セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2013年01月

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村



2015年7月12日アップデート済み

 本日から、アンソニー・チェカダ神父様著『1968年の司教聖別式:それはやはり無効である』の連載を開始致します。因みに、ベネディクト十六世はこの新しい儀式により司教に聖別されています。この記事をお読みになれば、公教会の悲惨な現実というものを理解されると思うのですが . . . . またこの論説の翻訳は、公会議教会の自称聖職者たちを正確に判断する上で非常に有益だと思いました。時間の都合から、翻訳の進行が遅れるとは予想しておりますが、どうかそこのところご理解願います。


 ところで、アルジェリアで起きたテロ事件を利用し、日本のトロツキスト政府は憲法改定に向かうでしょう。米国がイラク侵攻の為に9・11を必要とした如く、今回日本政府は憲法改定のために、このテロを必要としていたと考えます。もちろんこのテロ行為を必要としたのは日本政府だけではないでしょう。9・11や3・11人工地震を鼻で笑っている、自称賢人たちは世の中の真実について余りに疎いことから、未だに新聞、テレビが垂れ流す茶番劇報道に基づいて全てを判断しているようです。


 ああ聖母よ、一日も早く、この様な虚偽の世界に終止符を打って下さい。それから教皇座の空位を正直に認める霊魂が増加しますように。偽りの聖伝主義者が一日も早くセデヴァカンティズムを理解し、真のカトリック信仰に立ち返りますように。


一聖伝信徒より


********************************




1968
年の司教聖別式:





それはやはり無効である
 





アンスガール・サントグロッスィ修道士(Br. Ansgar Santogrossi)、ピエール・マリー・ドゥ・ケルゴルレ神父(Fr. Pierre-Marie de Kergorlay)及びアルヴァーロ・カルデロン神父(Alvaro Calderon)からの異議に対する回答




―アンソニー・チェカダ神父(Rev. Anthony Cekada)―




­­­­­­­­­­­­­­­­­­______________________________________
 




 20063月、私は1968年にパウロ六世によって公布された新しい司教聖別の有効性を調査する14,000語の研究論文、『確実かつ完全に無効である(Absolutely Null and Utterly Void)』[1] を発表しました。この記事の見出しからはっきりお分かりの通り、私はこの新しい儀式が無効であると結論を下しました。




 幾つかの事柄がこの記事を書くに至らしめたのです:つまり相当数の“認可された” ラテン語の聖伝ミサは、今や諸教区あるいは聖ペトロ会(Fraternity of St. Peter)や王たるキリストの修道会(the Institute of Christ the King)の様な諸団体の下で捧げられている事、さらにこれらの教区や団体に関係する司祭たちの叙階(ordinations)が、新しい儀式により聖別された司教たちにまで遡るという事です。ですからもしこれらの司教たちが真の司教でないとすれば、彼らが叙階した司祭たちは司祭ではありませんし、彼らのミサに与る信徒たちは、単にパンを拝領する事になるのです。




 それに加えて、20054月にあったベネディクト十六世の教皇選出以来、聖ピオ十世会(SSPX)は自会の公会議教会への統合に向けてバチカンとの交渉をして来ました<これからの継続する>。多くの聖伝主義者たちは第二バチカン後の秘蹟儀式(sacramental rites)の有効性を疑っている事、そして確かにベネディクト十六世が例の新しい儀式により司教に聖別されている事から、SSPXの長上たちは、新しい司教聖別式が有効であるという事を論証する為に、ドミニコ会聖職者のピエール・マリー・ドゥ・ケルゴルレ神父を自分たちの軌道へと(in their orbit)招いたのです<ここは注意すべき点である。この司祭の論説が、以後SSPXによって、至る所で、公会議教会をカトリック教会と同一視させ、公教会と教皇の不可謬性に幾つかの例外を設ける目的で用いられているからである。これは恣意的思考誘導と言える代物であり、真実を葬り去る為の道具に用いられるだろう‐和訳者>。




