セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2017年01月

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2017年2月11日アップデート済み
 
 『教皇に抵抗するという事、セデヴァカンティズムとフランケン教会』 第四回を掲載します。度々申し上げますように、「R&R」とは聖ピオ十世会とその賛同者/団体を指しています。つまり「公に異端を公布した公会議教皇たちを真のカトリック教皇と承認しつつも、彼らが公布した全ての異端教義と悪法には抵抗する」という誤った原則を作り上げた、カトリック神学および原則を無視する、自称聖伝主義者のことです。カトリック神学は「公に異端に陥る聖職者はその職務を、ipso facto(自動的に)、失う」と教会法188条4項その他で不可謬に教えているのですが。

 文中に現れる<>マークは、和訳者からの補足です。

 追伸、

 真のカトリック司祭による真の聖伝ミサに与りたい方は、こちらをお読み下さい。 

*********************


 

Ⅱ.セデヴァカンティズム

 

 聖伝カトリック教徒たちが認識している諸悪と誤謬は、言い換えるなら、立法者が自身の権威を喪失したという確証です。セデヴァカンティズムは単に、どのようにして <喪失したの> かを説明しようとしているだけです。

 

 ここでは、教会それ自体には信仰から変節する事が出来ない一方で、教会の職務に就く個人のメンバー にはそれが出来る事を、カトリック神学と教会法が私たちに教えてくれます。もし彼が公に変節する(教義を変える)とすれば、自動的に彼は自らの職務(権威)を失うのです。[[1]]

 

 この原則は教皇にでさえも当てはまります。16世紀以降、この問題を扱った教会法学者と神学者たちのほぼ全員が、明白な(公の)異端者になる教皇は“神法によって、如何なる宣告も伴わずに、職務から転落するだろう”と教えています。[[2]]

 

 ここでは第二バチカン後の教皇たちにこれがどう当てはまるかを説明します。

 

A. 定義された異端(Heresy Defined)。

 

 異端者とは、『洗礼を授かって後に、神聖(divine)かつカトリックの信仰により信ずべき諸真理の何れかを頑なに否定するか疑う人である。』[[3]]

 

 教会法学者のミッシェルは、三つの問題を明確に区別しなければならないと警告します:

 

1)教義的(Dogmatic)‐間違った教義としての異端。

2)道徳的(Moral)‐としての異端。

3)教会法的(Canonical)‐教会法的犯罪delictum)としての異端。[[4]]

 

 ここで私たちには、ポイント(1)と(2)の、間違った教義と罪だけを論じる必要があるだけです。何故なら、教皇による公の異端‐<つまり>神の 法に対する違反‐の は、彼からキリストの権威を剥奪します。[[5]] ポイント(3)は当てはまりません、最高立法者としての教皇には、教会法に反する教会法的犯罪(delictum)を犯す事が出来ないからです。

 

 これは重要な区別です、と言いますのは、マイケル・デイヴィス(Michael Davies[[6]]のそれに似た反セデヴァカンティスト小冊子は、決まって 教会法的犯罪 としての異端だけに当てはまる諸基準を、誤って異端の罪に適用するからです‐それは殆ど、殺人の a sin of murder)は、殺人の罪(the crime of murder)に関して国の刑法が設けた基準を満たさなければ存在し得ないと言わんばかりです。

 

 (1否定された教義。教義というものは、教会がそういうものとして確実に(authentically)提唱した“神聖にしてカトリックの信仰”の箇条でなければなりません。

 

 事前の エクス・カテドラ あるいは公会議の決定は必要とされないのです。『普遍通常教導権の明白な教えは、信徒による遵守の為にある真理が確実に提唱されるのに十分です。』[[7]]

 

 異端者は『明白な言葉、又はそれ同等の言葉で』[[8]]、矛盾した主張か正反対の主張の何れかによって[[9]]、教義を否定するかも知れません。

 

 (2罪/執拗さ。『異端の行為とは知性の誤った判断であるが故に、』、ミシェル曰く、『異端の罪を犯すには、教会の教導権に反するこの誤った判断を、故意に、そして進んで表明するだけで十分である。』教会に於ける信仰の基準の存在を熟知していながら、その内のどんな点についてであれ、また動機が何であれ、さらにその形がどのようなものであれ、それ<信仰の基準=教導権>に服従するのを拒絶する瞬間から、形相的異端<=正式な異端>が完成しています。

 

