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本日は『ウィリアムソン司教様への回答 最終回』を掲載させて頂きます。カトリック教義に完全に従えば、我々の選ぶべき立場はたった一つ、『セデヴァカンティスト』のそれとなります。読者の中で、セデヴァカンティスト司祭(=真のカトリック司祭)を日本にお招きして、御ミサや講話等に与りたいと希望される方がおられましたら、どうかコメント欄にご一報下さい。ちなみに、それについて言及した記事がありました。
第343号に対する回答
第二段落に於いて、ウィリアムソン司教様は教会の不可謬性のカトリック的概念を極めて明解に表現しています。実質的に彼はこう言っているのです:キリストはカトリック教会の聖職位階を援助し、そうする事によりカトリック教義を教授する事において彼らを誤謬から守っておられるのだと。
しかしながら、彼は第三段落で、神は自由意志を取り去る事を御望みにならないので、第二段落でキリストにより誤りを犯す事から守られていたのと同じ聖職者たちも、実際には誤りを犯す事が出来るのだと言われます。しかしこれでは全く意味をなしません。
神は御自分の教会が“完全に変節可能<教義変更可能>”となる事をお許しにならないと言う事を以って、彼は不可謬性を守ろうとするのです。その証拠となるのが、第二バチカン教皇たちでさえ真実な事柄を幾つか教えたというものです。そうなると、教会は部分的には変節し得る、即ち、幾らかであれば誤謬を教え得るが、全部ではないと私たちは結論を下すかもしれません。
それから彼は『この様な場合、どうやって人は真理と虚偽を区別出来るのか?』と問いかけるのです。その答えは:選別する事 によって、つまり、第二バチカン“教皇たち”から教えられた事柄を聖伝の教導権<=教えそのもの>と比較する事により区別するというものです。
次に彼は、教会の不可謬性は聖職位階にだけあるのではなく、全教会にもあるというキュング理論を繰り返します。『それ[聖伝]は、神が不可謬な聖霊を、教皇たちのみならず、御自分の教会 全体 にもお授けになる所以たるものでした。』 [原文にある強調]
ハンス・キュングはこの主張を燃えるような熱狂さで称賛するでしょう。キュングは言います:
しかしながら、教会は単に公式な教会(the official Church)、即ち教皇や司教たちとだけ同一視されるのでありません。むしろ誤る事が出来ないのは、真に信じる者たちの、隠れてはいても、完全に本物の教会なのです。何故なら、御自分の御約束に忠実なキリストは、世の終わりに至るまで教会と共に留まって下さり、それ<教会>は“真理の柱にして砦”(ティ① Ⅲ:15)であるからです。誤りを犯し正常に機能しない教皇制度の下にあってさえ、この程度まで教会は守られて来ました。
ウィリアムソン司教様の理屈は、教会の不可謬性と非変節性は誤りを発見する為にする、信徒たちによる教皇教導権の選別によって守られるのだと私たちに思わせるでしょう。聖霊は、教える教会(the teaching Church)、即ち、聖職位階の援助に失敗された場合、信じる教会(the believing Church)を援助されるのだと。
これは完全に無意味です。もし聖霊が、教皇と司教たちを全教会に誤謬を教える事からお守りになる事に失敗するなら、聖霊の援助は彼らに対するものであり得るでしょうか?もし聖霊が誤謬から彼らをお守りになる事に失敗するなら、聖伝が真実であるという保証が私たちには何かあるでしょうか?