 ピエール・マリー神父の研究論文は、先ず2005年秋に、ドミニコ会の季刊誌であるセル・ドゥ・ラ・テール誌Sel de la Terre :地の塩)に掲載されました。SSPXは早急にそれを翻訳させると、SSPXの英語出版物である、アンジェルス誌The Angelus)に、『新しい司教聖別は何故有効なのか(Why the New Rite of Episcopal Consecration is Valid)』[2]という見出しで 印刷させています。




 私自身の記事は、ピエール・マリー神父の主要な論拠に焦点を当てました。すると今度は、新しい司教聖別式の無効性を論証する大量の文書を出版して来たヨーロッパの聖伝主義者たちのグループ、ローレ・サンクティフィカ(Rore Sanctifica[3]の奮闘のお陰によって、それがフランス語に翻訳され、フランスに於いて広範囲に行き渡ったのです。




 その後、私は大衆的普及を意図した(その上フランスで翻訳及び配布されもした) 『新しい司教たちはどうして真の司教ではないのか』[4] という題名の概要を二ページで示しました。それから私は、(どいういうわけか)この主題についてフランスのラジオ放送で二つのインタビューを行うと、20067月の総会に参加予定だったフランス語圏のSSPXのメンバーたちに宛てて、この記事のコピーを個人的に送付しました。




 この記事を酷評する幾つかの回答が現れました。しかしながら、この文書(200612月)に関して同様に、ただ三名の執筆家だけが、対処の必要ありと私が考える本質的論争点を提起したのです:




聖ベネディクト修道会、アンスガール・サントグレッスィ 修道士。オレゴンにあるエンジェル大修道院(Angel Abbey)のベネディク会士であり、(パリの)カトリック大学(Institute Catholique)の卒業生であるアンスガール修道士は、メキシコはクエルバカ(Cuernavaca)の教区神学校で哲学と神学を教えている。彼の論評は、先ず最初に、フランスのインダルトグループに現在は奉仕するSSPXの元メンバー、ギィヨーム・ドゥ・タヌアール(Rev. Guillaume de Tanöarn)神父によって編集されたフランス語出版物であるObjections<異議> [5] に掲載されました。その後、別版が米国の聖伝出版社ザ・レムナント(The Remnant[6] から発売されています。




ピエール・マリー・神父。ピエール・マリー神父自身の回答は、セル・ドゥ・ラ・テール誌 [7]に印刷され、短い“通達(Notes)”という形で姿を現しました。後になり、それは(他に二つの短い通達と一緒に)彼の原文記事の再印刷に付け加えられています。[8]


アルヴァーロ・カルデロン神父。カルデロン神父はアルゼンチンにあるSSPXの神学校で神学を教えています。彼の回答はセル・ドゥ・ラ・テール誌 [9]に、それから次にアンジェルス誌 [10] にも掲載されました。

 新しい司教聖別式の有効性に関する議論は、聖別式の本質的な秘蹟形相/聖別式に欠かせない秘蹟形相(its essential form)‐つまり秘蹟儀式の中で秘蹟の効果を生じさせるのに必要かつ十分な言葉‐に集中します。






 アンスガール修道士、ピエール・マリー神父、そしてカルデロン神父たちによる異議へと向かう前に、私は私独自の論拠の中にある幾つかのキーポイントを概説するつもりです。





アンソニー・チェカダ神父は至聖三位一体(Most Holy Trinity神学校に於いて秘蹟倫理神学(sacramental moral theology)、教会法、及び典礼学を教えている。彼は1977年にルフェーブル大司教により叙階され、聖伝主義問題(traditionalist case)を提起する数多くの記事と研究論文を執筆した。彼は自身がラテン語の聖伝ミサを捧げるコシンシナティー近郊に住んでいる。




[1]www.traditionalmass.org. インターネットのの手段がない方々は、大聖ジェルとルード教会(St. Gertrude the Great Church)、4900 Rialto Road, West Chester OH 45069, 513.645.4212.と連絡を取る事により当論説の無料コピーを入手する事が可能です。

