セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2014年05月

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 復活後第五主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちら を22時以降に訪問してみて下さい。

 追伸、

 (先日コメントを下さったプラス様も含め、)ヨハネ二十三世とヨハネ・パウロ二世の似非列聖を目撃してなお、ローマを中心としたあの巨大な教会はキリストの創立された『カトリック教会』だと信じている皆様に申し上げます。カトリック教皇による列聖は常に不可謬です。では何故今回、あのような異端者たちが列聖されたのか?答えは非常に簡単です。何故なら、あの列聖を行なった“教皇”フランシス一世とその教会は、それぞれカトリック教皇でもカトリック教会でもないからです。では、どうすれば良いのか?この救いの箱舟ならぬ、滅びの箱舟からいち早く下船すること、『船外への脱出は危険ですから船室に留まって下さい』などという無責任な誘導に耳を塞ぎ、それから出て下船する事です。さらに、かつては近代主義ローマとの合意の一推進者だったウィリアムソン司教様に残された道、それはこの滅びの箱舟(公会議教会)とその船長(偽教皇)及び船員(偽聖職者たち)の実態を見極め、反カトリック的『ローマ教皇への不従順の合法性』を説くのを止め、教皇座と全世界の司教座の空位を認め、この大船から下船する事だけです。この行為は、一部の無思慮な方が言われる様な、隠れキリシタンとなる事ではありません。むしろカトリック信仰を守り、自身の救霊を全うする為に必要とされる信仰の行ないです。カトリック教徒を自称する皆様、真実に目を瞑り、嘘を自分に言い聞かせ、公会議教会にも辛うじて残存するカトリック芸術等の美しき要素だけを眺めて感じる満足感から、自分は救霊の道にあるのだと信じ込むのは正直ではありません。それは幻想です。

 では、何時下船すべきでしょうか?今でしょ!

* 聖地エルサレムを訪問中の偽教皇フランシス一世を見る事が出来ます。彼の発言を常に注意深く聞いてみてください。彼が世界統一政府の宗教である世界統一教会の頭となる反キリスト自身なのか、単なるその先駆者なのか、それは私には何も分かりません。但し、彼はキリストの福音とは違う反キリスト的福音を述べる可能性があります。エルサレムの第三神殿再建について何らかの言及はあるのか?ユダヤ教徒、イスラム教徒、そしてキリスト教徒を前に『私たちは同じ「父」を持っています。』と発言したフランシス一世に注意あれ!彼はかつて『カトリックの神などいないのです』と言っていますが、これは世界統一教会創立へ向け人々を準備する言葉に聞こえてなりません:

 

一聖伝信徒より

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 復活後第四主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちら を22時以降に訪問してみて下さい。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

 2014年5月11日の掲載文に、レネ神父様の主張に対する誤解に基づく記事を書いてしまいました。これについては御詫び致します。申し訳ありません。しかし、再度訂正した記事をお読みになれば、本質的には何も変わっておらず、むしろレネ神父様が言われるルフェーブル大司教様による「公会議教会」解釈には大きな誤解がある事が浮き彫りになるはずです。私は敢て「誤解」と申し上げておきます。大司教様にとって「公会議教会」とは、新しい異端的方向性を打ち出した「異端教会」であり、それとの合意はカトリック教会から自らを引き離す事(離教)を意味していました。

 よろしければ、再度5月11日の記事をお読み下さい。それではお休みなさい。

一聖伝信徒より

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 復活後第三主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちら を22時以降に訪問してみてください。

 追伸、

 異端者ヨハネ二十三世とヨハネ・パウロ二世の似非列聖に引き続き、今年の10月19日には、やはり異端者であったパウロ六世の列福が予定されているそうです。聖ピオ十世会も含め、潜在的あるいは精神的にノヴス・オルド教会(公会議教会≠カトリック教会)に属する方々は、この様なカトリック教会による列聖の猿真似でしかない冒涜行為を前にして、「やはりカトリック教会は、信仰と道徳において間違う事もあるのだろうな」と締めくくり、それ以上考える事は傲慢でもあるかのように、思考を停止してしまうようです。レネ神父様は、ルフェーブル大司教様が公会議教会とカトリック教会を同一視していたと主張していますが(『公会議教会はカトリック教会ではない』という大司教様の言葉は、公会議の精神はカトリックの精神ではなく、この公会議の精神、つまり公会議教会でさえ、依然としてカトリック教会の全体を構成するものであるが、カトリック教会全体を構成する一部分ではないという奇妙な主張。つまり『公会議教会もカトリックである(公会議教会=カトリック教会)』と言っているに過ぎない。2014年5月13日、管理人訂正加筆)、それは残念ながら大きな誤解です。誤解と言っておきます。優れた記憶能力をお持ちの司祭でも、時には重要な事柄を度忘れする事もあるからです。

