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(2014年12月10日アップデート済み)
本日は『ウィリアムソン司教様への回答 その四』を掲載させて頂きます。正直な心でこの記事をお読みになる方は、新旧聖ピオ十世会の立場にある矛盾に気づき、それを認めると思います。フェレー司教様であれ、ウィリアムソン司教様であれ、カトリック教会の不可謬性と非変節性を本当の意味で信じてはいません。その理由として挙げられるのが、近代主義者たちにあるという「自らの異端を認識する能力の不足」です。自らの「公の」異端的発言を認識出来ない人物が教皇職に就くという考え自体、上述したカトリック教会の二つの本性に反しているからです。この様に公会議教皇弁護をする新旧聖ピオ十世会には、彼ら公会議教皇たちが、本当に自らがした公の異端的発言や行為に於ける異端を認識していなかったという事を証明する責任があります。1936年生まれのベルゴリオ氏(通称フランシス一世)が本当にカトリック教義について無知だったのか、フェレー司教様、あるいはウィリアムソン司教様はどうか証明してみて下さい。何れにせよ、この様な異端者がカトリック教皇として立つ事は、『カトリック教会の非変節性』及び『カトリック教会の不可謬性』に真っ向から矛盾しています。真の聖伝カトリックであれば、公の異端者である公会議教皇たちを『偽物』として告発したはずですし、それこそが聖ピオ十世会の使命だったはずです。しかし、それはルフェーブル大司教様の取り巻きにより妨害されました。同大司教様のセデヴァカンティズム的発言が、聖ピオ十世会系サイトから姿を消したと言われていますが、それはある意味で同大司教様の揺れ動いた本音を知られたくない同司祭会上層部の証拠隠滅なのです。お忘れなく、彼と共に聖ピオ十世会の四司教を聖別したデ・カストロ・マイヤー司教様は最終的にセデヴァカンティストとしてカトリック司教の責務を果たしたという事を。新興宗教である公会議教会との合意文書にサインした聖ピオ十世会は、既に新興宗教化を始めています。聖母マリア様の尊い御名を幾ら唱えようと、それは、多くの場合、聖母にとって棄教する者からの心無い慇懃無礼(いんぎんぶれい)な挨拶に聞こえてしまうでしょう。『汝、思う存分罪を犯せよ、しかし、それ以上に神を愛せよ』と説いたルターが、『おおマリア』、『無原罪のマリア!』と唱えたとて、それが一体聖母にとってどんな慰めになるというのでしょうか???カトリック信仰を例外なく完全に守る事、それを伴わない聖母信心は偽りの信心であり、聖母に対する裏切りかつ侮辱となるはずです。
公会議教皇たちをカトリック教皇だと弁護する方々は、先ず、彼らには自らの異端に対する認識が不足している事を証明して見せて下さい。もし証明出来ないのであれば、どうか彼らは偽物の教皇であると一日も早く認め、真の聖伝主義者に回心して下さいますように!
一聖伝主義者より
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第四の主張
[第343号から]
ウィリアムソン司教様はここで、第二バチカン教皇たちは公の異端者なので、教皇であり得ないと明言するセデヴァカンティストたちの主張の力を弱めようと試みます。公会議教皇たちは、客観的な異端を述べる事はあったにせよ、我々には彼らが教会の教えを否認していると本当に自覚していると法廷外で立証出来ない為、主観的には異端の罪(sin)もしくは犯罪(crime)を犯していないと彼は回答するのです。
回答。先ずは、異端の 罪(sin) と異端の 犯罪(crime) の区別を復習する必要があります。異端の罪とは、カトリック信仰のある真理を疑うか否定する行為です。それは形相的(formal) 又は質料的(material)なものでしょう。形相的異端とは、貴方が疑うか否定している事柄が、単に神学的な結論、あるいは一部の神学者たちの見解ではなく、実際にカトリックの教義もしくは道徳的教えであると認識してこの真理を疑うか否定する事です。質料的異端とは、客観的に見てカトリック教義である、あるいは道徳上の教えである事柄を、その教えが信仰に属していると認識せずに疑うか否定する事です。
さらに異端とは犯罪、即ち、教会法の違反でもあり、それに対しては刑罰が幾つか存在します。[1]
しかしながら、この罪あるいはこの犯罪<異端の罪あるいは異端の犯罪>の遂行には、どちらの事例でも、もしそれが公になされた場合には、カトリック教会からの自動的断絶<自動破門>が伴うのです。
