セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

カテゴリ: ウィリアムソン司教様への回答

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 本日は『ウィリアムソン司教様への回答 最終回』を掲載させて頂きます。カトリック教義に完全に従えば、我々の選ぶべき立場はたった一つ、『セデヴァカンティスト』のそれとなります。読者の中で、セデヴァカンティスト司祭(=真のカトリック司祭)を日本にお招きして、御ミサや講話等に与りたいと希望される方がおられましたら、どうかコメント欄にご一報下さい。ちなみに、それについて言及した記事がありました。

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第343号に対する回答

 
 この号<第343号>は教会の不可謬性に関する説明でありますが、私たちが上で言及したハンス・キュングのそれと同じ過失を欠点として持っています。それは不可謬性と非変節性を聖職位階から切り離そうと努めるのです。

 第二段落に於いて、ウィリアムソン司教様は教会の不可謬性のカトリック的概念を極めて明解に表現しています。実質的に彼はこう言っているのです:キリストはカトリック教会の聖職位階を援助し、そうする事によりカトリック教義を教授する事において彼らを誤謬から守っておられるのだと。

 しかしながら、彼は第三段落で、神は自由意志を取り去る事を御望みにならないので、第二段落でキリストにより誤りを犯す事から守られていたのと同じ聖職者たちも、実際には誤りを犯す事が出来るのだと言われます。しかしこれでは全く意味をなしません。

 神は御自分の教会が“完全に変節可能<教義変更可能>”となる事をお許しにならないと言う事を以って、彼は不可謬性を守ろうとするのです。その証拠となるのが、第二バチカン教皇たちでさえ真実な事柄を幾つか教えたというものです。そうなると、教会は部分的には変節し得る、即ち、幾らかであれば誤謬を教え得るが、全部ではないと私たちは結論を下すかもしれません。

 それから彼は『この様な場合、どうやって人は真理と虚偽を区別出来るのか?』と問いかけるのです。その答えは:選別する事 によって、つまり、第二バチカン“教皇たち”から教えられた事柄を聖伝の教導権<=教えそのもの>と比較する事により区別するというものです。

 次に彼は、教会の不可謬性は聖職位階にだけあるのではなく、全教会にもあるというキュング理論を繰り返します。『それ[聖伝]は、神が不可謬な聖霊を、教皇たちのみならず、御自分の教会 全体 にもお授けになる所以たるものでした。』 [原文にある強調]

 ハンス・キュングはこの主張を燃えるような熱狂さで称賛するでしょう。キュングは言います:

 しかしながら、教会は単に公式な教会(the official Church)、即ち教皇や司教たちとだけ同一視されるのでありません。むしろ誤る事が出来ないのは、真に信じる者たちの、隠れてはいても、完全に本物の教会なのです。何故なら、御自分の御約束に忠実なキリストは、世の終わりに至るまで教会と共に留まって下さり、それ<教会>は“真理の柱にして砦”(ティ① Ⅲ:15)であるからです。誤りを犯し正常に機能しない教皇制度の下にあってさえ、この程度まで教会は守られて来ました。

 ウィリアムソン司教様の理屈は、教会の不可謬性と非変節性は誤りを発見する為にする、信徒たちによる教皇教導権の選別によって守られるのだと私たちに思わせるでしょう。聖霊は、教える教会(the teaching Church)、即ち、聖職位階の援助に失敗された場合、信じる教会(the believing Church)を援助されるのだと。

 これは完全に無意味です。もし聖霊が、教皇と司教たちを全教会に誤謬を教える事からお守りになる事に失敗するなら、聖霊の援助は彼らに対するものであり得るでしょうか?もし聖霊が誤謬から彼らをお守りになる事に失敗するなら、聖伝が真実であるという保証が私たちには何かあるでしょうか?


結論

 
 ウィリアムソン司教様は、教導権、教会の不可謬性、さらに教会の非変節性の特質、そして道徳律(moral law)や一般刑法(common criminal law)の基本的性質のみならず、異端の罪と犯罪の特質に関して幾つか重大な誤解をしておられます。教導権に関する彼の諸理論は、必然的に彼や彼の支持者たちを普遍通常教導権は信仰に反して何かを実際に教える事が出来るという異端に引き渡してしまいます。

 ウィリアムソン司教様の主たる誤りとは次のものです:つまり、彼はローマカトリック教会の不可謬性と非変節性をその同じ教会の聖職位階から切り離し、選別する信徒たちにそれを委譲するという事なのです。

 反対に、セデヴァカンティストの主張にある力は、それが不可謬性と非変節性とを完全かつ独占的にローマカトリックの聖職位階と同一視するということです。従って変節する/教義を変更する(defective)聖職位階は、決して聖職位階ではありません。

 しかし、ウィリアムソン司教様はより総括的な展望と全く根本的なものを見落としておられます:果たして第二バチカン<公会議>及びその諸刷新は、カトリック信仰の本質的な変更か、それとも偶有的なそれなのか?という事です。言い換えれば:“教皇”フランシス、さらに地元のノヴス・オルド“司教”による指導と認可の下で運営されている、我が地元の教区内でこの私が目にする宗教は、カトリック宗教なのか?という事。さらに言い換えれば:もしウィリアムソン司教様が教皇及びローマカトリック司教たちと見做す人々から 与えられる宗教を私が実践すれば、私は天国に行くのだろうか?この宗教は神を喜ばせているか、それとも立腹させているか?それは真の宗教か、それとも偽りものか?という事になります。

