セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2013年12月

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 「御降誕の大祝日のオクターヴ(八日間)中の主日」の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちらを21時以降(御ミサはおそらく22時から)訪問して見て下さい:

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2019826日修正アップデート済み




 少し時間と体力の回復を見出しましたので、聖ピオ十世会日本人司祭O神父様が過去になされたセデヴァカンティズム批判の論駁第一回目を掲載させて頂きます。先ず、セデヴァカンティズムの揺るがぬカトリック的原理ともいうべきものをここに書き出しておきます。

A)真の聖なるローマカトリック教会とその真の教皇たちは、第二バチカン公会議前のどの期間を取り出してみても、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった。

B)しかし第二バチカン教会(現在カトリックと自称する公会議教会)とその教皇たちは異端と誤謬を教えている。

C)従って、第二バチカン教会とその教皇たちは真の教会でも真の教皇でもない。

******************************

批判A論駁



クレディディムス・カリターティの628日掲載文から:

 『カトリックの古典的な神学は、教皇その人とその職務とを区別することを教えているからです。カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇その人(ペルソナ)と教皇の役職を区別することを教えてくれたからです。何故区別するかというと教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです。この現実を説明するために、カトリック神学は教皇のペルソナとその役職とを区別しました。つまり、教皇は、自分の最高の権威に訴えて教導職を行使しない場合には、個人として誤謬を犯しうる、ということです。』

 論駁:

 古典的なカトリック神学者たちが、教皇職とその人を区別した<あるいは教皇の職と人を区別した>のは、教会史に於いて存在するとO神父様が主張される「教皇がかつて<信仰と道徳について>発言したあるいは命令した言葉が全て不可謬で誤りがないとは明らかに言えない場合が存在しるから」ではありません。それは上述した原理Aを否定するものであり、聖主イエズス・キリストが御自分の教会になされた約束(マタイ1618)を否定するものです。彼ら古典カトリック神学者は先に「どうすれば教皇は<公の>異端者及び離教者になる事が出来るのか」と問うたのです。そしてこの問いに対し、カエタノが教皇職とその人を区別する事によって回答しています。以下、私の拙い和訳を掲載します:





だが、彼ら(古の神学者たち)は問うている、教皇はどうすれば離教徒になるのか?彼は教会の頭、即ち、自分自身(教皇)からも、教会からも分かれる事など出来ないのだ。何故なら、教皇のいるところ、そこには教会があるからだ。

 この問いに対して、教皇は教会の霊的頭として振舞う事を放棄し、例えば地上の君主として振舞うと布告する事によって、この<愛徳の>一致を破る<つまり離教する>事が出来るとカエタノは答える。その時彼は、自らの自由を守らんが為に、己が地位の諸義務をうまく避けるだろう。そしてもし彼がそれに執着を置けば、棄教が発生するだろう。教皇のいるところ、そこには教会があるという格言に関して言えば、それは教皇が教皇及び教会の頭として振舞う場合のことなのだ。さもなければ、教会は彼の内になく、彼は教会の内にないのである<つまり彼は教会のメンバーではなく、教皇ではないの意>。”(シャルル・ジュルネ、御託身された聖言葉の教会p.1380:http://books.google.co.jp/books?id=UG1sK3fCeiMC&pg=PA1380&lpg=PA1380&dq=et+si+hoc+in+animo+pertinaciter+gereret,+esset+schismaticus+per+separatio&source=bl&ots=iiO2tVOPq7&sig=dPPosgJQJ7FpU83N_ztP9LNqy5E&hl=ja&sa=X&ei=bZHvUd_-NY3KkwXKp4HwCA&ved=0CDYQ6AEwAQ#v=onepage&q=et%20si%20hoc%20in%20animo%20pertinaciter%20gereret%2C%20esset%20schismaticus%20per%20separatio&f)