[2]200512―20061月。




[3]www.rore-sanctifica.org. このブループの名称は、恐らく1947年のピオ十二世により規定された司教聖別の為の秘蹟形相から取った言い回しである、“露を以って聖化し給え”を意味するラテン語です。ピエール・マリー神父の論説はローレが新しい司教聖別式の無効性について発表した最初の関係書類への回答として書かれました。




[4]大聖ジェルトルード会報(St. Gertrude the Great Newsletter200610月号;さらにwww.traditionalmass.org. も御覧下さい。




[5]:『新しい司教聖別式の有効性に関するチェカダ神父への回答(Réponse à l’abbé Cekada sur la validité du nouveau rite d’ordination épiscopale』、異論 6Objections 6 20066月)、3641




[6]:『新しい叙階式の無効性に関するセデヴァカンティスト的‘証拠’の論駁(

A Refutation of the Sedevacantist ‘Proof’ of the Invalidity of the New




Ordination Rites 』、レムナント出版、2006915日、1112




[7]572006年夏号)。




[8]彼らは司教なのか?新しい司教聖別式は有効なのか?(Sont-ils êveques? Le nouveau rituel de consécration épiscopale est-il valide?フランス、アヴリエ:2006セル出版の改訂版、756




[9]:『司教聖別儀式の有効性(La Validité du rite de consécration épiscopal)』、582006年秋号)2136




[10]:『司教聖別式の有効性(The Validity of the Rite of Episcopal Consecration):異論への回答』、アンジェルス誌200611月号)、424






典拠:http://www.traditionalmass.org/images/articles/NuEpConObjex.pdf

*********************************






にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村


2021年3月20日修正アップデート済み



 本日は『抵抗と非変節性』の最終回となりました。このブログを興味を持って読んで下さる方々にとって、この最終回の内容は有益なものとなるでしょう。また先日コメント欄に質問をして下さったAve様の一つの質問:「公会議教会に通いながら、あるいは空位派ではない Traditional Latin Mass を捧げる司祭に指導を仰ぎつつ、空位派的な信仰を持つ方もおられるのですか?」への回答は、本日の掲載記事の中に“も”見付かると思います。空位的信仰、つまりセデヴァカンティズムの立場にある聖伝カトリックたちの信仰は、エクレズィア・デイ体制とルフェーブル主義(聖ピオ十世会)体制を、和解不可能なるものを和解させんとするその思考及び行動様式から、冒涜的自由主義体制として拒絶しています。ですから、『聖ピオ十世会の司祭に指導を仰ぎつつ、公会議教会に通うという離れ業を行なう空位派的信仰の持ち主』は、存在し得ないという回答になります。仮にその様な方が存在したとしても、日替わりで、思考が右往左往する方だと私は考えています。

 休みを利用して、重要な記事の翻訳掲載をする事が、今の自分の使命だと考えています。どうかこれからも本ブログの応援よろしくお願い致します。

 それから、ネオコン政権の樹立した日本に、御保護がありますよう、どうか皆様、聖母にお祈り下さい。マスコミの報道を丸呑みしないで下さい。本政権は『不正選挙』によって生まれた可能性があります(総論否定する前に御自分で検証あれ)。聖伝信徒の時事問題に関する疎さは、国家の為の祈りを弱めてしまいます。お忘れなく。『ネオコンと来たら極左だ!』ということを。今日本政府はトロツキスト的偽装保守政党に支配されています。

*************************************

 

3. セデヴァカンティスト解決策。聖ドミニコ会のユゴン(Hugon)神父はあの有名なトミズム(Thomism)対モリニズム(Molinism:静寂主義)の論争について仰いました。“それぞれの体制は困難に従属しており、実際にこの問題に於ける玄義の排除は誤謬の印となるでしょう。”彼はその時トミズムの不明瞭さ(obscurity)はその原理に由来しているのではなく、むしろどうやってその諸原理が天主に於いて調和させられるのかを理解する人間知性の弱さに由来していると指摘しています。その反対に、モリニズムは神的因果関係の最も普遍的で最も確実な神学的諸原理に対して設けられた特例の煽りを受けており、天主の中に 受動性 (passibity) を置く事で終わっています。従って、モリニズムの不明瞭さは、天主と受動性を調和させる事が出来ない事に起因するのです。両者は二つの完全に矛盾した概念であり、その一方でトミズムの不明瞭さは、完全に確実な諸原理の、天主に於ける、調和に起因しています。ですからトミズムは、無制限の神秘<人知を超越した事柄>を貴方に残しはするのですが、モリニズムの方は矛盾を貴方に残すのです<ここではセデヴァカンティズムをトミズムに喩え、ルフェーブル主義をモリニズムに喩えている事に注意>。