 この新しい宗教は本質的に第二バチカン前のカトリック教義と同じである、それはカトリック宗教なのだ、さらに人間はそれを信奉し実践する事により自分の霊魂を救う事が出来るのだと私たちが断言するなら、聖伝<復興>運動に対して私たちが有している必要性とは一体何でありましょう?これらの変更に抵抗する事は、カトリック信仰に抵抗する事となるでしょう。それは私たちの永遠の破滅を招いてしまいます。

 その反対に、もしこの新しい宗教がローマカトリック教義(Roman Catholicism)の本質的変更であって、それは神を怒らせており、さらに地獄への道であるとするなら、どうしてそれが不可謬で変節し得ない教会(an infallible and indefectible Church)から公布されているなどと私たちに言えるのでしょうか?

 ウィリアムソン司教様は御自身の説明に於いて、彼らの<公会議教皇を真の教皇と>承認し抵抗する(recognize and resist)という立場を正当化する為に一般的なエコン路線を述べておられます。彼らはノヴス・オルドの聖職位階を真のカトリック聖職位階と認めたいと思いはしても、それと同時に 殆ど全ての事柄 について彼らに抵抗するのです。彼らは<第二バチカン>公会議、新しいミサ、新しい諸秘蹟を非難します。彼らはこのいわゆるローマカトリックの聖職位階に認可されたミサに与らないよう人々に命じます。この行為はどれ一つカトリック神学では何も意味を成さない事から、自会の立場を弁解する為に 新しい神学 がエコンによって作り上げられる必要がありました。私はそれを覚えています。以前私は次に挙げる事柄を全て耳にしました。ルフェーブル大司教様はある講話の中で:『第二バチカンの教導権は単なる通常教導権(the ordinary magisterium)なので、それは不可謬ではありません。』と言われるのを私は聞きました。当時の私はそれを信じてしまいしたが、後日それがとても重大な誤りであり、そのままでは異端ですらあると知ったのです。さらには、何がカトリックであり何が近代主義的であるかを決定する為に、ノヴス・オルドの聖職位階による教導権や諸規律を 選別する という類似と言葉をお使いになったのもまたルフェーブル大司教様でした。

 エコンの神学は、教える教会である、カトリック聖職位階から不可謬性と非変節性を取り除き、それを信徒たち、もしくは信じる教会に委ねるのです。但し、そうしてしまう事は、カトリック教会を、真理を見つけ出す為に各自が聖霊により神感される、プロテスタント教会にしてしまう事なのです。

 カトリックの教義はといえば、教える教会である、ローマカトリック聖職位階は聖伝の不可謬な保護者であり、それを全教会に誤りなく提唱するというものです。確かに、もしこれが真実でないとなれば、第二バチカンとその刷新とを比較する聖伝は決して存在しない事になるのです。何故なら、例えば十九世紀の神学者 デ・グロート(De Groot)が教会に関する自著論文に於いて:『諸聖伝の保護及び保存を教会の不可謬な教導権から切り離す者は誰でも、これらの聖伝の 不可謬な 確実性を人間から [原文にある強調] 奪うのです。』 と言っているからです。

 皮肉にも、ウィリアムソン司教様とハンス・キュングの双方は、諸聖伝の保護と保存をカトリック教会の聖職位階から切り離すのです。

 勿論ウィリアムソン司教様は異端と何ら関わりを持ちたくないとはいえ、やはり御自身のエコン神学を介して、ハンス・キュングの隣人となってしまいました。

*************************
典拠: http://mostholytrinityseminary.org/Bishop%20Williamson%20Response.pdf

和訳文:http://hodiesedespetrivacansest.blog.jp.pdf


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 (2014年12月10日アップデート済み)