 『教会の教導権に対するこの意志の伴った反抗は、著者たちが異端の罪に要求する 執拗さ なるものを構成します。執拗さは必然的に異端から生まれる長期の執拗さや教会からの諸警告を含まないという事を、カエタノと共に私たちは認めなければならない。異端のの条件と、教会法により罰せられる異端の教会法的犯罪は別物である。』[[10]] 

 

 この言葉は、教皇が異端に固執していると結論を下し得る前に、審理あるいは教会法による警告が要求されるだろうという、何度も聞かされたRRの理屈を粉砕します。

 以上申し上げた二点を、第二バチカン・エキュメニカル・超教会異端(the Vatican II ecumenical super-church heresy)と私が呼ぶものに当てはめようと思います . . . 

 

 


(続く)

[1]:教会法188条第4項。『法の効力がもたらす暗黙の辞任により、もし聖職者が . . . 4)公にカトリック信仰を棄てた場合. . . . 全ての職務は、[ipso facto:自動的に]かつ如何なる宣告も伴わずに、空位となる。』 

[2]:マテウス・コンテ・ア・コロナータ(M. Conte a Coronata)、教会法諸法令-Institutiones Juris Canonici-(ローマ、マリエッティ1950年)1:316.私の小冊子 聖伝主義者、不可謬性と教皇(Traditionalists, Infallibility and the Pope) は同類の引用文を多く含んでいます。無料版のお求めなら、parishoffice@sgg.orgまで連絡下さい。教会法学者たちと神学者たちは、公に異端を表明する教皇と個人的にそれを信奉する教皇(『秘密の/隠れた』異端者)を区別する為に、『明白な(manifest)』、『周知の(notorious)』、あるいは『公の(public)』異端者という用語を用いている。後者(秘密の異端者)は、共通の教えによれば、職務を喪失しない。

[3]:教会法1325条第2項。

[4]A. ミシェル、『異端、異端者、』DTC 6:2208。『ただし、教義と見做される異端と関係のある教義的な問題、また罪と見做される異端と関係のある問題、そして違反と見做される異端と関係のある問題とを区別しなければならない。』

[5]:ルイ・ビヨ、De Ecclesia Christi(ローマ、グレゴリアン 1927年)1:632。『彼は自動的に教皇の権威を失うだろう、何故なら彼は自らの意志で教会の外に身を置くからである。

[6]私は何時もあなた達と共にいる‐I Am Always With You-(ロングプレィリー:ニューマン 1997年)特に467ページを参照せよ。445ページにおいて、デイヴィスも同様に、ヴェルンツ-ヴィダルの教会法Jus Canonicum (ローマ:1952年)は、異端的教皇は退位させられたと我々が考え得る前に、教会からの『宣言的判決(declaratory sentence)』を要求していると仄めかす事により半面真実を読者たちに提供している。実際には、異端的教皇はipso facto(自動的に)自らの権威を喪失するとヴェルンツ-ヴィダルは二度 言っている。”ante sententiam declaratoriam Ecclesiae sua potestate privates existit . . . ipso facto R. Pontificemhaereticum(異端的ローマ教皇)exciderere sua potestate.” 彼(原文のまま:著者)の主眼的。

[7]:ミッシェル、DTC 6:2215

[8]R. シュルツ、カトリック教会について:護教的前文De Ecclesia Catholica: Praelectiones Apologeticae(パリ:ルティエル― 1931年)、638”Verbis explicitis vel aequivalentibus.”

[9]:ミッシェル、DTC 6:2213。例:キリストは神人(God-Man)である=de fide(信仰箇条として信ずべき事柄)。キリストは神人ではない=矛盾命題。キリストは純然たる人間であり、キリストは天使である=矛盾命題。

[10]:ミッシェル、DTC 6:2222。省略された引用。



 



