2020年08月
2020年 聖霊降臨後第十二主日(証聖者、聖フィリッポ・ベニツィの祝日記念付き)ミサ
2020年 聖マリアの汚れなき御心の大祝日ミサ
2020年 証聖者、童貞聖マリアの御父、聖ヨアキムの大祝日(聖霊降臨後第十一主日の記念付き)ミサ
聖ピオ十世会日本人司祭O神父様に対する被昇天の元后聖母マリア様の贈り物
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2021年8月14日修正アップデート済み
それでは被昇天の元后聖母マリア様からの贈り物としてこの記事をお読みください。
Veritas liberabit vos!
⁂一部英原文にない下線及び括弧等は和訳者である私による補足です。
***
歴史的事実vs.新聖伝主義ワンダーランド
第一バチカン公会議により考察された
異端教皇問題
〔ここにある後続記事も参照せよ〕
異端者であるにもかかわらず有効な教皇であった教皇たちをカトリック教会はその歴史の内に有していたという、魅力的で便利であるが、完全に間違っており破滅的な見解を一部の自称“聖伝主義者”および“真のカトリック教徒”たちが目下宣伝しているが、ノヴスオルドウォッチでは、実際の教会の教えと検証可能な事実に沿って行きたいと我々は望んでいる。
マイケル・ヴォリス(Michael Voris:こちらの5:54)やエリック・ガジュスキー(Eric Gajewski:こちら)の如き自慢屋たちに並び、別のところで“異端者でありながら有効な教皇たち”という途方にくれる間違いを宣伝している最も人気のある能弁家たちの一人が、彼によるミサに関する新総則(the Novus Ordo Missae)に関する神学的分析の大惨事について我々がきついお仕置きをつい最近差し上げたばかりの匿名英国ブロガー、ムンダボール(Mundabor)である。“異端教皇”をメニューオプションの一つとして目立つように特集しているムンダボールブログのマストヘッド(ブログ最上部のタイトル部分)を御自身でご覧あれ、そこには、異端者でありながら有効な教皇が教会史上のある時期に存在した事を恐らく論証しているのだろう小論文のリストへと皆さまをおつれするリンクがある:
もちろん、 “教会史におけるいわゆる”異端教皇“についてムンダボールがこれほど快活である理由は、自分の宗教(ノヴスオルド宗教)を目下のところ苦しめている責任者、ジョルジュ・ベルゴリオ氏(通称”教皇フランシス“)が、聖ペトロの聖座を主張しているのを十中八九繰り返し目の当たりにするだろうくらいに、異端者であるは明らかであるからなのだ。分かり切った事を否めないどころか、フランシスの”教皇職“は詐欺、つまり、ベルゴリオ氏は偽者であり、全くもって有効な教皇ではない事を頑なに認めたがらないムンダボールは、教皇職を有効に保持する異端者という考えを擁護する-現実か想像の-歴史的前例に逃げ込もうと試みるのである。この様な不条理を擁護する歴史的前例が実際に存在するのかどうかということは、ムンダボールにとって完全に二の次なのだ。彼にとって第一に大事なのは、だらだらと不正確な方法を用いて、それ(”異端“教皇)に関する一つの前例を考案する事であって、これが自身の”異端教皇“ページ上でこのイギリス人ブロガーが現在拡散している事なのである。
教皇は異端者となり得るが、それにもかかわらずカトリック教会の頭のまま留まる事が出来ると信じるムンダボール、ヴォリス、ガジュスキー、その他の方々にとっては残念であるが、実のところこの(異端教皇)問題は、1870年に教皇の不可謬性に関する教義を明確に定めた第一バチカン公会議で取り上げられたのだ。シンシナティのジョン・バプティスト・パーセル大司教(Archbishop John Baptist Purcell of Cincinnati)は、当公会議からの帰国後に開かれた会議の中で、次の事をお話になった(セデヴァカンティストたちは単に僭越な狂人たちでしかないとお考えの方々は何方も細心の注意をお払い下さい):
そしてこの、『もし教皇が異端者になる場合、彼に対して何をすべきか?』という問題は、ある一人の枢機卿からも提起されました。この様な事例は未だかつてなかったが;司教評議会は異端を理由に彼を退位させる事が出来る、何故なら教皇が異端者となるその瞬間から彼は教会の頭どころかメンバーですらないからである、という回答が為されました。教会が偽りの教義であると知る教義を彼が教え始める時、教会は、暫(しば)しの間、彼に耳を傾ける義務を負わないだろうし、しかも彼は、神御自身によって退位させられる事により、教皇ではなくなるでしょう。