 本日は『ウィリアムソン司教様への回答 その四』を掲載させて頂きます。正直な心でこの記事をお読みになる方は、新旧聖ピオ十世会の立場にある矛盾に気づき、それを認めると思います。フェレー司教様であれ、ウィリアムソン司教様であれ、カトリック教会の不可謬性と非変節性を本当の意味で信じてはいません。その理由として挙げられるのが、近代主義者たちにあるという「自らの異端を認識する能力の不足」です。自らの「公の」異端的発言を認識出来ない人物が教皇職に就くという考え自体、上述したカトリック教会の二つの本性に反しているからです。この様に公会議教皇弁護をする新旧聖ピオ十世会には、彼ら公会議教皇たちが、本当に自らがした公の異端的発言や行為に於ける異端を認識していなかったという事を証明する責任があります。1936年生まれのベルゴリオ氏(通称フランシス一世)が本当にカトリック教義について無知だったのか、フェレー司教様、あるいはウィリアムソン司教様はどうか証明してみて下さい。何れにせよ、この様な異端者がカトリック教皇として立つ事は、『カトリック教会の非変節性』及び『カトリック教会の不可謬性』に真っ向から矛盾しています。真の聖伝カトリックであれば、公の異端者である公会議教皇たちを『偽物』として告発したはずですし、それこそが聖ピオ十世会の使命だったはずです。しかし、それはルフェーブル大司教様の取り巻きにより妨害されました。同大司教様のセデヴァカンティズム的発言が、聖ピオ十世会系サイトから姿を消したと言われていますが、それはある意味で同大司教様の揺れ動いた本音を知られたくない同司祭会上層部の証拠隠滅なのです。お忘れなく、彼と共に聖ピオ十世会の四司教を聖別したデ・カストロ・マイヤー司教様は最終的にセデヴァカンティストとしてカトリック司教の責務を果たしたという事を。新興宗教である公会議教会との合意文書にサインした聖ピオ十世会は、既に新興宗教化を始めています。聖母マリア様の尊い御名を幾ら唱えようと、それは、多くの場合、聖母にとって棄教する者からの心無い慇懃無礼(いんぎんぶれい)な挨拶に聞こえてしまうでしょう。『汝、思う存分罪を犯せよ、しかし、それ以上に神を愛せよ』と説いたルターが、『おおマリア』、『無原罪のマリア!』と唱えたとて、それが一体聖母にとってどんな慰めになるというのでしょうか???カトリック信仰を例外なく完全に守る事、それを伴わない聖母信心は偽りの信心であり、聖母に対する裏切りかつ侮辱となるはずです。  

 公会議教皇たちをカトリック教皇だと弁護する方々は、先ず、彼らには自らの異端に対する認識が不足している事を証明して見せて下さい。もし証明出来ないのであれば、どうか彼らは偽物の教皇であると一日も早く認め、真の聖伝主義者に回心して下さいますように!

一聖伝主義者より  

******************************

第四の主張


[
343号から]
 

 

 ウィリアムソン司教様はここで、第二バチカン教皇たちは公の異端者なので、教皇であり得ないと明言するセデヴァカンティストたちの主張の力を弱めようと試みます。公会議教皇たちは、客観的な異端を述べる事はあったにせよ、我々には彼らが教会の教えを否認していると本当に自覚していると法廷外で立証出来ない為、主観的には異端の罪(sin)もしくは犯罪(crime)を犯していないと彼は回答するのです。

 

回答。先ずは、異端の 罪(sin と異端の 犯罪(crime の区別を復習する必要があります。異端の罪とは、カトリック信仰のある真理を疑うか否定する行為です。それは形相的(formal 又は質料的(materialなものでしょう。形相的異端とは、貴方が疑うか否定している事柄が、単に神学的な結論、あるいは一部の神学者たちの見解ではなく、実際にカトリックの教義もしくは道徳的教えであると認識してこの真理を疑うか否定する事です。質料的異端とは、客観的に見てカトリック教義である、あるいは道徳上の教えである事柄を、その教えが信仰に属していると認識せずに疑うか否定する事です。

 

 さらに異端とは犯罪、即ち、教会法の違反でもあり、それに対しては刑罰が幾つか存在します。[1]

 

 しかしながら、この罪あるいはこの犯罪<異端の罪あるいは異端の犯罪>の遂行には、どちらの事例でも、もしそれが公になされた場合には、カトリック教会からの自動的断絶<自動破門>が伴うのです。

 

 倫理神学者たちは、形相的 異端を免れるものは、唯一つ無知であると言う事に関してはっきりしています。つまり教会の荘厳教導権か、普遍通常教導権かのどちらかに属しているカトリック教義を自らが否定している事実について無知である必要があります。

 

 ウィリアムソン司教様は、いったん異端の事実が成立すると、即ち、何者かがある異端を公言した事実が確認されると、無知が推定され、それはその反対<=無知ではないこと=異端を認識していたこと>が法廷で立証されるまで続くのだと我々に信じ込ませようとされました<やや意訳>。

 

 実際はその反対が真実なのです。全法廷に於いて(in all courts of law)、ある犯罪(a crime)の 事実について有罪判決を受けるまで誰もが無罪です<推定無罪の原則>。但し、この犯罪の 形相性/正式性formality:個人的な罪の意識[personal guilt])に関してでは決してありません。もしこれが真実ならば、どの罪についても二つの裁判を行なう事が必要となるでしょう:一つはこの事実を立証する為の裁判と、もう一つは、この加害者がそれを行った時、自分のしていた事が本当に分っていたという事を立証する為の裁判です。この犯罪の事実が知られる時、どの法律も形相的/正式な有罪(formal guilt)を 推定します(presumes。同じ事が罪(the sin)についても言えます。罪に於ける形相性/正式性の不足つまり認識の不足により、ある人には罪がない事が立証されなければなりません。

 

 幾つかの例を差し上げましょう。2012年に起きました映画館でのコロラド銃乱射事件の事例で、この若者の弁護士たちは、自分たちの依頼人が銃撃と殺人を行なったという事実については何ら異議を唱えていませんでした。ただ彼らは、この銃撃犯は正気ではなかったし、またそれ故に、心神喪失(insanity)という理由から、法の御前で彼はこの犯罪について真実に有罪ではない事を立証しようとしていたのです。立証の責務(The burden of proof)は彼らにあって;この若者に有利な推定などありません。

