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ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!
10. その逆に、俗人たちはその悪意に固執する方に突き動かされるので、毎日こう叫んでいます:『人生だ、人生!平和だ、平和!喜びだよ、喜び!食べて、飲んで、歌って、踊って、楽しもうよ!神は善い方で、神は滅ぼす為に我々をお創りになったわけじゃないんだ;神は気晴らしを禁じてなどいない;我々はその為に地獄に堕ちたりはしないだろう;心配は無用!non moriemini(ノン・モリエ―ミニ:我々は死なないだろう)など。』と。
11. 我が親愛なる同僚たちよ、私たちの善きイエズスが今皆さんをご覧になり、一人ひとり別々にこう仰っている事を忘れないように:『十字架の王道にあって、殆ど全ての者が私を見捨ててしまう。盲目な偶像崇拝者たちは、我が十字架をまるで狂気でもあるかのように嘲(あざけ)り、頑ななユダヤ人たちは、憎しみの対象でもあるかのようにそれに憤慨し;異端者たちは、それを壊し、軽蔑に値するものかの如く葬り去っている。ところが、両目に溢れる涙と苦悩に貫かれた心以外、私には語れない事がある、それは我が胸の中で育み、我が学び舎で教育した我が子ら、そして我が精神(mon esprit)を以て突き動かした肢体たちが、我が十字架の敵となる事で私を見捨て、軽蔑したという事なのだ!-Numquid et vos vultis abire? そしてあなた達、あなた達もまた、十字架については反キリストたち:antichristi multi(多くの反キリストたち)と同程度の俗人たち同様に、我が十字架を避ける事で、この私を見捨てたいと少しも思わないのか?あなた達はこの時代に順応し、富を追い求める為に、我が十字架の貧しさを軽蔑し; 快楽を求める為に、我が十字架の苦悩を避け、名誉を切望する為に、我が十字架から来る屈辱を免れたいか?一見して私には沢山の友人がいる、しかし彼らは、私を愛していると主張しているが、その実、我が十字架を愛さないのであるから、私を嫌っているのだ;我が食卓の友人は多くいるが、我が十字架のそれは非常に少ないのである。』
12. イエズスからのこの甘美な呼びかけに対し、私たちは自分を超越しましょう;イヴ同様に、官能に誘惑されないようにして下さい; 十字架に磔(はりつけ)にされたイエズスという、私たちの信仰の創始者にして完成者だけを見つめましょう; 堕落した人々の色欲による退廃を逃れましょう; そして美しいやり方、つまりありとあらゆる十字架を通して、イエズス・キリストを愛しましょう。私たちの愛すべき師が下さった、キリスト教生活の全完徳を内に秘めている、この驚くべき御言葉を黙想しましょう: 『Si quis vult venire post me, abneget semetipsun, et tollat crucem
suam, et sequitur me! (もしある人が私の後について行きたいと望むならば、彼は自分を棄て、自分の十字架を担い、私の後に従え!)』
(続く)
【B.二つの集団】
7. これこそ、我が親愛なる同僚たちよ、これこそが日々現れる二つの集団であります:つまりイエズス・キリストの集団と世俗のそれです。我らの愛すべき救い主の集団は右側にあり、登りの、窮屈で、世俗の退廃によりかつてないほどに狭められてしまった道にあります。この良き教師(Ce bon Maître=聖主イエズス・キリスト)はそこでは先頭にお立ちになり、裸足で歩いておられ、その御頭は棘(いばら)の冠を被されていて、その御身体は完全に血に染まり、重い十字架を一つ担わされておられます。そこには一握りの人々しかいませんが、この教師に従うほど最も勇敢な人々です。何故なら世俗の喧騒のただ中では、彼の非常に繊細な御声が人々には聞こえないか;彼の清貧、苦悩、恥辱において、さらに彼に奉仕する為に、生涯に亘って日常どうしても担わなければならないその他の十字架において、彼の後に従う勇気が人々にはないからです。
8. 左側には、最も大きく、最も壮麗であり、少なくとも見た目は最も輝かしい、世俗又は悪魔の集団があります。大多数の人々は皆そこに雪崩込(なだれこ)み;そこに向かう道は広く、奔流の様にそこを通る群衆によってこれまでにないほど拡張されているにもかかわらず、彼らはそこでひしめき合っており; 花で覆われ、快楽と遊戯に囲まれ、金銀に塗(まみ)れています。