 2_2 ルフェーブル大司教様は、1976年夏に「公会議教会はカトリック教会ではない』と明言されています。レネ神父様は逆に、ルフェーブル大司教様が「公会議教会を、教会の全く新しい非カトリックな方向性」だと理解していたと主張します。しかし、ここにレネ神父様のトリックがあります。つまり「教会=精神(方向性)」というトリックです。1976年7月29日に大司教様はこう言われました:『このような誤謬を主張する教会は同時に離教的であり異端的です。従ってこの公会議教会はカトリックではありません。」(1976729日、聖職停止に対する感想)』。誤謬とは新しい教会の異端的方針であって、『この異端的方針を打ち出した教会はカトリック教会ではありません。』と大司教様は仰っているのです。つまりルフェーブル大司教様にとって公会議教会とは、新しい方針ではなく、カトリック教会とは異なる別の新しい教会なのです。ところで、ルフェーブル大司教様が掲げたローマとの合意条件とは「ローマがカトリックに回心し、再び聖伝を見出す事(1988年6月2日付け、ヨハネ・パウロ二世に宛てた手紙から)」でした。そしてそれは2006年の聖ピオ十世会総会においても再確認されています。これを見ても、ルフェーブル大司教様は、公会議教会をカトリック教会とは異なる別の教会と見做していた事が分かります。さらに、レネ神父様の主張に拠れば、大司教様が打ち出し、司祭会総会が再確認した上の条件は、大司教様を異端者にしてしまうようです。何故なら、大司教様は新しい異端的な精神によって腐敗したローマとの交流(合意)を拒絶したからです。つまり新しい異端的なローマとの合意を拒絶したというこの行為それ自体により(=ipso facto=自動的に)、ルフェーブル大司教様は 「善い人々は悪人たちの邪悪に同意しない限り、教会内において邪悪な人々と交わっても害を被らない」という聖アウグスチヌスの大原則を理解しないドナトゥス派異端、あるいは「淨い人々の教会、公会議の腐敗によって汚染されていない教会」を熱望したカタリ派異端(CREDIDIMUS CARITATI、2014年3月9日掲載記事より)に毒された者となるのです。レネ神父様は、これらの御自身の発言により、創立者であるルフェーブル大司教様を代弁かつ弁護するのではなく、実質彼を裏切ると共に、彼の方針を修正しています。彼がこの発言をする本当の目的とは、主に、近代主義という異端に染まった非カトリック教会との合意(=正式な棄教)を計画する聖ピオ十世会に対して生じてくる司祭会会員及び賛同信徒方からの非難を抑えると共に、ノヴス・オルド教会(公会議教会=反キリストの教会)の権威者たちに対する親近感と子としての服従を表明し、同教会による司祭会の受け入れを容易にする為です。レネ神父様は否定されますが、計画されている現ローマとの合意は、カトリック信仰に対する罪となります。異端教会のメンバーとして承認される事を望むとはどういう事ですか?

 敬愛するO神父様、御自分で判断してください。そして賛同信徒たちを誤導するのは止めて下さい。長上への盲目的従順はキリスト教的徳ではありません。この従順は、司祭会会員たち及び賛同信徒方のカトリック信仰と救霊を脅かし、それを犠牲にする危険があるからです。ところで、現ローマとの合意を否定されるなら、神父様にお尋ねしたい事があります。ここ最近、司祭会総長であるフェレー司教様が、ローマで“教皇”フランシス一世と密会しているようですが、その目的を教えて下さい。

 最後に、上述した今年10月に列福予定のパウロ六世に関するビデオを紹介致します:

一聖伝信徒より

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村



 2017年6月9日アップデート済み

 

 

 