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  この様に、カエタノが教皇職とその人を区別した理由とは、教会と切り離して考えられない教皇たる者がどうやって離教者となり得るのか?という古の神学者たちの問いに答えるためだったのです。私は、未だに古の神学者たちが「教皇がかつて<信仰と道徳について>発言したあるいは命令した言葉が全て不可謬で誤りがないとは明らかに言えない場合が存在する」という理由から、教皇の職と人を区別している文献を見た事がありません。仮にこの区別について言及するものがあったとしても、O神父様が主張される「教皇が公に可謬である<間違い得る>事を証明する為のもの」でない事は明らかです。従って、O神父様が暗に仰りたいのであろう「教皇のその職とその人を切り離して考えれば、公の異端者である公会議教皇たちは、彼らの人は公の異端者であっても、彼らが就いている教皇職は無傷、つまり不可謬のままである」という主張は、完全に矛盾しており、古典的神学者の名を借りた苦し紛れの虚言となってしまいます(いや、むしろ誰もがやらかす失言だと理解します)。以前私のブログに掲載したチェカダ神父著『聖伝主義者、不可謬性と教皇』の付録1から一つ引用させて頂いて、批判A論駁を締めくくりたいと思います:



聖アントニヌスSt. Antoninus+1459

 「教皇が異端者となる場合、その事実のみにより(自動的に)、また他の如何なる宣告も伴わずに、彼は公教会から離脱しています。身体から離脱した頭は、それが離れたまま留まる限り、自分が切り離されたのと同じ身体の頭である事が出来ません。





 「従って、異端によって公教会から引き離される教皇は、その事実それ自体によって公教会の頭ではなくなります。彼が異端者でありながら相変わらず教皇であるはずがないのです。何故なら、彼は公教会の外にいる事から、彼には公教会の鍵 [1]を持つ事が出来ないからです。」Summa Theologica, cited in Actes de Vatican I. V. Frond pub.. <第一バチカン公会議の公文書に於いて引用された神学大全 . . .

 


[1]:聖ペトロの鍵とは、罪を赦し、教義的判断を下し、公教会の規律に関する判断を下す権能のこと。

 一聖伝信徒より、聖ピオ十世会メンバー及びO神父様の回心を祈りつつ

追伸、

 心不全で緊急入院した老母は、死の危険から脱して今のところ早い回復を見せています。セデヴァカンティスト司祭及びシスター方、母の回復の為にお祈りをして下さった方々に心から感謝します。それでは読者の皆様、良き御降誕節を。

 

 





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 幼子殉教者の祝日に

 三日後の31日に封切りとなる『教会論ディベート』に皆様を御招き致します。このディベートに参加される方は、セデヴァカンティスト代表のドナルド・サンボーン司教様(Bp. Donald Sanborn)、そしてノヴス・オルド代表のロバート・ファスティッジ博士(Dr. Robert Fastiggi)です。第二バチカン公会議以降の“教皇たち”を真の教皇だと見做している方は、後者であるファスティッジ博士の立場に立って、このディベートを御覧下さい。もちろんどちらの立場にも属さないとお考えの聖ピオ十世会賛同者の方々も、このディベートをご視聴される事をお勧めします。ノヴス・オルドの教会論が反カトリックであり、聖伝の教えと矛盾していると理解しながらも、この公会議教会はやはりカトリック教会であり、その頭たる公会議教皇たちはカトリック教皇だと見做す立場の矛盾と欺きに一人でも多くの司祭会賛同者方が、このディベートを通して、お気づきになる事を期待しています。

議題:第二バチカン公会議及び公会議後の教会によるカトリック教会の本質に関する教えは異端である。

参加者:

●肯定の立場を取る人:ドナルド・サンボーン司教(セデヴァカンティスト)

否定の立場を取る人:ロバート・ファスティッジ博士(ノヴス・オルド)

司会:コートニー・ロビンソン(Courtney Robinson)氏

ディベートの日付:2004年7月19日

ディベートの長さ:2時間

封切り日:2013年12月31日

典拠:http://www.novusordowatch.org/v2debate.htm

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 聖主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます!

Hodie Christus natus est,

今日、キリストがお生まれになられた

 hodie Salvator apparuit

    今日、救い主がお現れになった!