9. 右側にあるイエズス・キリストに従う小さな群れは、涙、苦行、祈り、そして世俗の軽視以外何も語らず;嗚咽(おえつ)により途切れた次の言葉が絶えず聞こえます:『苦しもう、泣こう、断食しょう、祈ろう、隠れよう、遜(へりくだ)ろう、貧しくなろう、苦行しよう;十字架の精神であるイエズス・キリストの精神を持たない者は、もはや彼のものではないからだ; イエズス・キリストのものである者たちは、自らの肉体をその欲望と共に十字架に釘付けにしたのである;イエズス・キリストの御姿に一致するか、滅びなければならない。彼らは、勇気を出せ!勇気をだせ!と叫ぶ。もし神が我々の味方であり、我々の内におり、我々の先頭に立っておられるなら、誰が我々に逆らうだろうか?我々の内におられる御方は、世俗にある者よりも強いのだ。下僕は主人と同等ではない。一つの軽微な苦難の瞬間は栄光の朽ちない目方を生み出す。選ばれた者は人々が考えるほど多くない。そこには天国を力ずくで奪う大胆で激しい者たちしかおらず;流行にではなく、福音に従って正当に戦った者しか栄冠を受けないだろう。だから力を出して戦おう、この目的に達する為、その栄冠を勝ち取る為に、もっと早く走ろう!』。 以上は神の御言葉であり、十字架の友はこれにより互いを元気づけるのです。
(続く)
5.我が親愛なる十字架の友よ、自分の行動を通して、あなた方は自分たちの肩書が意味するような者でありますか?あるいは、少なくとも、カルワリオの十字架と憐みの貴婦人<聖母>の陰にあって、神の恩寵によってそうなりたいという正しい望みと真の意志をあなた方はお持ちでしょうか?あなた方はその為に必要な手段を講じておられますか?あなた方はカルワリオの狭く刺々しい道である、人生の真の道に入りましたか?あなた方はその事を考えもせず、滅びの道である、世俗の広い道にいるのではありませんか?人間にとっては真っ直ぐで安全に見えても、死へと案内する一つの道がある事をあなた方は十分御存じですか?
6. 神および神の恩寵の声と、世俗および自然界の声とをあなた方は十分に聞き分けていますか?世俗の諸欲に従う者全てに対し『vae, vae, vae habitantibus in terra: 地に住む者たちは災いなるかな、災いなるかな、災いなるかな』という三重の呪い後で、『Separamini, popule meus:離別せよ、我が選ばれし民よ、我が子の十字架の親愛なる友よ;我が威光により呪われ、我が子により破門され、我が聖霊によって断罪された世俗のものから離別せよ』と、両腕を広げつつ、愛情込めてお叫びになっておられる我らの良き御父であられる神の御声が良く聞こえますか?完全に毒された彼らの席に座るな、彼らの助言に従うな、彼らの道に立ち止まりさえするな。かの偉大で忌まわしいバビロンの中心から逃げ出せ;あなた方の道となり、あなた方の真理となり、あなた方の命となり、またあなた方の模範となる為に私があなた方に与えた親愛なる我が子の声だけに耳を傾け、その足跡だけに従え:つまり『Ipsum audite:彼に聞け』。 『Venite post me:私に従え』;私に従う者は、もはや闇の中を歩かない;『confidite, ego vinci mundum:信頼せよ、私は世に打ち勝った』とあなた方に叫ぶ、十字架を担わされた、愛すべきイエズスにあなた方は耳を傾けていますか?
(続く)
『さらに彼は、その御名を汚す為、神に対する冒涜に口を開いた。』(黙 13:6). . .
フランシスが又もや冒涜する:
『この聖霊は災難です』!
自らの横柄な自己ではない時、フランシスは陽気で年老いた仲間である。彼は周囲の人々と冗談を飛ばすのを好み、不謹慎な時を楽しむ-それは特に、いとも聖なる三位一体を犠牲にする時にそうなのだ。我々はただ僅か二三の例だけを思い出せば足りる:
・Bergoglio makes Joke about the Crucifixion of Christ
(ベルゴリオがキリストの十字架を冗談にする)
・Francis cracks Joke about Most Holy Trinity
(フランシスがいとも聖なる三位一体について冗談を言う)
今日“聖下”は、新たな冗談の時なりと判断し、聖霊を“災難”と呼んだ。すごく可笑しい、でしょう?