 敬愛する聖ピオ十世会司祭方、特にO神父様、及び同会賛同信徒の皆様に、本日はカトリック教会の教皇、ベネディクト十四世の「列聖」に関する言葉とそれを補足してくれるはずのサレジオの聖フランシスコの言葉を贈ります。知的な人間の不正直は、無学な人間のそれより神の御前に於ける責任は大きいはずです。どうかその場凌ぎの理屈ではなく、カトリック教義と神学に基づいて、御会の立場を再度考察して下さいますように。

***


 先ずは教皇ベネディクト十四世御自身の言葉: ベネディクト十四世



 試訳:『普遍的教会(カトリック教会)は、教皇によって道徳に関する誤謬に導かれ得ない;しかしもし彼が聖人たちの列聖に於いて不可謬でないとすれば(間違うとすれば)、そうなるだろう。』

Doctrina de Servorum Dei Beatificatione et Beatorum Canonizatione [1811], Ch. XLIII, sec. 4; qtd. in Fr. Sylvester Berry, The Church of Christ [Herder, 1927], p. 510



 原文:"The universal Church cannot be led into error concerning matters of morals by the Supreme Pontiff; but this would be the case if he were not infallible in the canonization of saints"


 訳者解説:この言葉は、列聖と道徳の密接な関係を説明しているのであって、「教皇は列聖に於いて間違い得る」と言っているのではありません。言い換えれば、「道徳に関して不可謬なカトリック教会は、それ(道徳)と密接な関係にある列聖に於いても間違い得ない。」と言っているのです。事実、カトリック教会は常に(信仰と)道徳に関して不可謬です。それはつまり、カトリック教会が常に列聖に於いて不可謬である事を示しています。従いまして、新旧聖ピオ十世会により、公会議前の列聖と公会議以降のそれを区別する論理は、先ず「公教会の非変節性/永久性(浦川司教訳)/不可崩壊性(トレント公会議公教要理和訳)」の断絶と、「公教会及び教皇の(列聖=道徳に於ける)不可謬性」のそれを意味し、聖主イエズス・キリストの御約束:『貴方はペトロ(岩)である。私はこの岩の上に私の教会(カトリック教会)を建てる。地獄の門(異端)もこれには勝てない。』(マタ16.18)が瓦解したのではないかという疑いもしくは結論へと信徒たちを導いてしまします。しかしこれは異端、信仰に対する罪です。キリストの神秘体の可視性に対する誤った解釈により、聖ピオ十世会は、アルゼンチンの枢機卿時代に、同姓愛カップルの結婚に自身のカテドラルの使用を承認し、偽教皇選出後にはカトリックの神の存在を否定し、不倫状態にある女性に聖体拝領を許すなどしたベルゴリオ氏(通称“教皇”フランシス一世)を、何が何でも教皇だと見做さなければならないのです。公教会の可視性には、目に見える教皇が常に必要だからですか?では一人の教皇が逝去された後の数日間、あるいは西方大離教の約40年間(1378-1417)には教皇は不在でした。しかしそれはキリストの神秘体である公教会の可視性の中断ではなく、上述したキリストの御約束に矛盾するものではなかったとカトリック神学者たちは言ってます:


 試訳:
しかしながら頭<教皇>たる人の絶える事なき(永続する)物理的(身体的)存在は、それほど厳密に必要ではない。(エミール・ドルシュ-Aemil DorschInsitutiones Theologiae Fundamentalis 基本的神学の教育原則>、教会について 2:196-7


 原文:
The perennial physical presence of the person of the head, however,  is not so strictly necessary.” (de Ecclesia 2:196–7)



 御覧のように、「可視的教皇の存在」は、「公教会の可視性」を維持する上で絶対不可欠な条件ではないのです。つまり、「可視的教皇の不在」は、「公教会の可視性」の中断にはならず、キリストの御約束と矛盾しないのです。

 

 さらに、可視的頭、あるいは可視的とされる“教皇”の有効性に何らかの疑いがある場合、カトリック教会は、この“教皇”の有効性についての疑いを払拭する義務があります:


 試訳:公教会とは、可視的(目に見える)統治者(教皇)を持った可視的共同体である。もしこの可視的統治者について何らかの疑いがあり得る場合、彼は可視的ではなく(つまり公会議教皇たちは可視的統治者であり得ない)、それ故に、ある人が合法的に選出されたのかどうかという疑いがある場合には、その疑いは彼がキリストの教会の可視的頭になる前に取り除かれなければならない。