 

 さらに、ニューヨーク州はオイスター・ベイ・コーヴ街(Oyster Bay Cove:オイスター湾内入り江)の、現在では聖ピオ五世会(the Society of Saint Pius V)のマスセンター<ミサ施設>となっている建物内で起きたあの有名な事例がありました。何十年も前、この建物の中である男の妻によって行なわれた殺人がありました。真夜中に彼女は彼を浮浪者だと思ってしまったのです。彼女は彼を撃ったと認めましたが、彼が自分の夫だと気付かすに誤って撃ってしまったと主張したのです。彼女は無罪にされました。しかしながら、無知の立証の責務は、彼女にあるのです。何故なら、法律の推定<=有罪>は彼女に反対しているからです。

 

 それから、アメリカ市民戦争中のワシントンで起きた有名な事例があります。それに拠れば、一時的な心神喪失という抗弁が無罪を獲得しています。ある男が不意に帰宅してみると、別の男といる自分の妻を見つけました。この夫は激昂してしまった事により直ちに銃を取って妻の愛人を撃ってしまいました。彼は法廷でこの行為をした事を認めましたが、この行為の形相性<=罪認識>が不足していた事から無罪である、つまり極度の怒りにより一時的に心神喪失になったのだと抗弁しました。

 

 重要なのは、倫理神学や教会法を含むどんな法律も、罪の事実がいったん認められれば、有罪を推定すると言う事です。自分は無知であったが為に有罪でないと主張する者は、証拠を以って形相性<=罪認識>の不足を立証しなければならないという事なのです。

 

 従ってウィリアムソン司教様は、第二バチカン“教皇たち”はカトリック信仰を知らないという荒唐無稽を私たちに信じ込ませようとされたのです。つまり私たちは、世の終わりにおける死者の復活を公に否定するベネディクト十六世が、この教義は使徒信経やニケア信経、そしてアタナシウス信経の一部であるのを 知らない のだと信じなければならないのです。

 

 これにより、ウィリアムソン司教様による第四の主張は、形相的/正式な有罪(formal guilt)に関する間違った原理と、近代主義“教皇たち”は実際に信仰について無知であり得るという馬鹿げた仮定とを根拠にしているので崩れ去ってしまいます。

 

 教皇権限(papal authority)の受諾に十分な障害となるものとは、異端の公の the public sin of heresy)、さらに言えば、教会法犯罪/教会法上の犯罪(the canonical crime)なのです。

(つづく) 



[1]:チェカダ神父が異端の罪及び犯罪の両方に関して優れた文書を執筆しており、それはtraditionalmass.orgで見つける事が出来る。





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 (2014年12月14日アップデート済み)

 *2014年11月2日アップデート済み(特にanathema sit の意味=排斥/破門に注意して下さい!神は災いの為に災いを送る神ではなく、霊魂の回心と救いを期待して自らの教会からの災いなる排除/排斥/破門を行なう神です!この排斥がない場合、霊魂の滅びを期待する悪魔の災いを被ってしまうのは、この破門に値する霊魂と交流し堕落、あるいは棄教するキリスト教徒=カトリック教徒たちです!)



 本日は『ウィリアムソン司教様への回答』のその三を掲載させて頂きます。大変遅くなりました。申し訳ありません。

 ところで、本日の記事をお読みになれば、新旧聖ピオ十世会による「普遍通常教導権」に対する解釈と姿勢が決してカトリックではないと、先入観を持たない読者の皆様方は理解されるでしょう。
 
 特にO神父様、そしてSSPX-Japanの皆様、さらにTrue Trad Japanの皆様、本日の記事を良くお読みになって下さい。「教皇と教会の不可謬性」と「教会の非変節性」を守ろうとすれば、必ず聖ピオ十世会の矛盾した立場に突き当たります。ではどうすれば良いのか?カトリック信仰の完全な擁護という立場を取れば良いのです。そしてそれこそが『Sedevacantism(教皇座空位論)』の立場なのです。


***********************************

                                    <>:和訳者補足
 

第三の主張
 

[343号から]

 

 『世の司教たちが、教皇と一致して教える事が、教会の通常普遍教導権であり、それは不可謬です。』とウィリアムソン司教様は正しく述べておられます。それから彼は、第二バチカン(公会議の決定)は、第二バチカンの“教皇たち”と“司教たち”によって公布されたのであるから、彼らが真の教皇たち及び真の司教たちである事は不可能であるというセデヴァカンティストたちの主張を提示します。ウィリアムソン司教様は、第二バチカンとそれに続く数年の普遍通常教導権は聖伝と一致しないと言う事によりこの主張に回答しています。従ってそれは普遍通常教導権ではない。だからセデヴァカンティストたちの主張は間違っていると。<これがウィリアムソン司教様及び聖ピオ十世会の一見正論に聞こえる奇弁です!>

 