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2017年1月17日アップデート済み

 
 『教皇に抵抗するという事、セデヴァカンティズムとフランケン教会』 第三回を掲載します。異端を公布し、それを強いる”教皇”に抵抗するという英雄的主役を演じているつもりの聖ピオ十世会及び同系列の自称聖伝主義者たちは、この役が『異端的カトリック教皇』、『異端的カトリック教会』という異端思考を多くの霊魂に刻み込んでいる事を自覚しているのでしょうか?自覚がないならば、それは彼らが単に無知だからと言えます。しかし、自覚があるならば、それは彼らが自分たちの考案した異端説を執拗に擁護し、それにしがみついているからと考えられます。これこそはプロテスタント的態度というものです。カトリック教皇もカトリック教会も信仰と道徳に関して不可謬である事は言うまでもない事ですが、R&R派(聖ピオ十世会系聖伝主義者)には、それは単に理想論であり、この時代においてはその上に蓋をして無視しなければならない厄介者と映っているようです。これほど重要な真理に蓋をし、かつ無視してまでも彼らが守り通そうとしているのは、「聖伝継承を担うカトリック教会の一員という世間体」ではないでしょうか?世界中がカトリック教会として認知しているフランシス一世下の異端教会の中で聖伝部門を担当する事に矛盾も感じない彼らは、もはや信仰を失ったと言えます。彼らにとって『教皇と教会の不可謬性』や『教会の非変節性』などそれほど重要ではありません。彼らは自分たちの会の存続の為にこれらのカトリック教義を犠牲にしています。疑問を感じ、矛盾に気づき、自分の立場を思って良心の呵責を感じる会員及び信徒たちには『ロザリオの十字軍』をちらつかせる。聖母マリア様は、異端を粉砕する御方であって、異端に染まった霊魂の理性を鈍らせる御方ではありません。O神父様、どうか一日も早く、異端に染まった御会から離れて下さい。カトリック信仰を真に擁護し、真のカトリック司祭として生きる為に!

******************************



 C.
 神学者たちは、真の教皇の法と教義に対する公の“抵抗”を支持しない。



 上述の事柄に直面して、
R&R派は教皇の悪法と間違った教義に対する公の“抵抗”を支持していると思われる様々な神学者たちからの引用文のセットを際限なく‐そうです、際限なく‐再利用しました。[[1]] その引用文は二つのグループに分類されます:
 

 

 (1ペトロに対するパウロの抵抗に関する注解。(ガ 2:11-14)ここで聖パウロは、飲食に関して定めた旧約の戒律の遵守について偽ったとして聖ペトロを公に非難しました:『私は面と向かって彼に抵抗した。彼が非難に値したからである。』
 

 

 聖トマス[[2]]及びその他[[3]]は、自身の高位聖職者たちが公で、忌まわしく信仰にとって危険な罪を犯す場合に、配下の者は如何にして兄弟的矯正を彼らに対し“公にでさえ”与えるべきかの一例を聖パウロが示してくれたと述べています。これは倫理神学教本に於いて標準的な教えです。
 

 

 しかしながら、この原則<公の抵抗という原則-和訳者補足>は兄弟的矯正にのみ適用されるのです。私の知る神学者の誰一人、それを教皇の普遍規律法、あるいは教皇の普遍通常教導権の教えを拒絶する事にまで拡張していません。[[4]] 実際のところ、神学者スアレズ(Suarez)は、ガラ2:11-14とマ18:17[[5]] のどちらも、教皇の犯罪に関する公的な告発による、教皇への『兄弟的矯正』を認めないと言っています。[[6]]
 

 

 (2“教会を破壊する”教皇への抵抗。しばしばR&R派は、悪い模範により霊魂たちを攻撃し、涜聖を勧め、恥ずべき人々を教会の職務に任命するもしくはそれを売却する、不正な戦争を遂行する、霊的暴力を加える、悪い事を命じる、『教会を破壊せよ』などと、聖なる物を冒涜するような事をする真の教皇への“抵抗”は許されると主張する15世紀から16世紀の神学者たちを引用します。以上の事柄に基づき、R&R派は『特別な状況下にあって、カトリック教徒には単に教皇に背く権利があるだけではなく、そうする義務がある』[[7]]と結論づけるのです。しかしながら:
 

  これらの引用文は教皇の悪しき命令(ファティマをディズニーに売却しろ、聖ペトロ大聖堂をダイナマイトで爆破しろ、それからブロンドのコーラスガールをもう一人連れて来い・・・というもの)に背く事を正当化するに過ぎず、彼の(不可謬な)普遍法[[8]]と、(やはり不可謬な)教皇及び司教たちの普遍通常教導権に抵抗することを正当化しないのです。
 

 

  R&R派は、自分たちの“脱文脈化された/文脈から切り離された引用文(proof-textsの試訳)”の<本来の‐和訳者補足>文脈を検証しなかったがために、個人による教皇への“抵抗”を、これらの著者たちは承認していたのだと誤って結論付けてしまうのです。
 

 