奉献及び使徒的生活会省により奨励される国際大会の参加者たちに話しながら、フランシスは用意してあった見解を脇に置いた。それは、自身で述べている様に、『この時に相応しい事を話』したかったからなのだそうだ。『この時に相応しい』事柄の中には、次の名言がある:
それから、他にもあります:この聖霊は災難です、彼は創造的である事に絶対うんざりしないからです!今、奉献生活の新しい形態と共に、彼は本当に創造的でありますし
. . . カリスマと共に . . . 。 興味深いです。彼は多様性の作者でありますが、同時に一致の創り主でもあるのです。これが聖霊です。そしてカリスマの多様性と多くの事柄とを用いて、彼はキリストの身体の一致のみならず、奉献生活の一致をも形成するのです。そしてこれもまた挑戦なのです。
(反教皇フランシス、ジム・フェア氏、『教皇フランシス:奉献されたものは正統なガイドを必要とする』、ゼニット(“カトリック系”ニュース機関)、2018年5月4日発行; 下線加筆)
ジョルジュ・ベルゴリオは自身による即興の見解をイタリア語で述べているが、ヴァティカンのウェブサイトには、次の通りその元々の言い回しがある:
Poi, c’è un’altra cosa: che questo Spirito Santo è una calamità,
perché non si stanca mai di essere creativo! Adesso, con le nuove
forme di vita consacrata, davvero è creativo, con i carismi… E’ interessante: è
l’Autore della diversità, ma allo stesso tempo il Creatore dell’unità. Questo è
lo Spirito Santo. E con questa diversità di carismi e tante cose, Lui fa
l’unità del Corpo di Cristo, e anche l’unità della vita consacrata. E anche
questa è una sfida.
(反教皇フランシス、奉献及び使徒的生活会省により奨励される国際大会の参加者たちへの演説、ヴァティカン公式ウェブサイト、2018年5月4日; 下線加筆。)
いとも聖なる三位一体の第三のペルソナ(位格)を示す為に彼が用いるイタリア語は、calamitàという言葉であり、それは英語の“calamity(不幸)”又は“disaster(災難)”に相当するものなのだ。誇張であろうがなかろうが、さらに冗談であろうがなかろうが、これは冒涜である! ゼニットの翻訳とヴァティカンウェブサイトの原文は、ちなみにではあるが、どちらも彼がこう聖霊を侮辱した時に、“笑い声”が上がった事に言及している。これは、彼がうんざりするほど単調にしゃべり続けるあの“喜び”(つまり『愛の喜び』)に違いない!
神に対する分かり切った直接の侮辱は別として、ここにはもう一つ別の問題がある。神の第二戒はこう明言する:『汝、天主の御名をみだりに呼ぶなかれ: 何故なら、汝の神である聖主は、己が天主なる聖主の御名をみだりに扱う者を無罪だと見做さないだろうからだ。』(脱20:7)と。それから再度、少なくともアモーリス・レティツィア(Amoris Laetitia)以降、天主の十戒は、罪人たちの置かれている状況の具体的背景と、一人ひとりの罪人特有の個人的“限界”とに従って相対的に扱われる為、ベルゴリオによって、十の理想又は十の提案という地位にまで下げられてしまった。言い換えれば、“驚愕の神”は、実のところ十戒は副次的なものに属すると我々に今明かしたのである!
フランシスは十分に注意した方が良かった、何故なら彼は以後逃げ出すことは起こりそうにない地位に就いているからだ:『だからお前たちに言う:罪と冒涜はどれも赦されるだろう、しかし霊に対する冒涜は赦されない。また何であれ、人の子に反する言葉は赦されるだろう; しかし聖霊に反して話す者は、現世においても来世においても赦されないだろう。』(マタ12:31-32)
ドミニコ会の倫理神学者であるジョン・マックヒュー神父(Fr. John McHugh )とチャールズ・カラン神父(Fr. Charles Callan)は、聖霊に対する冒涜を“甚だしい悪意から発された神への侮辱”(n. 898)と定義しているのだ。彼らは次の様に説明している:
899. 罪を防いでそれを取り除く神の超自然の賜物は、聖霊に割り当てられる; またこれらは六つに限定され得る事から、同様に聖霊に対する罪も六つある(即ち、霊的生活に対する六種類の軽蔑的無視)。内心の侮りの表現は冒涜である。
(a) 人は、憐み深く同時に正義正しい御方としての、神に関する思いが彼の内に引き起こす恐れと混ざり合った希望によって罪から守られる。従って、これら罪の神的予防法を追い出す絶望と厚かましさは、聖霊に対する冒涜である。
(b) 人は、次に、神が真理を知る為、自分に与えて下さる光と、全ての者が善を行えるよう神が拡散する恩寵によって罪から守られる。従って、既知の真理への抵抗と神の御国の発展への不満もまた、真理と聖性の霊に対する罪である。
(c) 人は、罪それ自体の恥ずかしさと、罪が提供する束の間の満足の空虚さによって罪から守られる; 何故なら、前者は彼をして犯した罪を恥じる、あるいは後悔したい気にさせるのに対して、後者は罪について彼をうんざりさせ、それを諦めさせる事に役立つからである。従って、罪を深く悲しみはしないという決心と、このような決心への頑なな固執もまた、聖霊に対する罪である。
900. この世には、もしそれについて悔悟しているならば、赦され得ない罪はない。では、どうして聖霊に対する冒涜は、現世においても来世においても、赦されないだろう(マタ12:31)と聖主は言われるのか?