回答。普遍通常教導権(通常の言葉順はUOM。これ以降、普遍通常教導権をUOMと表記します。)に対するウィリアムソン司教様のお考えは間違いです。それは、ある教えはもしそれが聖伝と一致しないなら、UOMとしての資格を得ないという、私がいた頃のエコンで一般に広められた理論に基づいています。従って、この観点から見ると、司教たちの全一団と共にいるローマ教皇が、実際に異端的な教義を全教会に教える事が出来ると考えられます。<但し>この様な主張は、それ自体 異端的です。


 

 UOMを篩いにかけるというエコンの考え方は、教義神学の教科書、あるいはカトリック教会の教えの何処にも見出す事が出来ません。ドミニコ会のレジナルド・マリア・シュルツ(Reginald Maria Schultes)神父が1931年に書かれたUOMの定義は次のものです:『通常普遍 教導権は、教会が啓示された教義を説き、独自の学校でそれを教え、司教たちを通してそれを発行し、さらに教会の教父たちと神学者たちによってそれを証明しかつ解説する時に行使されます。』[強勢<=イタリック>は原文通り][1] 全カトリック神学者たちはこの定義で一致しているのです。




 シルヴェスター・ベリー(
Sylverster Berry
)神父はこう書いています

 

 司教たちの 通常の 教権(ordinary teaching authority)は、司牧書簡や、彼ら自身あるいはその目的の為に承認された他の者により伝えられる説教、さらに彼らにより出版されたか、認可されたかした公教要理、もしくは他の教育書籍を通して各々の司教区の信徒に教える事に於いて彼らが行使するものです。このように自らに委ねられた人々(their people:主に教区民)を教育するという義務に従事する教会の司教たちが、実際に信仰、又は道徳に関する教義を公布する事に於いて一致している時、彼らは普遍の教権(universal teaching authority)を行使していると言われ、その時の彼らはこの教義に関して不可謬なのです。言い換えるなら、実際に教会の全司教が同意している信仰あるいは道徳に関する教義は、間違いなく真実なのです。信じる教会の信仰は、教会内の教える一団(teaching body)を構成する司教たちによって提示される信仰と合致しなければなりません。従って、もし団体(body)としての司教たちが不可謬でないならば、全教会は何時でも誤謬へと導かれ、それにより真理の柱にして根拠である、キリストの教会でなくなるかもしれないのです。[2]

 

 

 私の見解をさらに進んで証明する為、フランシス・ダイカンプ(Francis Diekamp)神父により1917年に書かれました 教義神学マニュアル(Theologiae Dogmaticae Manualeと題された教義神学の教科書に貴方<ウィリアムソン司教様>が御払いになっている注意を私は読み上げます。彼は言います:

 

各々の司教は、自らが行なう宗教教育、あるいは自らの命令により、また自らの警戒下で生じるこの種の教育と、教皇によって発布され、文書で与えられる判断の両方に於いて、地方か教区の司教会議(Synods)に於いて、司牧書簡上での誤謬の排斥に於いて、全教区宛に配布される公教要理または信心書の出版などの両方に於いて、前述の通常教導権(ordinary magisterium)を行使します。

 

 司教たち及び特に教皇によって規定される典礼書は、教義に関する議論に於いて非常に重要です。それらに含まれている諸法規、諸儀式形式、さらに諸祈祷は、司牧者たちと信徒たちの信仰を証明します。全西方及び東方教会が信仰について同意しているものに基づいたこの一致から、信仰の同意を与える義務が生じて来ます。教皇セレスティノ一世[422432]はこう教えました:

『さらに司祭たちの祈りの神聖な神秘<御ミサ>も眺めましょう。それは使徒たちから伝承されて来たものであり、全世界と個々のカトリックの教会の中にあって、祈りの法が信仰の法を確立する為に [原文にある強調]、一様に挙行されます。』(書簡21.Ⅱ)

 

 

 まとまった司教たちの教えは、ちょうどローマ教皇によるエクス・カテドラの決定同様に、信じる教会がそれに与える同意により不可謬とされるのではなく;むしろ誤謬から守って下さる神的助け故にそれ自体で不可謬です。[原文にある強調]

 

 

 これらの権威者たちにより詳解される教義は、UOM(普遍通常教導権)の解説と同様に、各カトリック神学者のそれと一致しているのです。その証拠の全てを提示する事は、この記事の領域を超えています。


 

 

 celestinus一方で、ウィリアムソン司教様のUOMに対するお考えは、どのカトリック神学者の著書にも、あるいは教会の教導権にも見つける事が出来ません。UOMに対するウィリアムソン司教様のお考えは、教会の普遍的教えが信徒たちによる分析を受け、さらに聖伝と一致していると裁定されるよう要求するのです。このシナリオに拠れば、聖職位階はどの点においても異端を教える事が全く可能ですが、信徒たちがそれ<普遍的教え>は聖伝と一致していると認めないので、まさにこの教導権の拒絶 により、教会の不可謬性と非変節性(永久性)が維持される事は不可能となります。それは『カトリック教会は、それが間違っている時を除けば不可謬です』と言うのと同様に馬鹿げています。さらに彼のやり方は、聖伝と一致するかしないかという個人的確信に基づき、普遍通常教導権を受け入れるか否か判断するよう信徒たちに要求します。言い換えれば、信徒たちは普遍的教会の教えを、それが語る時は何時でも、真理と誤謬を識別する為に 選別 しなければなりません。上で申し上げた通り、教導権に対するこの様な考え方は、教皇と聖職位階とから権威を奪い、それを個人に移してしまいます。何故なら、個人はこの教義が聖伝と一致するか否かについて決定権を持つからです。

 
 

 ウィリアムソン司教様が聖伝について言われる事は、聖書に帰する事も出来ます。教会の教導権によるある教令は聖書と一致しないと私が考えたらどうなりますでしょうか? その時、この聖書否定の教皇をキリストの真の代理者と見做す間中、私にはそれ<その教令>を否定する権利があるのですか?
 