 しかし実際には、これらの引用文は、全体(general)あるいは地方(provincial)の司教評議会council of bishops)、又はカトリックCatholic king)には、道徳的に 悪しき 教皇‐つまり、ルネッサンス期の数名の教皇たちの様に、教会職務を売り、相応しくない聖職者を任命し、特免を無責任に与え、さらにはこのように“教会を明らかに破壊した”者[[9]]‐を“矯正する”か“抵抗する”事がどの程度まで可能なのかに関する公会議至上主義(conciliarist)神学者ゲルソン(Gerson1363-1429[[10]]の学説に対抗するカトリック論の一部でした。
 

 

 ですから、一つ一つの引用文について、それが現れた著書のタイトル、<つまり>全体の文脈か、それに先立つ問いのいずれかは、個人ではなく、評議会による悪しき教皇への抵抗を、カエタノ[[11]]、ヴィトリア[[12]]、ベラルミン[[13]]、そしてスアレズ[[14]]は支持していた事をはっきりと表しています。(脚注を御参照下さい)
 

 

 ヴィトリアに関する神学的注釈はこう確証しています:『教皇が恣意的な諸制度を用いて明白に教会を破壊する時、個人ではなく、司教たちは、評議会に於いてか、あるいは相互の同意によってその受諾あるいは履行に抵抗する事が出来る・・・優れた著者たち及びカエタノの様な教皇権威の確固たる擁護者たちも同様にこの教えを支持している。』[[15]]
 

 

 R&R派の“レジスタンス”引用文の棺に、ヴィットリア自身が止めの釘(the final nail)を打ち込みます:
 

 

『命題23:「評議会の決定にどれほど矛盾しているにせよ、如何なる個人も己の一存で教皇の命令に抵抗し、かつ従わない事は許されるとは思われないだろう。これは正しい。何故なら、もし何者かが、(それがどんなに不正であれ)その命令には己の一存で背く事の出来ない司教に対して許されないであろうやり方で、教皇に対し振舞う事が許されるとすれば、これは最高権威に対する不敬及び侮辱同等の由々しい行為となるだろうからである。』[[16]]
 


*  *  *  *  *

 

 教会の権威には、悪あるいは誤謬を与える事が出来ない、また各カトリック教徒たちには、真の教皇に“抵抗する”事が出来ないという理由から、R&R派は考えられる三つの結論に直面します:
 

 

1)新しいミサと第二バチカンの諸教義はカトリックである。(では抵抗をお止めなさい、あの聖テイヤール教会での土曜日のノヴスオルドミサを検討し、新しい公教要理を使って坊やのマルセル君を自宅教育し、そして可愛いフィロメナちゃんをアルターガール<女侍者>に登録して下さい。)
 

 

2カトリック教会の権威は変節してしまった。(監督教会<聖公会>にでも行って下さい‐荘厳な音楽と、告解なしですよ!<カトリック教会が変節し得るとすれば、どの教会に行っても同じことであり、それならば、変節し醜くなったカトリック教会を離れ、美しい典礼を守る聖公会にでも行った方がまだましであるの意味‐和訳者補足>)

 
 

3)新しいミサと第二バチカンの諸教義はカトリックではない、それ故に、それらは教会の権威からのもではあり得なかった。 では. . .<次章. セデヴァカンティズムへようこそ



(Ⅱへ続く)


[1]:例えば、マイケル・デイヴィス、教皇パウロの新しいミサPope Paul’s New Massディキンソン、テキサス州:アンジェルス出版 1980年)589ページ以降;アティラ・ギマランイス(Atila Guimarães)及びその他、我々は公然と貴方に抵抗するWe Resist You to the Face](ロスアンゼルス:TIATradition In Action2000年)、56ページ以降など。この引用個所は、先ずアルナルド・イグザヴィエ・ダ・スィルヴェイラ(Arnaldo Xavier da Silveira)のConsideracoes sobre o Ordo Missae de Paulo VI [パウロ六世のミサ典書に関する考察-試訳](サン・パウロ:1970年)の付録に於いて広められたようです。それは、私が初めて異端的教皇問題に関する様々な神学者たちの著作が集約されているのを見たポルトガル語で書かれた彼の初期の著書の一つの中にあります‐私にとって度肝を抜くような発見でした。ダ・スィルヴェイラ氏はTFP=Tradition, Family and Private Property[聖伝、家族及び財産擁護協会‐試訳]の創設者の一人でした。)

[2]神学大全 第二巻の第二部、第33問、第4項(Summa 2-2:33,4);Ad Galatas 2[sic]:3. 11-14(ガラツィア人への手紙、第311-14節)、S. Pauli Apostoli Epistolas[聖パウロの書簡](トリノ:マリエッティ1929年)1:542543Scriptum super Sententiis 文章注釈<試訳>19:2.2.3(パリ:ルティエル― 1974年)4: 112ページ以降。