  

 

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 今夜(12月24日)22時ごろから、聖主イエズス・キリストの御降誕祭前日の歌ミサが中継され、明朝4時から第一晩課(ヴェスパー)、さらに明日13時頃から、行列及び馬草桶(まぐさおけ)内の幼きイエズス像の祝別式が、そして13時15分頃から、御降誕祭の第一ミサ(深夜ミサ)が中継されると思われます。この神聖で荘厳な時間を霊的かつ有意義に過ごす為の一助としてこの実況中継をご利用下されば幸いです。また実況中継される御ミサに深い信心をもって与る事により、多くの恩寵が得られる事を思い出して下さい。中継スケジュールについては、この大聖ゲルトルード教会報の1ページ左コラムを参考にして下さい:http://www.sgg.org/wp-content/uploads/2013/12/20131222.pdf

 現地時間に日本との時差14(時間)を足せばスケジュールが直ぐ分かります。

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 既出で申し訳ありませんが、私の大好きなクリスマス曲、エクトール・ベルリオーズ作詞、作曲の[The Shepherds' Farewell to the Holy Family]を本年も紹介させていただきます:

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 待降節第四主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちらを20時以降に訪問して見て下さい:

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 まもなく聖主イエズス・キリストの御降誕祭です。よろしければ、既出ですが、この[O come O come Emmanuel]をお聞き下さい:

 そしてラテン語バージョンのこれを:

 追伸、

 この待降節中、数々の十字架を頂きました。その中の最たるものとは、私にとって最愛の存在である母の鬱血性心不全による緊急入院でした。ですが、死に臨む霊魂というものは、時に、救霊について真剣に考えると言います。もしそれが天主の思し召しならば、私は母に洗礼の秘蹟を授けたいと思います。メメント・モリ(死を覚えよ)!死を忘れてはならない。死は必ず、そして突然やって来るのです。幸い、今のところその母は死の危険を免れています。Deo Gratias!

 病人の回復なる聖マリア、我らの為に祈りたまえ。

一聖伝信徒より

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 待降節第三主日、つまりガウデーテの日曜日の聖伝ミサを視聴されたい方は、こちらを20時以降に訪問して見て下さい:

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 入祭文:

 兄弟たちよ、主において常に喜べ、繰り返して言う、喜べ、全ての人に柔和を示せ、主は近い、何事にも思い煩うな、全てにおいて、祈り、願い、感謝して、求める事を神に言え。人間の理解を越える神の平安は、あなたたちの心と考えとを、キリスト・イエズスにおいてまもり給うであろう。(フィリッピ 4.4-7)

**********************

追伸、

 先日、実況中継による聖伝ミサ視聴の有効活用について言及させて頂きましたが、もう一度繰り返させて頂きます:

 『私たちは神聖な典礼に実際出席していなくても-取り分けそれに自分の意向と信心を向けることによって-御ミサの恩恵に与る事が出来る。ラジオ<当然、実況中継画像>を通じて御ミサを拝聴する事によって、確かに自らの信心を養い、またそれ故に聖なる犠牲の奉献から少なからぬ利益を得る事が出来るのである。それどころか、この方法によって聖なる犠牲<御ミサ>に与る者は、実際に出席する多くの者よりさらに多くの利益を獲得するという事がおき得る(1950年代の著名な倫理神学者、フランシス・コネル(Francis Connel)神父)

 ちなみに、テレビジョンの語源とは、フランス語のテレヴィズィオン[television (アクサンテギュ省略)]に由来し、tele(τηλε)はギリシャ語の「遠く離れた」又は「遠隔の」、そしてvisionはラテン語で「視界」の意味を持ちます(WIKI参照)。昨日アップされた聖ピオ十世会系のブログにおいて、

動画はその文字のごとく動く画ですし、TVはテレヴィジョン直訳で遠隔幻影...  動画やWebはあくまでも情報伝達のための道具であり、そこから得た情報を信仰を深める為に使うだけです。私はあることに気がついたのですが、幻影をみていてなにかミサに与る気分に なっているだけの人ってかなり多いのではと思います。