もし教皇が、例えば、神への信仰は誤りだと言うとしたら、あるいはもし彼が、『私はキリストを信じる』などの、使徒信経の残りの部分を否定するとしたら、貴方は彼に耳を傾ける義務を負わないでしょう。この推定は、その考えそれ自体、教皇聖下に対して侮辱的ではありますが、この主題が十分に考察され、広大な熟考があらゆる可能性に対して十分為されたという事を皆さまに証明するのに役立ちます。もし教皇が、全ての真の信徒に保有される教会の教義のいずれかを否定するならば、皆さまか私が教皇でないのと同じく、彼はもはや教皇ではなくなる事から、この点で不可謬性の教義は、帰するところ現世国家の条令か異端の擁護同様に、無きに等しくなります。
(ジェームズ・ジョゼフ・マクガバーン神父(Rev. James J. McGovern)著、教皇レオ十三世の生涯と一生をかけた仕事(Life and Life Work of Pope Leo XIII)[イリノイ州シカゴ:関連出版、1993年]のp.241で引用されている、ジョンB.パーセル大司教;シカゴのジェームズ・キグレイ大司教≪Abp. James Quigley≫によるimprimatur<出版許可>;下線加筆)
提供されたこの回答はセデヴァカンティストの立場と100%一致している。もしそれが皆さまを仰天させるとしたら、多分それは、レムナント紙(The Remnant)、ロラーテ・チェリブログ(Rorate Caeli)、カトリックファミリーニュース紙(Catholic Family News)、アンジェルスブログ(The Angelus)、及び同様の出版物を通じて教えられたレジスタンスプロパガンダ(the registance propaganda=異端教皇に対する抵抗宣伝)を読むのを止める時かも知れない。現実の歴史は清々しくもセデヴァカンティストである事が分かるのだ!
ごく頻繁に、人々は自ら検証もしない引用文、つまりインターネット上、あるいはSSPX(聖ピオ十世会)が発行する何らかのプロパガンダ小冊子で見つけるものを単にコピペをして、平然と広めるのである(主たる違反者:つまりエリック・ガジュスキーであり、彼はTRADCAST 003で詳述した様に、ある存在しない司教に宛てた存在しない手紙から“引用”したのだ)。またある時には、彼らのリサーチは完全に擦り取られ、カトリック教義もしくは神学と何一つ関係のない自作の類推(アナロジー)に置き換えられるのである(ムンダボール及びルーイ・ヴェルッチョ<Louie Verrecchio>は、この点について印象的手腕を先ごろ明らかにした)。我々のアドバイス:もしインターネット上の神学を真剣に論議していたいならば、実際に物を調べる為に図書館へ行くか、一冊か二冊の本を買う以上のもの(有識者)だと自分自身を見做していないか確かめよ-それはつまり、貴方が見つけるどんな証拠も、実際に貴方の立場を変えるよう要求するかも知れないという恐れに打ち勝つことである。
パーセル大司教によって語られた第一バチカン公会議発の秘話は、セデヴァカンティズム立証の証拠の山に加算する最新の発見に過ぎない。我々はこの驚嘆すべき発見について我々の友人であるCatholicism in a Nutshell blogの管理人、スティーブン・スぺレイ氏のリサーチに恩恵を受けている。我々はこの大司教の報告書から突出した点を、それらが誤魔化されないよう、概説すると共に、何点かの明解なコメントを下に加筆するつもりである。
パーセル大司教によって語られた様に、第一バチカン公会議におけるある詮索好きな枢機卿に与えられた回答によれば、
● どの教皇もこれまでに異端者だった事はない。(O神父様の御主張に対する回答になる)
● もし教皇が明白な異端者になるならば、彼は直ちに教会のメンバーではなくなる為、直ちに教皇ではなくなるだろう。
● 彼は、教皇に対しては何の権限も持たない教会によって退位させられるのではなく、教会の一致が依存している信仰の表明に、教会内のメンバーシップを依存させた、神御自身によって退位させられるだろう(教皇ピオ十二世、回勅ミスティチ・コルポリス<Mystici Corporis>, 22番を参照せよ)。
● 教会の司教たちは、先の教皇が自分自身を退位させたと宣言し得る-これは彼らが非教皇(the non-Pope)を解任出来るようにするだろうものである。
● (公の異端に陥ってはいても)それにもかかわらず教皇のまま留まる異端教皇という考えそれ自体、教皇職に対して“侮辱的”であり、またその結果としてカトリック教義に対しても然りである。