 原文:“The Church is a visible society with a visible Ruler. If there can be any doubt about who that visible Ruler is, he is not visible, and hence, where there is any doubt about whether a person has been legitimately elected Pope, that doubt must be removed before he can become the visible head of Christ’s Church....”(The Defense of the Catholic Church [1927] Fr. Francis X. Doyle, S.J. )


 ですから、レネ神父様による可視的教会の解釈は、カトリック神学者のそれと矛盾しています。同神父様に拠れば、カトリック教会の頭たる教皇は、彼の選出が有効であろうがなかろうが、とにかく目に見えるものであれば良いのです。聖ピオ十世会にとって、可視性さえあれば<目に見えされすれば>教皇の有効性などどうでも良いのです。『彼の教皇職の有効性はどうであれ、彼が教皇を自称する事により目に見える存在<可視的>でいてくれれば、自分たちは彼の懐に入って行って、その批判を受けながらも、聖伝擁護を口実に、好きな事が出来る』というのが聖ピオ十世会の考え方です。ですから司祭会は“聖”ヨハネ二十三世や“聖”ヨハネ・パウロ二世をカトリック教皇とは認めつつも、彼らを聖人として崇敬する事はないでしょう。



Alphonsus%20Litany それでは、サレジオの聖フランシスコ(柔和な聖フランシスコ)の言葉を以って、列聖の不可謬性に関する教えを補足し、あらゆる疑いを一蹴したいと思います:

 

 試訳:『公教会が間違うと言う事は、神は間違う、あるいは神は私たちが間違う事に同意しており、かつそれを望んでいると言う事に等しく;それは大いなる冒涜となるだろう。』

 

 

 原文:“…to say the Church errs is to say no less that God errs, or else that He is willing and desirous for us to err; which would be a great blasphemy.”(The Catholic Controversy,1909, p. 70)

 

 

 

 結論として、カトリック教会の列聖に異議を申し立てる態度は、信仰の擁護者を自称する聖伝主義者に相応しくありません。選択肢は三つもないのです。列聖は不可謬であるかないかの二つであり、そしてその答えはたった一つ「不可謬」であります。カトリック教会の列聖は不可謬だが、公会議教会の列聖は疑わしいなどという詭弁はもう止めにしましょう。公会議教会は反キリストの教会なのだと見切りをつけなければなりません。カトリック教会と公会議教会は全く別々の組織なのですから。『聖主イエズス・キリストの創立された教会は、ある時は霊魂に有益であり、またある時は、それに有害である』と印象付ける司祭会の立場は、冒涜的と言えないでしょうか?それが何時までも続くはずがありません。

 

 

 最後に“聖”ヨハネ二十三世に関するビデオを紹介致します。彼は反キリストの教会である公会議教会の功労者と言えるでしょう:



 

 

 

 

 

 

 

一聖伝信徒より

 追伸、

 本日は聖ピオ五世の祝日であり、聖伝ミサの中継があるかも知れませんので、22以降こちらを訪問してみてください。」

 



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 復活後第二主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちら を22時以降に訪問してみてください。聖体訪問なら、現時点でも(5月4日、20時15分)可能です。

 

 

 

追伸、

 

 

 

  聖ピオ十世会が『我こそ真の反リベラル主義(反自由主義=反近代主義)*だ!』と主張するのであれば、列聖に異議を唱えるというリベラル(自由主義的=近代主義的)な態度は取らないはずです。それとも『リベラルな教皇による列聖は必ずしも不可謬ではない』という聞いた事もない珍説を持ち出すのでしょうか?この問いに、『教皇と公教会の不可謬性』及び『公教会の非変節性』に一切抵触せずに説明する事が、聖ピオ十世会、あるいは厳律聖ピオ十世会には可能でしょうか?答えはもちろん不可能です。もしも教会が列聖に於いて間違い得るのであれば、教会が(信仰と)道徳に関して不可謬であるという真理は崩壊する事になります。一日も早い、真のカトリックへの回心を心からお祈りしております。

*ここでいう近代主義とは、カトリック宗教に適用された自由主義のこと。カトリック自由主義=近代主義

 

 

一聖伝主義者より

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