結論
ウィリアムソン司教様の主たる誤りとは次のものです:つまり、彼はローマカトリック教会の不可謬性と非変節性をその同じ教会の聖職位階から切り離し、選別する信徒たちにそれを委譲するという事なのです。
反対に、セデヴァカンティストの主張にある力は、それが不可謬性と非変節性とを完全かつ独占的にローマカトリックの聖職位階と同一視するということです。従って変節する/教義を変更する(defective)聖職位階は、決して聖職位階ではありません。
しかし、ウィリアムソン司教様はより総括的な展望と全く根本的なものを見落としておられます:果たして第二バチカン<公会議>及びその諸刷新は、カトリック信仰の本質的な変更か、それとも偶有的なそれなのか?という事です。言い換えれば:“教皇”フランシス、さらに地元のノヴス・オルド“司教”による指導と認可の下で運営されている、我が地元の教区内でこの私が目にする宗教は、カトリック宗教なのか?という事。さらに言い換えれば:もしウィリアムソン司教様が教皇及びローマカトリック司教たちと見做す人々から 与えられる宗教を私が実践すれば、私は天国に行くのだろうか?この宗教は神を喜ばせているか、それとも立腹させているか?それは真の宗教か、それとも偽りものか?という事になります。
この新しい宗教は本質的に第二バチカン前のカトリック教義と同じである、それはカトリック宗教なのだ、さらに人間はそれを信奉し実践する事により自分の霊魂を救う事が出来るのだと私たちが断言するなら、聖伝<復興>運動に対して私たちが有している必要性とは一体何でありましょう?これらの変更に抵抗する事は、カトリック信仰に抵抗する事となるでしょう。それは私たちの永遠の破滅を招いてしまいます。
その反対に、もしこの新しい宗教がローマカトリック教義(Roman Catholicism)の本質的変更であって、それは神を怒らせており、さらに地獄への道であるとするなら、どうしてそれが不可謬で変節し得ない教会(an infallible and indefectible Church)から公布されているなどと私たちに言えるのでしょうか?
ウィリアムソン司教様は御自身の説明に於いて、彼らの<公会議教皇を真の教皇と>承認し抵抗する(recognize and resist)という立場を正当化する為に一般的なエコン路線を述べておられます。彼らはノヴス・オルドの聖職位階を真のカトリック聖職位階と認めたいと思いはしても、それと同時に 殆ど全ての事柄 について彼らに抵抗するのです。彼らは<第二バチカン>公会議、新しいミサ、新しい諸秘蹟を非難します。彼らはこのいわゆるローマカトリックの聖職位階に認可されたミサに与らないよう人々に命じます。この行為はどれ一つカトリック神学では何も意味を成さない事から、自会の立場を弁解する為に 新しい神学 がエコンによって作り上げられる必要がありました。私はそれを覚えています。以前私は次に挙げる事柄を全て耳にしました。ルフェーブル大司教様はある講話の中で:『第二バチカンの教導権は単なる通常教導権(the ordinary magisterium)なので、それは不可謬ではありません。』と言われるのを私は聞きました。当時の私はそれを信じてしまいしたが、後日それがとても重大な誤りであり、そのままでは異端ですらあると知ったのです。さらには、何がカトリックであり何が近代主義的であるかを決定する為に、ノヴス・オルドの聖職位階による教導権や諸規律を 選別する という類似と言葉をお使いになったのもまたルフェーブル大司教様でした。
エコンの神学は、教える教会である、カトリック聖職位階から不可謬性と非変節性を取り除き、それを信徒たち、もしくは信じる教会に委ねるのです。但し、そうしてしまう事は、カトリック教会を、真理を見つけ出す為に各自が聖霊により神感される、プロテスタント教会にしてしまう事なのです。
カトリックの教義はといえば、教える教会である、ローマカトリック聖職位階は聖伝の不可謬な保護者であり、それを全教会に誤りなく提唱するというものです。確かに、もしこれが真実でないとなれば、第二バチカンとその刷新とを比較する聖伝は決して存在しない事になるのです。何故なら、例えば十九世紀の神学者 デ・グロート(De Groot)が教会に関する自著論文に於いて:『諸聖伝の保護及び保存を教会の不可謬な教導権から切り離す者は誰でも、これらの聖伝の 不可謬な 確実性を人間から [原文にある強調] 奪うのです。』 と言っているからです。
皮肉にも、ウィリアムソン司教様とハンス・キュングの双方は、諸聖伝の保護と保存をカトリック教会の聖職位階から切り離すのです。
勿論ウィリアムソン司教様は異端と何ら関わりを持ちたくないとはいえ、やはり御自身のエコン神学を介して、ハンス・キュングの隣人となってしまいました。
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典拠: http://mostholytrinityseminary.org/Bishop%20Williamson%20Response.pdf
和訳文:http://hodiesedespetrivacansest.blog.jp.pdf
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