[3]:コルネリウス・ア・ラピデ(Cornelius a Lapide)、Ad Galatas(ガラツィア人への手紙)2:11Commentarium in S.S.聖書注解》、(リヨン:ぺラゴ《Pelagaud 1839年)9:445446447

[4]:もしと何方かが、それ<この原則>はこれら(普遍規律法及び普遍通常教導権)にも適用されると断言されるならば、その方には御自分の論拠を私にお分けになる事が出来ますから、ただ御自分の論拠を明確に支持する神学書だけを挙げて下さい。

[5]:『もし彼《罪人》があなた方のいう事を聞かないなら、教会に言いなさい。』

[6]De Immunitate Ecclesiastica 4:6.12, in Opera Omnia (パリ:ヴィヴェ《Vivès1859)24:381。『従って私はこの異論に回答する。教皇に対する兄弟的矯正は、それが愛徳の義務である限りにおいて、適切であり、またそれ故に、身分のより高いものが身分のより低い者から誤りを指摘される、さらにパウロがペトロに振る舞ったように . . . . 高位聖職者がその配下の者から誤りを指摘される時に起こり得る事が証明されると。教皇は、先ずただ一人の場合、つまりもし彼の犯罪が人目につかないものであるなら、その次に数人の前で犯される場合、つまりもし事態と必要性がそれを要求するのであれば、このようにして丁重に誤りを指摘を受けかつ勧告され得る。しかしその後に続く「教会に言え(マタ18.17)」は、ここで出る幕がない。というのも、「教会」という言葉は教会の肢体(the body of the Church)ではなく . . . [異端者の]高位聖職者の事を言っているからである。教皇には上級の高位聖職者がいない事から、彼の場合このような告発には出る幕がない。むしろ彼自身が全教会の牧者であるので、教会は彼の罪についてそれが教皇御自身に告げられる時、十分に「告げ」られるのだ。』

[7]:このようにデイヴィスは言う、教皇パウロの新しいミサ、602パージ。

[8]:法というものは普遍的かつ持続性がある。命令というものは特称的かつ一時的である、つまりそれはある制限された対象(今これかあれをしなさい)、もしくはある一定の人数だけを束縛/拘束する。

25J-G メネンデス-リガダ(Menendez-Rigada)、DTC(カトリック神学辞典)15:3130内、『フランソワ・ドゥ・ヴィットリア(Vitoria, François de,)』を参照せよ。『ルネッサンス期の教皇たちが、あらゆる種類の免除を許可する為に自らの権力をこしらえ . . . 恣意的な免除によって明らかに教会を破壊した . . . という<職権の>濫用を彼は激しく非難する』。

[10]L. サランビエ、DTC 6:1312-22内、『ジャン・シャルリエ・ドゥ・ゲルソン(Gerson, Jean Charlier de)』を参照せよ。公会議主義(Conciliarism)は、教皇が《司教》総評議会(a general council)に従属すると教えた。ゲルソンは16世紀プロテスタントたちの人気者であった。

R. ナズ、『戒律(Précepte)』、教会法辞典《Dictionnaire de Droit Canonique》(パリ:ルトゥゼ 1935-657:116-17を参照せよ。

27教皇と公会議の権威比較(The Authority of a Pope and a Council Compared という題名に注意。最も頻繁に引用されるR&R派の一節(『暴君に抵抗する事は徳の行いである . . . 公に教会を破壊している教皇は抵抗されなければならない』、など)が、第27章に現れ、直ちに『世俗の君主たち及び教会の高位聖職者たちが、もしそれを用いる事を望むなら、謀反を用いずに、権力の濫用に抵抗し妨害しても差し支えない方法は多い。』教皇と公会議の権威の比較について-De Comparatione Auctoritatis Papae et Concilii、、(ローマ、アンジェリクム1936年)、41112を参照せよ。