という薮蛇的コメントを読みましたが、これを読めば、指導司祭のO神父様のお考えを代弁していない事は明白です。先ず、テレヴィジョンの直訳として、いきなり「幻影」を選択するところは、管理人様の単なる無知(私も同様です)、あるいは用意しておいた結論につなげるための恣意的選択意図が伺えます。[vision]には「視野」、「展望」、「幻」、「幻覚」、「幻視」、「想像図」、「光景」、「有様」、そして「映像」などの意味があります。このテレヴィジョンの意味として、「遠く離れた」あるいは「遠隔」という意味の後に、「幻影」という意味をつなげて、「遠隔幻影」という訳語を作り上げるところをみても、私は首を傾げずにはいられません。何故、常識的に「視界」、「有様」、「光景」、そして「映像」という訳語にしないのか????  以前、もう一つの聖ピオ十世会系ブログ[G]が、「聖霊降臨後最終主日のミサ聖祭」の動画を紹介された事がありました。私はこのブログの管理人様が、聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会で作り上げられた「幻影」を紹介したとは今でも思っていません。テレビの「映像」が全て幻影なら、テレビ局は魔術師か詐欺師となります。もちろん現ネオコン(極左)政権与党がテレビ映像を通して語る「防衛構想」は虚構でしかありませんが。話しはずれました。そういう訳で、私は批判対象となっていたと思われるブログ[G]を弁護しながら、本ブログにアップする実況中継の聖伝ミサを十二分に弁護させて頂きました。

 このように、聖伝ミサの実況中継とは、幻影という偽物の中継ではなく、実際に行なわれている聖伝ミサの遠隔映像であり、プロテスタントの御像反対論者による迷信という非難に値するはずもなく、正しい信心を持ってさえいれば、実際それに霊的に与る事が出来るのみならず、霊的聖体拝領を併用すれば、想像以上の多くの恩寵を実際に頂く事が出来、「御ミサに与っている気になるだけ」で終わる事など決してありません。それは「幻影」ではなく聖伝ミサの「光景」、「映像」だからです。但し、自宅から通える範囲内で真の聖伝ミサが捧げられている場合、主日の務めを果たす為に、それに与るのはカトリック教徒の義務です。 本物の聖伝ミサとは、残念ながら聖ピオ十世会が捧げている「1962年版ミサ」のことではなく、第二バチカン公会議前に捧げられていたものです。従って、真の聖伝ミサを捧げる司祭がいない日本の様な国に於いては、その代わりとして「実況中継による聖伝ミサ視聴」は大変有効かつ重要なものとなります。残念なのは、中継時間が遅い為、実際、翌日仕事が控えている私の様な者は、この中継を視聴する事が非常に困難です。最後に、司祭不在の時に臨終を迎える場合、力のある限り「完全な痛悔(perfect contrition)」の念を起こす事で、大罪の赦しを得る事が出来ます。これはカトリック的常識です。司祭不在のまま死を迎えなければならないカトリック教徒は、この「完全な痛悔」を起こす事により平安な死を迎える事が出来る事を知っておくべきです。

 それでは、良き喜びの日曜日をお過ごし下さい。

一聖伝信徒より

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 『聖マリアの無原罪の御宿りの大祝日』の聖伝ミサ(≠偽教皇ヨハネ二十三世の1962年版ミサ)を視聴されたい方は、こちらを20時以降に訪問してみて下さい:

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 本日の御ミサ中に歌われる昇階唱(Graduale)である[Benedicta es tu]を紹介致します。

 昇階唱

 (ユディトの書、13.23) 童貞女マリアよ、貴女は地上の女のうちで、いと高き神なる聖主によって、祝せられたものである。

 V. (ユディトの書、15.10) 貴女は、エルザレムの光栄、イスラエルの喜び、我らの民の誇りである。

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 追伸、 

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 原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らの祈りを聴きたまえ。

 トロツキスト大国の指図により、似非保守政党が強引に可決した悪法から、この日本を守りたまえ。

 一聖伝信徒より

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 待降節第一主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、20時以降にこちらを訪問して見て下さい:

 待降節中の終課で歌われる『アルマ・レデンプトーリス・マーテル(Alma Redemptoris Mater)』を御紹介致します:

 それでは、良き待降節をお過ごし下さい。

一聖伝信徒より

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