 

 


 

 同じ様にして、セデヴァカンティストの立場は適切な原理全てを主張するのですが、私たちにはこれらの原理の究極の和解を理解する事が出来ない為、難解なまま留まります。言い換えれば、セデヴァカンティズムは公教会の非変節性に関する本質的要素の全てを保ちはしますが、それでもやはり、ノヴス・オルドという罪悪の玄義を如何に説明するのか、即ち、使徒座の長期の空位がどのようにして究極的には天主の栄光に役立つのか、さらに公教会はどうやって何時の日かこの恐ろしい問題を克服するのかを説明する事については何と言ったら良いのか分らないのです。しかし使徒座は空位であると主張する時、セデヴァカンティズムは(1)ノヴス・オルド宗教とカトリック信仰は同じものである(エクレズィア・デイ支持者たちの矛盾)、あるいは(2)信仰に反すると共に、霊魂に有害な教えや典礼、さらに規律をカトリック教会が公布したという矛盾した事柄を主張しようと試みはしないでしょう。

 

 


 

 セデヴァカンティストへの出発点は、ノヴス・オルドとカトリック信仰の間には本質的な違いが存在している という原理なのです。この違いは、 ディグニタス・フマネ  クワンタ・クーラ 間にある事実上の逐次的な矛盾に於いて最も明白ですが、それは同時に新しいミサや諸秘蹟、1983年版の教会法、新しい諸規律、新しい公教要理、新しい通常普遍教導権に於いても明白なのです。ですから二つの宗教は相容れないものであり、同じ教会の中で共存する事など出来ないのです。しかしもしノヴス・オルドは本質的にカトリック信仰と異なるならば、それらはカトリックではあり得ません。しかしもしそれがカトリックでないならば、彼ら<セデヴァカンティスト>はさらに進んで論じます、その時、公教会の権威は教義、礼拝、さらに規律のような事柄に於いて間違い得ないのですから、このような事柄が公教会の権威によって公布されるという事は不可能なのです。従って、彼らは結論を下します、ノヴス・オルドを公布する人々がカトリック教会の権威を有する事は 不可能 であると。それ故に、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、あるいはヨハネ・パウロ二世が教皇であるなどという事は 不可能 なのです。

 

 


 

 この結論に至らしめたこれらの原理には、全く一分の隙もありません。これらの原理は哲学か公教会の教えの何れかにより支えられています。それらは論破出来ないものであって、必然的にその結論へと至らしめるのです。このようにして、公教会の非変節性はこの体制<セデヴァカンティスト体制>に於いて守られます。何故なら、悪魔の業である近代主義のこの忌まわしいものとキリストの汚れなき淨配<公教会>とを関連付ける事をこの体制は拒絶するからなのです。

 

 


 

 ところで可視的教会は何処にあるのでしょうか?それはカトリック信仰を公に固守し、また同時にローマ教皇の選出を期待する人々の中に実現するのです。では司教たちについてはどうでしょうか?この体制は 必ずしも 全ての司教たちからではなく、新しい宗教<公会議教会>を公然と固守する司教たちからだけ権威を取り去るのです。但し、仮にこの体制が全司教から権威を取り去るにしても、セデヴァカンティズムはカトリック教会の性質を本質的に変える事はなく、むしろ秩序の復興を天主の御摂理に委ねます。これに対して、近代主義者である聖職位階なくしては解決策を想像する事も出来ないという理由から、自分自身をそれから切り離すことを恐れる二体制<エクレズィア・デイ体制とルフェーブル主義体制>は、天主と悪魔同様に矛盾した、完全に矛盾する二つのものであります、カトリック教会と近代主義とを実際に結合させるのです<自称聖伝主義者の多くはこの点を正直に認識しようとしない>。公会議“諸教皇”の教皇職を認める二体制はどう考えても正しいはずがあり得ません。セデヴァカンティズムは皆さんを 神秘(mystery に導きはしても、 矛盾(contradiction に導くことはないのです。