[12]教皇と公会議の権限 (The Power of a Pope and a Council)という題名に注意。R&R派のこの一節(『教会を公然と破壊する教皇は抵抗されなければならない . . . 彼は従われるべきではない . . . 抵抗する事をよぎなくされるだろう . . . 彼に抵抗する事は合法的なのだ』、その他)は、質問23:『公会議がこのような宣言と教令を発するや否や、もし教皇がそれとは反対の事を命じるなら、司教たち又は地方協議会がこのような命令に単独で抵抗する事、それどころか君主たちに自らの権限で、例えば彼の命令の実行を妨げるなどして、教皇に抵抗してくれるよう嘆願する事は許されるのだろうか?』への回答である。教皇と公会議の権限についてDe Potestate Papae et Concilii 23, フランソワ・ドゥ・ヴィトリアの作品:神学再教授<?>内- in Obras de Francisco de Vitoria: Relecciones Teologicas- (Madrid: BAC 1960) 486。ヴィトリアは、上述したカエタノの著書の第27章から来ているR&R派の一節を自らの回答に組み込んでいる。

[13]:このR&R派の一節(『 . . . 霊魂を攻撃し . . . あるいは、何よりも教会を破壊しようと試みる[教皇]に抵抗する事は合法的で . . . 彼が命じる事を行わず、さらに彼の望みの実行を妨げる事を以て彼に抵抗する事は合法である . . . 』)は、異論7:『誰しも、不当に教皇から攻撃される場合、彼を殺す事が許される。従って、教皇が国家をかき乱すか、自身の悪しき模範により霊魂たちを殺そうと試みる場合には、君主ら及び協議会がこの教皇を退位させる事は尚更許される。』 ローマ教皇についてDe Romano Pontifice .29 キリスト教信仰論争について -in De Controversiis Christiani Fidei- (Naples, Giuliano 1836)1:417-18。第29章にある九つの主張の全ては、教皇が君主又は評議会の支配下にあるかどうかに関するものである。異論7に対する回答において、ベラルミンんはカエタノの著書の第27章から来ている上述のR&R派の一節を同様に引用している。これに加えて見よ:チェカダ、『ベラルミン・レジスタンス引用文(The Bellarmine Resistance Quote):もう一つの聖伝主義神話(Another Traditionalist Myth)、』SGGニュースレター(200410月)、www.traditionalmass.org

[14]ヴェニスに侵害された教会特権(Ecclesiastical Immunity Violated by VeniceR&R派の一節(『もし[教皇の]暴力が霊的なもので、悪い事柄を命じており[注意、悪い事柄を制定している/教えているのではない]、あるいは神聖な事柄を冒涜又は破壊しているなら、彼はそれに釣り合った方法で抵抗されても差し支えない』)に対して、スアレズは同じように、カエタノの第27章(『世俗の君主たち及び教会の高位聖職者たちが . . . 同様に抵抗する事は差し支えない』)を自身の権威として挙げており、それどころか全く同じ言葉を幾つか使っている。Opera Omnia (全集)24:383内のDe Immunitate Ecclesiastica(教会特権について) 4:6.17-18

[15]:メネンデス‐リガダ(Menendez-Rigada)、DTC 15:3130-1。『教皇が恣意的な免除によって明らかに教会を破壊した時、個人では全くなく、司教たちは、評議会で、あるいは彼らの内の一致により、教皇に払うべき敬意を傷つけないのであれば、それら(恣意的免除)の承認とそれらの実行に抵抗する方が良い。このように、秀でた著作家たちや教皇権の強力な擁護者たちは、カエタノ枢機卿のように、こう主張している。』

[16]De Postestate 22, Obras, 485:”Non videtur permittendum cuicumque privato sua auctoritate resistere et non parere mandatis Pontificis… Probatur. Quis esset magna irreverentia et quasi contemptus, si cuilibet hoc concederetur respectu Pontificis…. non licet propria auctoritate discedere.”






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 2023年8月28日アップデート済み


 『教皇に抵抗するという事、セデヴァカンティズムとフランケン教会』 第二回を掲載します。この論文に度々現れる『R&R(派)』とは、もうご存知の方もおられるとは思いますが、『公会議教皇を真のカトリック教皇と承認しつつも、彼に抵抗する』聖ピオ十世会を筆頭とする自称聖伝主義者たちの事です。聖ピオ十世会のミサに出席される方の中で、この記事を読み同会の立場の矛盾に気づかれた方は、そこにおられる司祭に尋ねてみて下さい。「カトリック教会とカトリック教皇には、全教会に向けて異端的教義を発布する事が出来ますか?」と。「出来ます!」という回答が来たならば、この司祭への真の愛徳から、「神父様は間違っています」と教えてあげて下さい。そしてもう一つ、聖ピオ十世会の司祭方が「異端者と一致して捧げるミサ」、つまりウナ・クム(Una Cum)ミサにはどうか与からないで下さい。これはカトリック・ミサとは言えないものであり、非カトリック儀式となります。非カトリック儀式に与かる(communicatio in sacris)事は違法であり、異端者と見做されます(1917年教会法第1258条)。良心の呵責というものを感じる方は、それに従う事は言うまでもありません。貴方の司祭を真に愛するなら、その方の捧げるミサの異端的性質を指摘してあげるべきです。そしてもし彼/彼らが貴方の指摘を無視するならば、貴方は彼/彼らを去るべきです。神への愛の為に!そんな時代を生きている事に早く気づいて下さい。



 
* * * * * 
 
 

Ⅰ.承認し抵抗する?