 
 

恐ろしい現実は、ウィリアムソン司教様のお考えが、主たる近代主義異端者のハンス・キュング(Hans Küng)が 不可謬性とは?ある一つの問い(Infallibility? An Inquiry)と題する1970年の自著の中で述べている事とちょうど符合するという事です。その中で彼は、教会の不可謬性は、実際に誤り得る教義上の決まり文句に結ばれているのではなく、真理に対する教会の全体的かつ長期的な傾倒/固執に結ばれているのだと言っているのです。キュングは明言します:

 
 

 

 従って、本来の意味では不可誤導性(和訳者によるindeceivabilityの試訳:欺かれ得ない性質)である、不可謬性は、 個人的な誤謬によって取り消されない真理に於ける教会の基本的残留 を意味する。[原文にある強調][3]

 

 

 しかし、教会が真実であるのは、完全に確定的である不可謬な諸命題に無条件で依存しているのではなく、あらゆる命題‐間違ってさえいる命題‐に亘って存在する真実における教会の残留に依存している。』[4]

 

 

 彼は公会議に於ける同輩である主要な近代主義者、イヴ・コンガール(Yves Congar)を引用します:

 

 

『教会の一部あるいは他の部分は、司教たちでさえ、教皇でさえ、誤り得ますし、教会は暴風によって揺らぎ得るのです:最後に教会は忠実なままに留まります。』[5]


 

 さらにキュングの著書にあるこの主張は、ウィリアムソン司教様の御立場に酷似しています:

 

 

 『それでは、これらの暗黒時代にあって、教会の非変節性<永久性・不朽性>は一体どこに於いて証明されたのでしょうか?それは聖職位階に於いてでも神学に於いてでもなく、これらの数え切れない‐教会にとって最悪の時代にあってさえ、キリスト教のメッセージを聞き、それに従って信仰、愛、そして希望に生きようとした‐その殆どか無名のキリスト教徒たち‐そこには常に数名の司教がいましたし、彼らの中には神学者たちもいました‐の間に於いてでした。』[6]


 

 『彼らはキリストの真理の真の証し人です . . . [7]


 

 キュングは自身の論点を立証する為に東方離教徒たちを引用します:

 

 

 1848年に、離教徒の総主教たちはピオ九世に宛てて書いている:『私たちの間では、総主教も教会会議(Councils)も、新しい教えをこれまで導入する事など出来ませんでした。何故なら、宗教の守護者とは、まさに教会の身体、すなわち民(laos )そのものだからであります。』[8]


 

 キュングはロシア人離教徒の神学者アレクセイ・ホミャーコフ(Alexei Khomiakov)を引用しています。彼はこう言っています:

 
 

 『キリスト教教義の変わる事なき恒久性と誤る事のない真理は、どの聖職位階にも依存などしておらず;<むしろ>それは全体、つまりキリストの身体である教会の民全体によって守られている。』[9]


 

 私たちは英国国教会の三十九信仰箇条でこう読みます:『エルサレムやアレキサンドリア、さらにアンチオキアにある諸教会が間違った様に、ローマの教会もまた、彼らの聖職禄(living: 聖職に結び付いた教会財産の所領及び奉納物に対する権利‐訳者補足)や諸儀式 の作法に関してのみならず、信仰に関する事柄においても間違った。』

 

 

kungウィリアムソン司教様は、これらプロテスタント異端者たちとの同意を逃れる事が出来ません。何故なら、近代主義の聖職位階がカトリックの聖職位階だと主張する事を以って、彼は『ローマの教会が間違ってしまった』という結論を逃れられないからです。セデヴァカンティスト<教皇座空位論者>は、その一方で、第二バチカンの誤った教えと実践は、ローマの教会から来るのではなく、カトリック聖職位階に成り済ました聖職者ヤクザ、つまり異端者たちの一団から来ると主張します。この危機に於けるカトリック教徒の義務とは、これらの偽者たちの仮面を剥ぎ、偽りの聖職位階として告発する事です。

 

 

 誰かが言う事は何であれ、私たちは教会の聖伝の教えと比較するというのは本当です。私たちは同様に、耳にする事は何でも理性の第一原理(the first principles)と比較し、矛盾するものは直ちに拒絶しなければならなりません。見せかけのカトリック聖職位階が誤った教義をお教え、誤った礼拝と罪になる規律を公布するのを見て来た私たちの事例では、真の教皇たち、又は司教たちが、全体として、このような事をする事は不可能でありますから、彼らが真の教皇と司教たちではないと結論付ける必要があるのです。第二バチカンによる真理からの離脱、さらに普遍教会に対する異端の教えは、パウロ六世が真の教皇ではなかった事の 不可謬な 印であります。何故なら、全ての世界教会会議<公会議>の全権威は教皇に依存しているからです。