 

 


 

 質料的/形相的 セデヴァカンティズムを頑なに支持する人々は、可視的聖職位階は質料的に存在し続けると言うでしょう。つまり、一方で諸教皇の選出と司教たちの任命は依然として有効であるが、もう一方で、彼らによる間違った教義の公布ゆえに、その彼らは裁治権を持たないと言う事になります。従って、彼らは偽の教皇(false popes)と偽の司教たち(false bishops)ではあっても、彼らは真の選出された教皇候補たち(true popes-elect)にして選出/任命された司教候補たちなのです<ルフェーブル主義者たちの見解は、この質料的/形相的 セデヴァカンティズムに近いと訳者は考える。但し、彼らは公会議教会をカトリックと認め、公会議教皇の裁治権を認めている>。

 

 


 

 


 

結論

 

______________________________________________________________________

 

 始めのところで私がはっきり申し上げている様に、非変節性の基本的概念とは、キリストが公教会の創立に於いてそれにお与えになった本質的な性質と属性を伴って、それ<公教会>は時の終わりまで持ち堪えなければならないというものであります。公教会にとって最も重要な本質的属性とは、公教会の信仰であり、この信仰ゆえに可視的構造というものが存在するのです。もしノヴス・オルドがカトリックであるならば、その時そこには変節という問題は少しも存在せず、聖伝運動を続ける事は意味を為しません。もしノヴス・オルドがカトリックでないならば、その時それは変節を必ず含んでいるのであって、カトリック教会とノヴス・オルドを何らかの方法で結合する事は冒涜的となるでしょう。考え得る中道など一つもありませんし、それはちょうど天啓の委託物(the deposit of revelation)の考え得る本質的変更、増加、又は削減というものが存在しないのと同じです。ノヴス・オルドはカトリックであるか、カトリックではないかの何れかなのです。それはカトリックではないと私は断固として主張しますし、それだからこそ、ノヴス・オルドはキリストの権威により私たちに与えられたと主張する如何なる体制<エクレズィア・デイ体制とルフェーブル主義体制>も客観的には冒涜的であって、公教会の非変節性の破壊を招くものであると断言致します。

 

 


 

Sacerdotium1,1991年秋

典拠:http://www.traditionalmass.org/articles/article.php?id=21&catname=10

和訳:「resistance_and_indefectibility_in_japanese.pdf」をダウンロード


 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 聖主イエズス・キリストの御公現の大祝日、おめでとうございます。

 御公現ミサ視聴をご希望の方は是非こちらを、今晩9時ごろから、御覧下さい:http://www.sgg.org/for-newcomers/mass-streaming/ ここではヨハネ二十三世のミサ典書ではなく、聖ピオ十世のミサ典書による真正な聖伝ミサが捧げられています。

 最後にアンドレ・ボッチェリによる「アデステ・フィデーレス」を皆様にご紹介致します。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