倫理神学者たちは、形相的 異端を免れるものは、唯一つ無知であると言う事に関してはっきりしています。つまり教会の荘厳教導権か、普遍通常教導権かのどちらかに属しているカトリック教義を自らが否定している事実について無知である必要があります。
ウィリアムソン司教様は、いったん異端の事実が成立すると、即ち、何者かがある異端を公言した事実が確認されると、無知が推定され、それはその反対<=無知ではないこと=異端を認識していたこと>が法廷で立証されるまで続くのだと我々に信じ込ませようとされました<やや意訳>。
実際はその反対が真実なのです。全法廷に於いて(in all courts of law)、ある犯罪(a crime)の 事実について有罪判決を受けるまで誰もが無罪です<推定無罪の原則>。但し、この犯罪の 形相性/正式性(formality:個人的な罪の意識[personal guilt])に関してでは決してありません。もしこれが真実ならば、どの罪についても二つの裁判を行なう事が必要となるでしょう:一つはこの事実を立証する為の裁判と、もう一つは、この加害者がそれを行った時、自分のしていた事が本当に分っていたという事を立証する為の裁判です。この犯罪の事実が知られる時、どの法律も形相的/正式な有罪(formal guilt)を 推定します(presumes)。同じ事が罪(the sin)についても言えます。罪に於ける形相性/正式性の不足‐つまり認識の不足により、ある人には罪がない事‐が立証されなければなりません。
幾つかの例を差し上げましょう。2012年に起きました映画館でのコロラド銃乱射事件の事例で、この若者の弁護士たちは、自分たちの依頼人が銃撃と殺人を行なったという事実については何ら異議を唱えていませんでした。ただ彼らは、この銃撃犯は正気ではなかったし、またそれ故に、心神喪失(insanity)という理由から、法の御前で彼はこの犯罪について真実に有罪ではない事を立証しようとしていたのです。立証の責務(The burden of proof)は彼らにあって;この若者に有利な推定などありません。
さらに、ニューヨーク州はオイスター・ベイ・コーヴ街(Oyster Bay Cove:オイスター湾内入り江)の、現在では聖ピオ五世会(the Society of Saint Pius V)のマスセンター<ミサ施設>となっている建物内で起きたあの有名な事例がありました。何十年も前、この建物の中である男の妻によって行なわれた殺人がありました。真夜中に彼女は彼を浮浪者だと思ってしまったのです。彼女は彼を撃ったと認めましたが、彼が自分の夫だと気付かすに誤って撃ってしまったと主張したのです。彼女は無罪にされました。しかしながら、無知の立証の責務は、彼女にあるのです。何故なら、法律の推定<=有罪>は彼女に反対しているからです。
それから、アメリカ市民戦争中のワシントンで起きた有名な事例があります。それに拠れば、一時的な心神喪失という抗弁が無罪を獲得しています。ある男が不意に帰宅してみると、別の男といる自分の妻を見つけました。この夫は激昂してしまった事により直ちに銃を取って妻の愛人を撃ってしまいました。彼は法廷でこの行為をした事を認めましたが、この行為の形相性<=罪認識>が不足していた事から無罪である、つまり極度の怒りにより一時的に心神喪失になったのだと抗弁しました。
重要なのは、倫理神学や教会法を含むどんな法律も、罪の事実がいったん認められれば、有罪を推定すると言う事です。自分は無知であったが為に有罪でないと主張する者は、証拠を以って形相性<=罪認識>の不足を立証しなければならないという事なのです。
従ってウィリアムソン司教様は、第二バチカン“教皇たち”はカトリック信仰を知らないという荒唐無稽を私たちに信じ込ませようとされたのです。つまり私たちは、世の終わりにおける死者の復活を公に否定するベネディクト十六世が、この教義は使徒信経やニケア信経、そしてアタナシウス信経の一部であるのを 知らない のだと信じなければならないのです。
これにより、ウィリアムソン司教様による第四の主張は、形相的/正式な有罪(formal guilt)に関する間違った原理と、近代主義“教皇たち”は実際に信仰について無知であり得るという馬鹿げた仮定とを根拠にしているので崩れ去ってしまいます。
教皇権限(papal
authority)の受諾に十分な障害となるものとは、異端の公の 罪 (the
public sin of heresy)、さらに言えば、教会法犯罪/教会法上の犯罪(the canonical crime)なのです。
(つづく)
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