ない勝利の力を見出すでしょうし、他に類を見ない魅力的な優しさをそこで味わう事になるでしょう。そうです、我が兄弟たちよ、本当の地上の楽園とは、イエズス・キリストの為に何かを苦しむ事だと十分理解しておいてください。全ての聖人たちにお尋ね下さい: 彼らは最大の責苦を自分が耐え忍んだ時以外、霊魂にとって非常に美味な御馳走を一度も味わった事がないとあなた方に言うでしょう。殉教者、聖イグナチウス(saint Ignace martyr)は、『悪魔の全責苦が私に襲い掛かって来ますように!』、と言っていました。聖テレジア(sainte Thérèse)は、『苦しむか、死ぬことを』、と言っていました。パッツィの聖マドレーヌ(sainte Madeleine de Pazzi)は、『死ぬことではなく、苦しむことを』、と言っていたのです。また、十字架の(当時‐和訳者補足)福者ヨハネは、『御身の為に苦しみ蔑まれる事を』、と言っていましたし、他の多くの聖人たちは、我々が彼らの伝記で読む様に、同じ言葉で話しました。神を信じて下さい、我が兄弟たちよ: 私たちが神の為に喜んで苦しむ時、あらゆる種類の人にとって、『十字架は、聖霊曰く、あらゆる種類の喜びの原因となるのだ』。十字架の喜びは、あらゆる種類の財産によって満たされる百姓のそれより; ‐王座に就かされる百姓の喜びより; ‐無数の黄金を獲得する商人の喜びより; ‐勝利を収める軍隊の将軍たちの喜びより; ‐足かせから解放される囚人たちの喜びより; ‐最後に、我々が想像するこの世における全ての最大の喜びより大きいのです: つまり、立派に苦しんでいる、十字架に釘付けられた人の喜びは、これらの喜びを含有していると共に、それら全てを凌駕しているのです。


(続く)



Totus tuus:











にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ




にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村





 十字架の友に宛てた手紙』

第十一回


croix





30. 
見て下さい、親愛なる十字架の友よ、あなた方の目の前で、何も言わずに、私の言う事を立証している、証人の大群を見て下さい。順を追うなら、例えば、正義正しかったにもかかわらず自分の兄弟に殺されたアベル(Abel); 正義正しかったにもかかわらず地上におけるよそ者であったアブラハム(Abraham); 正義正しかったにもかかわらず故郷を追われたロト(Loth); 正義正しかったにもかかわらず自分の兄弟(エザウ)に迫害されたヤコブ(Jacob); 正義正しかったにもかかわらず失明に襲われたトビア(Tobie); 正義正しかったにもかかわらず貧しくされ、侮辱され、頭のてっぺんからつま先まで傷を負わされたヨブ(Job)を良く見て下さい。

 

31. 自らの血で赤く染められた数多の使徒と殉教者たち; 貧しくされ、侮辱され、追放されて拒絶された数多くの童貞及び証聖者たちを見て下さい、彼らは皆、聖パウロと共にこう叫んでいます: 『信仰の創始者にして完成者である、我らの善きイエズスを見よ(ヘ12.2)』; 私たちは彼と十字架に対して信仰を持っており; 彼は十字架を通って栄光へと入る為に苦しまなければならなかったのだと。イエズス・キリスト以外では、優しく罪を知らないマリアの御心の奥底まで貫いている鋭い剣を見て下さい、彼女は、原罪も自罪も、罪を一切お持ちでありませんでした。私たちが耐え忍んでいる事など、ご両者が耐え忍ばれた事と何一つとして比較にならないという事を証明する為、彼らの御受難についてここで延々とお話しする事が私に出来ないとは!

 

32. この後で、私たちの内の誰が自分の十字架を担う事を免れ得るというのでしょうか?私たちの内の誰が、十字架が自分を待ち受けていると知る所へ速度を上げて駆け付けないでしょうか?誰が殉教者聖イグナチウスと共に、『イエズス・キリストを享受する為に、火、絞首台、獣、さらに悪魔のあらゆる拷問が私に襲い掛かりに来るように!』 と叫ばないでしょうか?

 

. . . さもなければ、神から見捨てられた者たちように苦しまなければならない。

 

33.要するに、もしあなた方が忍耐して苦しみ、救霊を予定された者として自分の十字架を甘んじ担う事を望まないなら、神から見捨てられた者として、不平と苛立ちと共にそれを担う事になるでしょう。あなた方は契約の虹を鳴きながら引っ張った二頭の獣に似た者となるでしょう。自分の意に反してイエズス・キリストの十字架そのものに手を置き、それを担いながら、不平を言う以外には何もしなかったシレネのシモンをあなた方は模倣する事になるのです。最後には、自分の十字架の上から奈落の底の深みに堕ちたあの悔い改めない盗賊に起きた事があなた方に起こります。いいえ、そうではありません、私たちが生きているこの呪われた世が幸福な人々を生み出す事は皆無です; この闇に包まれた国でははっきり見える事がなく; この荒れ狂った海には完璧な静けさなど全くありません; この誘惑の地とこの戦場には全く争いが絶えず; 棘で覆われたこの世にあって刺し傷は決して避けられません。ですから、救霊を予定された者と神に見放された者は、そこで自分の十字架を嫌でも担わなければならないのです。次の四行を記憶に留めておいて下さい:

 

お前がカルワリオに見ている十字架から一つを選べ、

非常に賢く選ぶのだ;