 ☆本日は日本人唯一のセデヴァカンティスト司教であるX司教様に、駄目元で、嘆願のメッセージを送らせて頂きます。

敬愛するX司教様、

 この公教会の混乱した時期に、私は司教様に嘆願致します。K司教様、私と、将来私のようにセデヴァカンティストの立場を取るだろう人々の為に、司教様が担われている巨大な十字架の重さに押し潰されることなく、どうか表に出て活動して頂けないでしょうか。私と、将来のセデヴァカンティストたちは救霊の為に秘蹟を必要としています。もちろん秘蹟に与れずとも、真の痛悔さえあれば、救霊を全うする事は出来ましょう。しかし、「告解の秘蹟」や「聖主の御身体」を頻繁に与り、死に及んでも安心して「終油の秘蹟」に与って息絶える事が出来るようになる為にも、私と将来のセデヴァカンティストたちにはX司教様の存在が必要なのです。何も知らない人々はX司教様の司教聖別に異議を唱え、恰もそれは無効であり、司教様が授ける全ての秘蹟も無効であるかのように非難するかもしれません。しかし、それら全ての根拠なき非難を一蹴する神学的論文の掲載を以って、私はX司教様を全面的に支援致します。日本にただ一人の聖伝カトリック司教であるX司教様の、これまでとは違う、公生活が正式にこの日本で始まることを祈ります。X司教様、もしよろしけば、どうかコメント欄に返事を下さい。今こそ、聖伝司教としての活動を開始する時です。もしこれが実現すれば、この日本にも真のカトリック聖伝信仰が正式に知られることになるでしょう。もし実現しなければ、それを聖主の聖旨として受け入れます。聖母マリアの汚れなき御心が、聖主の恩寵をX司教様の上に溢れるほど注いで下さいますように。

一聖伝信徒より

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村


 2023年8月28日修正アップデート済

 新年明けましておめでとう御座います。どうか本年もよろしくお願い致します。

 この連載記事『抵抗と非変節性』も、残り一回となりました。恐らく聖ピオ十世会が取っている立場の矛盾に気づかれている方は何人かおられると思います。そしてこの立場をいち早く放棄し、ノヴス・オルドかカトリックのどちらかを明確に選ばなければならないという事も、何時の日か、御理解頂けるものと信じています。それなくして、公教会の現状を多くの人々に理解させる事は不可能となります。多くの方々は、ローマは棄教しているが、やはりカトリックのローマだと考えておられるでしょう。しかしここに問題の鍵があるのです。棄教しても尚、カトリックである事は出来ないと明確に認める必要があります。「棄教したローマの聖職位階はやはり従うべき権威者である」というような言葉の遊びを用いて、従順な信徒たちを誤導する聖ピオ十世会のやり方は指摘される必要があります。権威者として認めながら、聖ピオ十世会は彼らに従わないからです。日本に於いて、このような矛盾に対する神学的な指摘はこれまで為された事がないと思います。そういう意味で、この論文を紹介する事は読者の皆様の考察に取りまして非常に有益だと判断致しました。2013年が始まり、カトリック教会はさらに自らの棄教を披露するでしょう。そんな時に、聖ピオ十世会が「ベネディクト十六世は駄目だが、彼の次の教皇は私たちを認めてくれるかも知れない。いや、その次の教皇かも知れない。」と、無邪気に耳を傾けてくる信徒たちに希望的観測を囁くのは、それこそ、「世の終わりがもうじき来ると信徒たちに囁くが、何時までたってもその世の終わりが来ないのです」と彼らが揶揄する追放された司祭会会員たちと同じ醜態を演じる事になります。私としては、むしろ聖書にもある「世の終わり」に言及するウィリアムソン司教様たちの発言にこそ、信憑性があり、聖書的根拠があると考えています。「棄教したローマ」から正統な教皇の出現を期待する事こそ奇怪極まりない事です。そんな離れ業が可能だとしたら、それは異端である近代主義の教皇が現れて、私たちを承認し、私たちの支援によって、彼は回心し、それにより全カトリック教会が回心するという事になります。何故ここまで棄教したローマの一部になろうとするのでしょうか?彼らはカトリックではないのです。バランスを欠いた狂信者だと見做されるのが怖いのでしょうか?恐れる必要はありません。エキュメニストである公会議教会の発言に、何一つカトリックが耳を傾ける価値はないのです。彼らは似非カトリックであって、時と場合によって、エキュメニスト的発言と聖伝的発言を使い分け、物分りの良い賢人を装っているだけなのですから。彼らにとって、カトリックの殉教者とは狂信者であり、「文鮮明は神の預言者だ」と明言した“マザー”は聖人なのです。真に聖主イエズス・キリストを愛する人物が、新興宗教の教祖を神の預言者だと明言するでしょうか?これは聖パウロの精神に反しています。彼は異教の神々は悪魔であると明言しているからです。

 ああラ・サレットの聖母よ、どうか今年こそ、日本のみならず、世界中の洗礼を授かったカトリック教徒たちが、ローマを頂点とする公教会の現状を悟ることが出来ますように。仕事に追われ、自分の力で真実を知ろうとする気力のない人々に代わり、非力ながらこの私は真実の配信に努めたいと思います。どうか御身の母としての御保護が、この私と、このブログを偏見なくお読み下さる方々と共に常にありますように!