 

 

 私が今解説したばかりの教義は聖書と全く一致しており、その中にあるガラツィア人への手紙第一章89で、聖パウロはこう述べています:『しかし、私たちにせよ、天からの天使にせよ、私たちがあなた方に説いた事柄以外の福音をあなた方に説くならば、その者は排斥/破門されよ。かつて私たちが言った様に、今私は再び言う:もし何者かが、あなた方の受けた事柄以外の福音をあなた方に説くならば、その者は排斥されよ。』彼は、正しい教義という欠片(かけら)を選別するために、偽りの教師を篩いにかけるよう彼らに教えているのではなく、その代わりにこの教師を完全に排除するよう彼らに教えている事に注意して下さい。その者は排斥されよ さらにこの教義は、教皇パウロ四世による1559年の大勅書Cum ex apostolatusとも一致しており、それは異端者である事が判ったローマ教皇の徹底的排除を要求していますが、彼の教えの選別など要求していないのです。

 

 

 私の回答を要約します:全世界に広められた、ローマ教皇と共にある全司教たちの信仰と道徳に関する教えである、普遍通常教導権は不可謬であります。この教義は1870年の<第一>バチカン公会議で 決定 され、1917年の教会法(第1884項)に存在します。従いまして、普遍通常教導権により教えられて事柄に疑いを挟む事でさえ異端的なのです。もし普遍通常教導権と思われる事柄が教会の教えと矛盾するならば、その場合の必然的な結論とは、この点<信仰と道徳>について誤りを犯さぬよう(from making errors in this regard)キリストに助けて頂いている<守って頂いている>カトリック教会の真の聖職位階から来得なかったというものです。普遍通常教導権を誤りだとして拒絶すると同時に、それを公布している聖職位階を真のローマカトリック聖職位階だと受け入れる事は教会の性分(the Church’s constitution)に反しています。普遍通常教導権に対するウィリアムソン司教様のお考えは誤っており、それは全教導教会(the entire teaching Church)、すなわち、全司教たちと共にあるローマ教皇は、信仰に関する事柄に関して誤りを教える事が出来ると考えるようカトリック教徒を誘導する事から、非常に危険なのです。それ故に、普遍通常教導権に関するウィリアムソン司教様の原理は、セデヴァカンティズム擁護の主張に対抗して用いられる事など出来ません。何故なら、彼の原理が間違っているからです。



[1]:シュルツ、レジナルド・マリア著、de Ecclesia Catholica Prælectiones ApologeticæParis: Lethielleux, 1931

[2]: Berry, Sylvester, D.D., The Church of Christ, (Saint Louis: B.

Herder, 1927) pp. 466-467.

[3]:キュング著、不可謬性とは?ある一つの問い。Garden City, New York: Doubleday, 1971年)、p. 181

[4]:同書、p. 182

[5]:同書に於ける引用、p. 183

[6]:同書、p. 189

[7]:同書。

[8]:同書に於ける引用、p. 200

[9]:同書に於ける引用、p. 201


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(2014年12月14日アップデート済み)

 本日は「ウィリアムソン司教様への回答」のその二を掲載させて頂きます。現聖ピオ十世会のみならず、ウィリアムソン司教様と連携する新聖ピオ十世会にある間違いがここで明確に指摘されています。有能な聖職者に対する盲信から、教導権の不可謬な教えに基づいて考える事の出来ない自称聖伝主義者が多く存在しています。神の啓示として受け入れるべきカトリック教会の教導権と矛盾する有能な聖職者の見解というものは拒絶しなければなりません。私たちは人間より神に従わなければならないからです。

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第二の主張 

[第343号から]
 