聖人として、あるいは悔い改めた者として、

あるいは決して満足しない神に見放された者として苦しむ必要があるからだ。

 

すなわち、もしあなた方がイエズス・キリストの様に喜びを以て、あるいは悔い改めた盗賊の様に忍耐を以て苦しむ事を望まないならば、悔い改めない盗賊の様に、自らの意に反して苦しまなければならず; 恩寵の慰め一つもなく、最高に苦い杯をなめ尽し、イエズス・キリストの力強き援助も一切なしに、自分の十字架の全重量を担わなければならなくなるでしょう。さらにあなた方は、十字架が自身に引き起こすであろう不忍耐を通して、悪魔が自らの十字架に加える致命的重量を担わなければならず、この世で悔い改めない盗賊と一緒に不幸となった後、彼を炎の中に見つけに行かなければならなくなるでしょう。


(続く)



Totus tuus:











にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ




にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

2020年1月4日修正アップデート済み



 十字架の友に宛てた手紙』

第十回


croix



 【イエズス・キリストの肢体にとって!】

 

27. あなた方はイエズス・キリストの肢体です、何たる名誉でしょう!しかし、それとして苦しむ事がどれほど必要でしょう!頭(かしら)は棘の冠を被せられているのに、その肢体(手足)は薔薇の冠を被せられるのですか?頭はカルワリオへの道すがら嘲弄され泥まみれになっているのに、その肢体は王座で香水まみれになりますか?頭は休息する為の枕一つお持ちでないというのに、その肢体は羽毛や和毛(にこげ)の上でそっと横になりますか?それはとんでもない化け物でしょう。違います、そうではないのです、我が親愛なる十字架の伴侶たちよ、騙されてはなりません。至る所であなた方が目にする、流行を追って着飾り、素晴らしく繊細で、上品かつ厳かなキリスト教徒たちは、十字架に釘付けにされたイエズスの真の弟子でも肢体でもありません; これと反対の事を考えた瞬間から、あなた方は棘の冠を被せられたこの頭(かしら)や福音の真理を侮辱する事になるのです。おお我が神よ!自分は救い主の肢体であると思い込み、最も背信的な迫害者となっている、上辺だけのキリスト教徒たちがどれだけいることでしょう、何故なら、手を以て彼らは十字架の印をしておきながら、内心ではその敵であるからです!もしあなた方がイエズス・キリストと同じ精神により導かれ、完全に棘に覆われておられるあなた方のかしら、イエズス・キリストと同じ生涯を送るならば、棘(とげ)や鞭打ち、そして釘以外、一言で言えば、十字架以外は何も期待してはなりません、弟子がその師と同様に扱われ、肢体がそのかしらと同様に扱われる事は必要であるからです; もし天が、シエナの聖カタリナに対してされた様に、棘の冠と薔薇の冠をあなた方に差し出すのであれば、彼女と一緒に、躊躇う事なく、あなた方は棘の冠を選んで、イエズス・キリストに似た者となる為、それを頭に押し被せて下さい。

 

【聖霊の神殿にとって!】

 

28. 自分が聖霊の生ける聖所(les temples vivants du Saint-Esprit)であり、各自が活ける石として、この愛の神によって天上のエルサレムの住まいに配置されるだろう事をあなた方が知らないわけがありません。ですから、あなた方は十字架という金槌により切断され、刻まれ、形を整えられるのを待って下さい、でなければ、誰もがその用途を見出さず、軽蔑して遠くに投げ捨ててしまう原石のままあなた方は留まるでしょう。あなた方を打ち付ける金槌を跳ね返さないよう気を付け、あなた方を切ってくれる鋏(はさみ)とあなた方を裏返す手に注意して下さい!恐らく、この熟練し愛情のこもった建築家は、あなた方をご自分の永遠の建築物の礎石の一つに、また、天の御国において最も美しい肖像の一つにされたいのかも知れません。ですから彼に任せて下さい; 彼はあなた方を愛しておられ、御自分がしておられる事を御存知であり、経験をお持ちだからです; 彼の打撃の一つ一つは器用かつ愛情に満ちたものであり、あなた方が苛立ちによってそれを無下にしない限り、彼は決して誤った打撃を加えません。

29. 聖霊は十字架を:‐ある時は、良い麦粒と塵芥を吹き分ける唐箕(とうみ)に例えています: ですから、抵抗などせずに、唐箕の麦粒同様に、激しく揺さぶられ掻き回されるままになりなさい; あなた方は、一家の御父(Pére de famille)の唐箕の中におり、もうじきその穀物倉(こくもつぐら)にいるでしょうと; -またある時は、十字架を自らの炎の激しさを以て、鉄から錆を除去する火に例えています: 我らの神は、十字架を通して霊魂の内に、それを浄める為に留まるが、かつての燃えさかる木の茂み(脱出の書、323)と同様に、それを焼き尽くす事がない猛烈な炎であると ;‐またある時は、本物の金は精錬され、贋金(にせきん)は煙と化して消え失せる鍛冶屋の坩堝(るつぼ)に十字架を例えています: 正しい者は火の試しを我慢強く耐え忍ぶのに対し、偽者は煙となって炎から上がって行くと; 何故なら、苦難と試みという坩堝の中、十字架の真の友は自らの忍耐によって浄められるのに対し、十字架の敵たちは、不忍耐と不平とにより、煙と化してそこから立ち去ってしまうからです。

 聖人たちのように苦しまなければならない . . . 


(続く)



Totus tuus:











にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ




↑このページのトップヘ