*****************************

2. ルフェーブル主義解決策。もし私たちが前の部分で与えられた、彼らの立場の描写、特に彼らがヨハネ・パウロ二世を、一つはカトリック教会であり、そしてもう一つは公会議教会である、二つの教会の頭であると見做している事が基本的に正確であると認めるとすれば、その時彼らの立場はカトリックの教会論の観点から眺めれば、必ず迷宮めいた矛盾を含んでいると直ちに明白になります。先ず第一に、彼らは何としてもノヴス・オルドをカトリックと非カトリックの両方であると見做すので、どういうものであれ、あの腐ったミサ<新しいミサ>の中から偶々(たまたま)カトリック的なものを少しずつ収集する為に、ノヴス・オルドの教えと規律を“篩にかける”のです。従って彼らは、ノヴス・オルドとカトリック教会を結び付けて考えています。彼らはノヴス・オルドの聖職位階を、信徒たちを教え、統治し、かつ聖化するというキリストの権威を持つものと見做しているわけです。それと同時に、彼らはまさにこの権威によって破門されているのです。何故なら、彼らは“教皇の”あからさまな命令 を無視して 司教たちを聖別しさえしながら、恰もこの権威は存在しないかの様に 行動する からです。

 

 


 

 この混乱を例証する上で、彼らの公式な機関紙であり、以下の不安を煽る言葉を私たちがその中に読むアンジェルス誌という出版物(19918月号)を引用させて下さい:

 

 


 

 公教会はキリストの保護的聖伝を放棄してしまいました。公教会はミサ、諸秘蹟、諸学校に於ける正統な教義の教え、さらに“悪魔の邪悪さと罠”から私たちを守る聖ミカエルに対する祈りさえも捨ててしまったのです。[強調付加]

 

 


 

 この権威者はただ自分の考えを不適切に表現したのかも知れないのですが、現状では、上の宣告はカトリック教会の変節(the defection of the Catholic Church)を明白に宣言しています。<公教会の非変節性という教義に反する発言である>

 

 


 

 同じ出版物の中にある編集者のページ(the editorial page)で、これに等しい警報を伴った次の言葉を私たちは読みます:

 

 


 

教皇聖下が彼ら[ルフェーブル大司教により聖別された司教たち]に裁治権を与えず、またその結果として、一部の信徒らを統治する権威を彼らに与えないのは確かに不幸な事であります。しかしながら、公教会にある信仰と諸秘蹟を守る本質的任務に関して、それ<裁治権>は偶有的でしかないものであり、それは特に司教団合議権(collegiality)という誤った概念が権威の行使と公教会に於ける聖職位階を効果的に麻痺させるか、破壊してしまった時にそう<偶有的なものに>なるのです。<裁治権の補足について言及している>

 

 


 

 このような主張は、聖ペトロに委ねられた、公教会の使徒的使命を“偶有的でしかない<非本質的な>”ものに変えてしまうのです。しかしカトリック教会をカトリックならしめるのは、まさにこの権威であり、さらにこの権威の合法的な所有と伝達であります。それはカトリック教会の形相(form)、つまりそれによりカトリック教会はそういうもの<カトリック>となるわけです。カトリック教会にとってこの権威以上に本質的なものは何もありません。おまけにカトリック教会の聖職位階による承認もなしに諸品級の権限を行使する事は 非常に重大な大罪であって、組織的かつ永続的な方法でそれが行なわれる時は何時も離教の如き香りがする事が指摘されるべきなのです。裁治権を持つのかどうかについて疑いが存する場合に、ただEcclesia supplet 公教会が<裁治権を>補足する‐の原則(the principle of Ecclesia supplet)を主張する事は出来るのですが、この裁治権を持つまさにその権威者に逆らってこの原則を行使する事は、全カトリック教会を修羅場と化してしまうのです。それは自分の権限を“直接天主から”得るプロテスタント教会に陥る事であります。もしも公教会が直接それを自分に補足してくれるという自分自身の推定に基づいて自らの品級<副助祭、助祭、司祭、司教>を行使する権利があると誰もが決定出来るなら、どうして聖職位階を持つのでしょうか、またどうして裁治権というものを持つのでしょうか?そのような場合、この聖職位階は完全に偶有的なものとなるでしょうし、事実上プロテスタントの信仰や礼拝、さらに諸秘蹟に対してプロテスタント聖職者たちがそうであるもの<信仰等の基準を自由裁量により決定する態度>になってしまうでしょう。