ムンダボールよ、お分かりになっただろうか?ガジュスキー氏よ、お分かりになっただろうか?聖ピオ十世会よ、お分かりになっただろうか?もしこれが今あなた方の説かれる見解に添わないとすれば残念であるが、真理というものは人がそれについてどう考えようが全く構いはしないのだ。
さて、世間には懐疑論者が多くいる事を知っている事から、我々はパーセル大司教の講演のこの抜粋が取り上げられているページの写真を提供している(掲載許可あり)-つまり我々が単にそれをでっち上げただけだとか、典拠資料を調べもしなかったなどと誰にも言わせない為である:
マクガバーン著、教皇レオ十三世の生涯と一生かけた仕事(1993年)、p.241
[アップデート:当書籍はオンラインのこことさらにここでも無料閲覧可能。]
この証言が裏付ける様に、第一バチカン公会議の教父たちが広範囲にわたるリサーチ、調査及び討論の後に、如何なる教皇もこれまで異端者であった事がない-つまり、リベリウス、ヨハネ二十二世、さらに “教皇異端”の非難に関連して大抵の場合持ち出されるその他の名前(の教皇)は異端者であった試しがない-と結論付けた事を再度強調しよう。これは教会の聖伝(the Tradition of the Church)であり、実際に“聖伝主義者”もしくは“聖伝カトリック”を自称する者なら誰でもそれに従いたいと望んでも差し支えないのだ。
とは言え、第一バチカンの教父たちは、教皇あるいはカトリックの歴史について何を知っていたのか、ですね?一つ確信出来る事がある:つまりムンダボール(ブログ)は屈服しないだろうという事である。彼の全論法における第一前提(His first premise)は、セデヴァカンティズムは間違いであり、それ以外のもの全ては、その結果がどれほど虚偽又は不合理なものであろうと、全教義の中でもこの教義(第一前提:セデヴァカンティズムは間違いである)には一致しなければならないのだ。悲しいかな、これは現代において極当たり前の症状である:つまり予め決定され、かつ望まれた結論により操られる論法なのだ。これは真理に到るやり方ではなく;どちらかといえば、正しい論法の倒錯である。それは自分が予想している確信に真理の外観を与えるという単に狡猾なやり方でしかないのだ。ノヴスオルドウォッチでは、自分たちが何について話しているのかを理解している:要するに、我々全員がある時点でノヴスオルド教徒(公会議教会信徒)であったが、セデヴァカンティストの立場への回心者だという事である。我々全員である。自分は間違っていた、あるいは騙されていたという事を認めるのは容易ではないとしても、それは必要なのだ。
教皇は異端者になり得るし、それにもかかわらず彼は教皇であるという考えを手際よく宣伝する人々から大概忘れられてしまう一つの極めて重要な考察とは、この様なシナリオが教会の神的創立の本質的(四つの)印の一つである、教会の一致の終わりへと導くだろうという事である;というのも、この様なシナリオはカトリック教会の宗教とは異なるものを公言しながら、教会のメンバーであり得る-どころか、教会の頭であり得る-という事を意味するからだ。換言すれば、教会は信仰において一つではないだろうという事なのである。しかしこれは異端なのだ:『一つの身体にして一つの霊である;あなた方の召し出しによって、一つの希望に召されているのと同様に。一つの主、一つの信仰、一つの洗礼』(エフェ4:4);『教会は信仰、組織、交わりにおいて一つでなければならないと神なる創立者がお命じになった時、彼(イエズス・キリスト)はペトロとその後継者たちを、言わば、一致の原則及び源泉としてお選びになったのです。』(教皇レオ十三世、回勅 サティス・コニトゥム、15番)。
教会史における何人かの教皇たちは異端者だった、つまり、彼らは明確に定められた教義(defined dogma)を否定したという主張を立証する為、大方持ち出される様々な主張を吟味して論駁する、 “異端”教皇(”Heretical” Popes)と呼ばれる進行中の連続ブログ投稿が我々にはある。それ(“異端”教皇説)はただ単に真実でないだけではなく、第一バチカン(公会議)以降も、依然としてこのような主張をした人々だけが-我々が知る限りにおいて-排斥されたのだ:
という事で、またしても 本物のリサーチ(real research) がセデヴァカンティストの立場を確証してくれたのである。もしあなた方が非セデヴァカンティストの偽“聖伝主義者たち(Traditionalists)”の後を追えば、彼らのプロパガンダはあなた方の責任で流出してしまうのだ。
〔ここにある後続記事も参照せよ〕