 

 私の経験では、カトリック教徒は実際に“エクス・カテドラ”宣言によってのみ<信じるよう>強制/拘束されるとか、新しいミサも第二バチカンもこれには分類されないし、それ故にカトリック教徒たちは、それらを公布した諸々の教皇たちに“抵抗する”だけではなく、これらの事柄を非カトリックとして自由に拒絶し告発する事が出来るという考えに余りにも基礎付けられた、R&R派支持の平均的平信徒はそう<偽教皇を真の教皇だと承認し抵抗>します。
 

 

 R&R派<承認&抵抗派>の護教家たちは、前述したもののさらに洗練されたものを提示してきましたが、彼らの主張は以下の理由から消滅してしまいます:

 

 

A. 教会の権威者は悪しきミサ典礼を公布する事が出来ない私が他のところで[[1]]論証したように、カトリック神学者たちは、教会の不可謬性は普遍規律法(a universal law)にまで及ぶと教えています‐つまりそれは『信仰または道徳に反目する、あるいはまさにその本質からして霊魂の損害につながるだろう普遍法を批准する事が決して出来ない』[[2]] のです。
 

 

 さらに、トレント公会議の次の排斥(anathema)に基づき、神学者たちはこの不可謬性を御ミサの執行の基準となる教会法規にまで明確に拡張します:
 

 

 “もし何者かが、カトリック教会が御ミサの執行において用いる儀式、祭服、そして外的印は、信心に役立つというより、不信心への誘因になると言うならば、破門されよ。” [[3]]
 

 

 但し、全ての聖伝主義者が知るように、パウロ六世の新しいミサは、(ラテン語版でさえ)あからさまなイッリターブルム・インピエターティス(irritabulum impietatis‐“不信心への誘因” になるものです。

 
 

 貴方には、このミサの害悪と、それを公布した人物がイエズス・キリストからの最高立法権を有する、真の教皇だったという考えとを両立させる事など出来ません。[[4]]

 
 

 

B. カトリック教徒たちは(教皇と司教たち連帯の)普遍通常教導権の教えと聖座による教義的諸決定に従わなければならない。
 

 
 

 誤謬表(Syllabus of Errorsのなかで、ピオ九世は、カトリック教徒たちが教会の不可謬な判断によって提案された事柄のみ、信仰に関する教義として信じる義務があるという命題を排斥されました。[[5]] カトリック教徒たちは以下の事柄にも従わなければならないのです:

 

 

 (1普遍通常教導権の教え[[6]] この教導権が行使される一つの方法は、『教皇及び世界中に散在する司教団により、正式な決定の外側で、習慣的に授けられる明白な教えによって』です。[[7]] 

 

 

 この基準により、例えば、1994-1997年版カトリック教会の公教要理Catechism of the Catholic Church)は、ヨハネ・パウロ二世を真の教皇だと承認する人々にとっての“普遍通常教導権”を含んでいます。彼はこの公教要理を“信仰を教える為の確かな規範”であり、“信仰の一致とカトリック教義への忠実とを注意深く保存すると同時に . . . . 地元の新しい公教要理の記述を補佐する . . . . . カトリック教義の教示には確実で真正な参照文献”であるとはっきり宣言しました。[[8]]

 

 

 それにもかかわらず、SSPX刊行物、レムナント誌カトリックファミリーニュース紙 などを読む聖伝主義者たちは、この公教要理が信教の自由、エキュメニズム、司教団合議collegiality)、教会などに関する第二バチカンの教えを奨励している事から、それは教義的誤謬でいっぱいであると知っています。

 

 