 

 


 

 ルフェーブル主義解決策とは 完全に矛盾した 立場であって、それはカトリック教会の不可謬性を挽き肉(mincemeat)にしてしまいます。というのも、この立場はカトリック教会を、第二バチカンの教義的かつ規律的な変節やその後の刷新と同一視するからなのです。その理由は、もしこれらものが変節でないとすれば、どうして彼らはそれらに抵抗しているのでしょうか? もしこれらのものが変節でないとすれば、その時地上に於けるキリストの代理者だと彼らが言うその人物の命令を無視して、いったい何が四司教の聖別を出来る限り正当化してくれるというのでしょうか?第二バチカンとその刷新の組織的拒絶に於ける“聖伝主義者たち”の立場を正当化するたった一つのものとは、これらの刷新がカトリックではなく、霊魂の破壊に導くという事実です。しかしこれらの刷新がカトリックでないとすれば、それらを公布した人々はとてもカトリックの権威者(the bearers of Catholic authority)ではあり得ないのです。というのは、もし彼らがカトリックの権威者であったならば、彼らにはこのような事柄をカトリック教会の為に公布する事が出来なかったからです。従いまして、ルフェーブルグループは、カトリックの聖職位階が有する三つの本質的役割、即ち、教え、統治し、聖化するという職務の諸効果であり、さらにまた信仰の一致、統治の一致、そして親交<?>の一致(the unity of communion)というカトリック教会の三重の一致であるところの、教義や規律、さらには礼拝に関してカトリック教会の権威者に抵抗する事の出来ない立場にいるのです。上述の事柄に於いてカトリック教会に抵抗する事は、カトリック教会に対する忠実な支持は救いに必要である事から、霊的自殺行為(spiritual suicideとなります。もし教義や規律、そして礼拝に関して公教会に抵抗する事が許されるのであれば、その時公教会は何について服従されるべきでしょうか?聖ペトロの権威とは一体何なのでしょう、もしそれが上述した事柄について無視され得るならば?

 

 


 

 従ってこの“解決策”は、私が上<第Ⅳ部、A>で明確に述べた三つの原理<1;2;3>の全てに違反しています。その理由は、(1)彼らがノヴス・オルドはカトリックと非カトリックの混合種であると主張しているから、また(2)ノヴス・オルドは本質的にカトリックであるが、相変わらずそれには抵抗し、かつそれを拒絶する事が出来ると彼らが主張しているから、そして(3)彼らがヨハネ・パウロ二世の権威を認めても、同時に彼の権威に属する特権を拒絶するからです。この最後の事柄に関して言えば、彼らは残念ながらちょうど同じ事を行なった、つまりローマ教皇の教義と教令とを自分たちの好みに応じて“濾過(ろか)した”ガリア主義者(Gallicans)及びヤンセン主義者たち、さらに他には東方典礼セクトに準(なぞら)えられるのです。

 

 


 

 こうして、ルフェーブルグループに関係している人々は善意を持っており、公教会の善を真心から望んでいるのですが、それでも彼らは幾らかの重大な理論的かつ実際的な過ちに悩んでいるところです。その上彼らは強度の矛盾に巻き込まれてもおり、噂によると、彼らの中にエクレズィア・デイ 支持者たちはもちろんのこと、多くの隠れセデヴァカンティストたちも存在している事は殆ど不思議ではありません。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