(a) ちょうど幾つかの病気はその性質上癒しがたいのと同様に、聖霊に対する罪がその性質上赦しがたいのは、それが単に悪い状態を築くのみならず、改善に導き得る事柄を追い払って抵抗するからである。従って、もし誰かが絶望するか、付け上がる、あるいは真理か善に抵抗するか、過ちあるいは悪を放棄しないと決心するなら、彼は赦しに必要となる悔悟の治療法を締め出すのである; 一方で、もし誰かが激情か無知から罪を犯す場合、信仰と希望は残り、彼が悔悟するのを助ける。
(b) もし我々が神の全能を考慮に入れるなら、聖霊に対する罪は赦しがたいものではない。ちょうど神には人間的に不治である病気を奇跡的に癒す事が出来るように、彼には、その性質上、赦しがたい罪を赦す事が出来る; 何故なら彼は、例えば、絶望の内にある人々に希望と悔悟をもたらす事が出来るからである。従って、我々は繰り返すが、もしそれについて悔悟するならば、この世において赦され得ない罪というものはない。
901. 人は突然もしくは段階的に、故意の罪あるいは冒涜の状態に至ってしまうのだろうか? (a) 罪にある悪意(即ち、無知か激情により弱められていない者による悪の自発的選択)は、長く続いた習慣が、罪を魅力的なものにした時の様に、時に悪へと向かう強い傾きを有する意志それ自体にある無秩序に起因する。この様な状態の中で、人が突然冒涜に至らないのは明白である。例えば:ティトゥスが進んで自責の念もなく冒涜を吐くというものだ。これは、彼が(冒涜の)達人であって、素人ではいという事を立証する、何故なら、(冒涜を吐く)準備と(冒涜を吐く事への)強い傾倒は熟練の印だからである。(b) 罪にある悪意は、時に意志が罪に対するある防護を失ってしまった事に起因しており、またそうであるからこそ、聖霊に対する罪が犯された時に起こるのと同じく、それは躊躇せず喜んで罪を選択するのだ。一般的に、聖霊に対する罪に含まれる神の賜物の侮辱は、突然出て来るわけではなく、進行性の堕落の最高潮(格言18:3)として後に続くのである; しかし、人間は自由であり、また罪は非常に魅惑的である事から、取り分け、もし人が他の事柄について事前に注意していないならば、突如として冒涜者となる事はあり得る。しかしながら、宗教心のある者が、忽(たちま)ち冒涜者あるいは悪辣な罪びとになる事は不可能に近い。
(Rev. John A. McHugh & Rev. Charles J.
Callan, Moral
Theology, vol. 1 [New York, NY: Joseph F. Wagner,
1958], nn. 899-901; available online here.)
フランシスが神御自身について冗談を吐く時の気楽さは、極めて不穏であるし、病んだ人間と危険な狼が、これらの牧者の服装の中に隠れている事を明らかにする。『口から出るものは、心から出るのであり、それが人を汚すのだ。何故なら、悪しき思い、殺人、不倫、姦淫、盗み、偽証、冒涜は心の中から出て来るからである。これらは . . . 人間を汚すものなのだ。(和訳者試訳)』(マタ15:18‐20)
誰もが明白な結論をここから引き出す事が出来る。
災難が進行する限り、もしフランシスが絶えず真摯に災難と遭遇したいと望むなら、我々は彼が鏡の中を良く眺めるよう提案する。