2023年 聖霊降臨後第十三主日ミサ
2023年 聖マリアの汚れなき御心の大祝日ミサ
貴方が与っている”聖伝”ミサはどんなミサ?
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本ブログを訪問される読者の中には、これまで聖ピオ十世会や聖ピオ十世会“レジスタンス”の司祭が捧げるミサに与った事がある、又は現在も定期的に与っているという方がおられると思います。本日は、このような方々が信心深く与っているこれらのミサが実際にはどのようなものなのかを説明する、セデヴァカンティストであるドナルド・サンボーン司教様(Bp. Donard Sanborn)の記事を紹介致します。これは皆様を失望させる為ではなく、真にカトリック教徒である為にどうすべきかを理解して頂く為の掲載です。これをお読みになって落胆するのではなく、天主への愛の為にしかるべき決断をする覚悟を決めて下さるなら、私としては幸いです。
Veritas liberabit vos!
いざという時にウナ・クム・ミサに行くことは許されますか?
[以前発行された記事がここでお読みになれます。]
多くのカトリック教徒たちが、ウナ・クム(una cum)・ミサ、つまりカノン1の中に近代主義者である”教皇”あるいは”司教”の名が配列されているミサへの積極的参列は罪である事を理解するようになりました。
チェカダ神父2は数年前、このような行為が第一誡に反する理由となる神学的ポイントをひとつ残らず提示して、この問題に関する決定的記事を執筆されました。
結局のところ、それは天主に対し偽りの礼拝を捧げるという事に要約されるのです。何故なら、ミサがカトリックである為、またそれ故に真の礼拝として天主に受容れられるものである為に、それはそれを捧げる司祭により、in persona
Ecclesiæ(教会を代理して)捧げられなければならないからです。これは、ミサを捧げるという彼の行為が、キリストの神秘体であり、キリストがその頭であるカトリック教会と一致していなければならないことを意味しています。
従って、それが如何に有効であろうと、教会の外で捧げられるミサ、つまりローマ・カトリック教会との一致にない司祭たちにより捧げられるミサは、偽りの礼拝を構成するのです。この理由から、私たちは東方正教会のミサに与る事が出来ません。
セデヴァカンティストたちは、ヴァティカンⅡ(第二バチカン公会議)の”教皇たち”が、(1)新しい宗教をローマ・カトリック教会に課す事を意図しており、;(2)彼らが公の異端者であるという理由から、真のカトリック教皇ではないと主張します。その結果として、彼らには、カトリック教会の頭であるキリストの御名によって行為する事が出来ませんし、彼らの殆どはキリストの御名により、ローマ・カトリック教会の司祭的代理として天主に受容れられる犠牲を捧げる事が出来ないのです。
それ故に、彼らにはキリストの代わりにミサを捧げる事が、偽りの教皇であるというまさにその事実によって、 内因的に3出来ません。確かに、教会の偽りの頭である人以上に教会の頭キリストを代理する事が出来ない人は誰もいないでしょう。何故なら、真の教皇は全教会の一致の根源であるからです。従って、偽りの教皇はローマ・カトリック教会から、そして教会の頭キリストから切り捨てられる根源なのです。よって、偽りの教皇に従うという事はキリストから切り捨てられるという事なのであります。その結果として、偽りの教皇との一致の内にある司祭の捧げるミサは、ローマ・カトリック教会と教会の頭にして最高祭司、さらに全てのミサの第一司式者から切り捨てられるミサなのです。
ウナ・クム・ミサには
ですから、私たちがこれらのミサを避けるべきである事に皆様は賛同されます。ところが、もしいざという時にはどうなるのでしょうか?もし私たちの近所にフランシス・フリーのミサ4がない場合にはどうなるのでしょうか?秘蹟を必要としているので、私たちは例外としてウナ・クム・ミサに行く事が出来るでしょうか?
答えはノーです。その理由は明らかです:ウナ・クム・ミサを汚すのは、内因的なもの、つまり、このミサが偽りの教皇と一致して捧げられるという事実であり、それが上で言及した理由から、このミサを天主に受容れられないものにするからです。
ある行為が 内因的に 悪である場合、それは常に禁じられます。それは如何なる例外も認めません。実際、私たちはこの行為を提案するよりは死を受け入れなければならないでしょう。その一つの例が堕胎です。
しかしながら、ある事が単に状況によって悪である場合、それはそれ相応の理由により例外を認めます。一つの例は日曜日に自分の車を洗う事でしょう。自分の車を洗う事は完全に良い行為でありますが、もしそれが肉体労働の禁じられた日曜日に当たるなら、それは罪になるでしょう。ただし、もしそこに私たちが車を洗わなければならないそれ相応の理由があるならば、法は例外を認めているのです。
ウナ・クム・ミサへの積極的参列というケースに例外を認める人々は、ウナ・クム・ミサは
内因的に ではなく、単に状況によって悪なのだと暗に言っています。それならウナ・クム・ミサは、それ自体善です。しかしながら、私たちはそれが内因的に善ではなく、内因的に悪である事を知っています。
確かに、もしウナ・クム・ミサが内因的に善であり、ただ状況によってのみ悪であるならば、その時私たちは、フランシスは真の教皇であると結論づけなければならず、それに基づいて、新しいミサ、ヴァティカンⅡ、さらにその全刷新がカトリック信仰に合致しているという結論を出さなければなりません。何故なら、真の教皇たちには、誤った教義を教え、悪法を全教会に向けて規定する事など出来ないからです。ですから、教皇の認可なしに捧げられるミサは教会の外で捧げられるミサとなるでしょう。(従って、SSPX及び元SSPX5のミサは教会の外で捧げられるミサとなるだろう)
さらに言えば、どんな状況がウナ・クム・ミサを悪にするのでしょうか?時間ですか?それとも場所でしょうか?言うまでもなく、それを悪にする状況などありません。
要するに、ウナ・クム・ミサは内因的に正しいか内因的に間違っているのです。もしそれが内因的に正しいならば、私たちは“教皇フランシス”によって認可されたミサだけに与らなければなりません。従って、私たちはSSPXのミサやSSPX“レジスタンス”のミサを避けなければならないのです。それらは不認可だからです。もしウナ・クム・ミサが内因的に悪ならば、私たちはそれを避けなければならないどころか、それに積極的に参列する事に同意するよりはむしろ、如何なる不自由、如何なる秘蹟の欠乏、さらには死そのものさえ受け入れなければなりません。ですから私たちは、偽りの教皇との一致にあるという理由から、SSPXのミサとSSPX“レジスタンス”のミサを避けなければならないのです。
そう言うわけで、あなたがそれ6についてどうお考えになろうと、私たちはSSPXのミサとSSPX”レジスタンス“のミサを避けなければなりません。
1:ミサの典文(Canon Missae)
2:Rev. Fr. Anthony Cekada, SGG.,(
July 18, 1951 –♰ September 11, 2020)
3:彼らが有する異端ゆえに
4:フランシスの名がカノン‐Canon Missae‐に記載されていないミサ典書を用いたセデヴァカンティスト司祭によるノン・ウナ・クム(non una cum)・ミサ=ノン・フランシスミサ=フランシス・フリーミサ
5:聖ピオ十世会“レジスタンス”
6:ウナ・クム・ミサ