 (2聖座の教義的諸教令[[9]] これらの諸教令は、教皇回勅同様に、教皇の承認付きで聖座によって発行される教義的発言を含みます。カトリック教徒たちは、真正に(authentically)承認された教皇の教義的教令の全てに対して、“教会の神聖な聖職位階制の権威を隅々まで統治しておられる、神に帰すべき敬意から”捧げられる“内面の精神的で宗教的な同意(internal mental and religious assent)”を捧げなければなりません。[[10]]  

 

 

 従って、ヨハネ・パウロ二世を真の教皇だと認める聖伝主義者たちは、『教皇(The Sovereign Pontiff・・・)が確かな知識と共にその使徒的権威により批准かつ確証した』 [[11]] 、宣言であるドミヌス・イエズス の如き第二バチカン後に為された諸宣言に対し、内面の精神的で宗教的な同意を捧げるように命じられるでしょう<それが特に現在起きています‐和訳者>。

 

 

 ここでもまた、R&R派から出された出版物は、この文書及びそれと似た他の文書が、教会や救霊などに関する教義的な誤謬を含んでいると指摘してきました。

 

 

 ただもう一度申し上げますが、(普遍通常教導権、あるいは教皇の教義的教令と推定される)典拠のどちらかに見出される教義的誤謬の存在を、イエズス・キリストからの教権並びに聖霊の助けを保持している、真の教皇やカトリック司教たちが教義的誤謬を全世界の教会に押し付けたという考えと和解させる事は出来ないのです。

 

(続く)

 



[1]聖伝主義者、不可謬性と教皇(シンシナティ&ウェストチェスター、オハイオ州:大聖ゲルトルード1995年)、6-828-33。さらに本書の第3章。

[2]:ヴァン・ノート(G. Van Noort, 教義神学(ウェストミンスター、メリーランド州:ニューマン1959年)2:91。神学者ハーマン(Herrmann)、ドルシュ(Dorsch)、シュルツ(Schultes)、ズビザレッタ(Zubizarreta)、イラグイ(Iragui)とサラヴェッリ(Salaverri)らの同様の引用文は、聖伝主義者、不可謬性と教皇を参照せよ。

[3]ミサに関する規範1562917日)、デンツィンガー(DZ954

[4]:これは、ある者はそう試みたことがないと言っている訳ではない。数年前のレムナント紙(1997年四—八月号の諸所)の中で、SSPX(聖ピオ十世会)は、新しいミサは悪いものであるが、無効に 公布されたと主張し、その一方で、マイケル・デイヴィス(Michael Davies)氏は、それは 有効に 公布されたが、悪いものではないと主張した。両者とも知らず知らずのうちにセデヴァカンティスト墓地に入り込んでいたのである。その後で私は、ノヴス・オルド の公布は普遍法として教会法に基づいて要求される形式と手続きの全てに従っていると論証した。『パウロ六世は違法に新しいミサを公布したのか:教会法とポピュラーな聖伝主義神話《Did Paul VI Illegally Promulgate the New Mass: Canon Law and a Popular Traditionalist Myth》』(シンシナティ:2002年)、www.traditionalmass.org.を参照せよ。もしお招きにあずかるならば、新しいミサは(ラテン語版でさえ)悪いものだという陳述を議論する為、私は喜んでレムナント社 に戻るでしょう。

[5]:回勅クアンタ・クーラQuanta Cura)及び誤謬表Syllabus of Errors:1864年)、DZ 16991722を参照せよ。

[6]:第一バチカン公会議、信仰に関する教義憲章(1870年)、  DZ 1792。『その上さらに、神的かつカトリックの信仰により、書き記された神の御言葉や聖伝(伝承)に含まれている全てのもの、及び荘厳な宣言<荘厳教導権>もしくは通常普遍教導権のいずれかに於いて、神的に<神から>啓示されたものとして信じるよう、教会によって提案されているものは、信じられなければならない。』加えて教会法1323.1を参照せよ。

[7]:ドュブランシ―(E. Dublanchy)、“教会(Église)”、DTC 4:2194

[8]:使徒憲章フィデイ・デポズィトゥムFidei Depositum19921011日)。

[9]:ピオ九世、トゥアス・リベンテール(1863年)、DZ 1684。『. . . 学識あるカトリック教徒たちが前述した教会の教義を受け入れ崇めるというのでは十分ではなく、さらに[]教皇の諸聖省(the Pontifical Congregations)から公布される教義に属する諸決定に自らを服従させる事もまた必要である。』

[10]:サラヴェッリ(J. Salaverri)、Sacra Theologiae SummaDe Ecclesia(マドリッド:BAC 1958年)1:659666

[11]:ラッツィンガーに署名された証言から。





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