 
ウィリアムソン司教様は、第二バチカン“教皇たち”が誤った教義と規律、そして礼拝(ミサ等)を公布したというセデヴァカンティストたちの主張を引用します。もし彼らが本物の教皇たちであれば、彼らはそうする事により教会の非変節性を破壊するのです。この主張に対抗する為、異端的な(スィルミアン)信経(Sirmian formula)に署名したのだ、と自らが強く主張する、教皇リベリウス(Pope Liberius、352-366)の事例を彼は挙げています。この事例に於いて、彼は言います、(カトリック教会の)非変節性は教皇を通して作用しなかったが、正統なまま留まった聖アタナスィウスを通して作用した。同様に、現代では、ルフェーブル大司教様と彼に付き従う人々を通して、非変節性は保証されるのだと。  回答。ここには三つ扱うべき事柄があります。  (1)教皇リベリウスは異端的信経(heretical fomula)に署名しませんでした。彼は曖昧な信経に、正統な解釈を与えながら、署名したのです。しかし、議論する為に、彼が異端的信経に署名した事を仮に認めるとしても、教皇リベリウスがこの教義を全教会に教えなかったという事は確かなのです。ところが、第二バチカンの誤った教義は、第二バチカンの“教皇たち”とその“司教たち”によって全教会に公布されました。この事実は、リベリウスの事例と第二バチカン“教皇たち”のそれとの 本質的な 違い(の説明)に役立ちます。ですから、上の類比(第二バチカンの異端公布と教皇リベリウスによる異端的信教署名の類比)は間違いです。  (2)非変節性は、信徒たちがしがみつかなければならない一人の司教、あるいは数人の司教たちの忠実さにより保全されるものではありません。カトリック教会は本質的に位階的であり、その結果、その行動と特性を教皇及び普遍的位階制度から切り離す事など出来ません。旧約に於いては、神の啓示をユダヤ人に誤りなく教えるという使命であった予言の賜物も、新約に於いては、キリストによってカトリック聖職位階に委譲されました。従って、自らを不可謬な権威にする、カトリック聖職位階の教えの選り分けをするルフェーブル大司教様の様な“預言者-司教(prophet-bishop)”など決してあり得ないのです。カトリック教会の不可謬性と非変節性は、教皇及び彼と一致する司教たちによって作動されなければなりません。それは教皇とそれ以外の聖職位階の矯正者たちとして名声を確立する一人または数人の司教たちによっては保証されないのです。この様な理屈を主張する事は、カトリック教会のまさに神的性分を台無しにします。カトリック教義の本質とは、それ(この教義)がキリストの御名に於いて、イエズス・キリストのそれと同じ唯一の権威を以って教え、統治し、聖化する権能を持つ聖職位階を用いて与えられるということです。仮に信徒たちが、超自然の真理を見出す為に、この聖職位階 に逆らう 告発者たち、つまり預言者-司教たちに助けを求めなければならないとしたら、カトリック教会の本性※と本質(nature and essence of the Catholic Church)は破滅してしまいます。  言い換えるならば、誰もローマカトリックの聖職位階を越えてかそれを離れて神の為に語る事など出来ないのです。  (3)聖伝との一致を決定する為に教導権を選り分けるというウィリアムソン司教様のやり方は、(不可謬な)カトリック教会の教導権 である、信仰のカトリック的規則を完全に覆します。彼のやり方は、基本的にプロテスタントのそれなのです。各々は聖書の真の解釈であるものを決めなければならない、と彼らは主張します。ウィリアムソン司教様は、各カトリック教徒は、聖伝と一致しているかしていないと自ら見做すものを決めなければならないと言っているのです。 この様な信仰の規則はちょうどプロテスタント主義がそうであるもの:つまり、何であれ信仰に関して如何なる一致を持たず、聖書が述べる事柄について果てもなく言い争い、さらに数え切れないほどの教義的陣営(宗派)へと分裂して来た人々の集団へと導くでしょう。 教導権を差し置いた聖伝という上級裁判所へのこの上訴が重大な誤謬に導いた事例が、カトリック教会史には多く存在します。例えば、ドナトゥス派は、迫害の間に棄教に陥った者たちの(授ける)諸秘蹟を有効なものとして受け入れる事について教会は間違ったと考えたが為に、離教者となりました。ギリシャ人たちは、中でも、ローマ典礼における無発酵(種無し)パンの使用は聖伝ではなく、それ故に無効であると主張した為に、十一世紀に離教してしまいました。彼らはさらに、教皇の至上権をそれが聖伝ではないという理由から拒絶したのです。同様に、十九世紀の(Traditioというウェブページの管理者も含まれる)旧カトリックたち(the Old Catholics)は、教皇の不可謬性をそれは聖伝ではないと強く主張して拒絶しました。近代主義者たちでさえ、カトリック教会は時間と共に初代教会には見出され得なかったものへと発達したし、またそれが故に聖伝ではないのだと主張します。1960年代の全典礼刷新は、考古学主義(archaeologism)という間違った考えに基づいていました。それは特に、中世及びトレント期は初期の聖伝と一致しない典礼を創り上げたというものでした。フィニー主義者(Feeneyites:洗礼主義者)たちは、血及び望みの洗礼は聖伝と両立せず、十九世紀に捏造されたものであると主張します。  エコンの捏造である、聖伝を選り分けるというウィリアムソン司教様のお考えは、異端と離教の潜在的な蜂の巣であり、聖伝カトリックを最悪の一団の中に据えてしまうのです。

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※:本性(nature) 本質(essence)と本性(nature)は、存在または行動という二つの観点から把握された同じ現実を表現する。本質が、提示された何らかの事物がそれ(本質)によってそれ(この事物)となるものである時、つまり本質がこの事物の特質の根拠及びこの事物の存在の法則である時、この事物の本性は、この事物がそれ(本性)によってありのまま行動するもの、つまりこの事物の作用の基礎及び法則と見做された本質である。従って再び聖トマスは言う:『本性は、それ(本性)がそれ(本性)特有の作用と関係するに応じてある事物の本質を表わすと考えられる。』(聖トマス・アクィナス、De ente et essential, cap.i):http://www.newadvent.org/cathen/05543b.htm

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 本日より、ノヴス・オルド・ウォッチが2014年2月24日に掲載した『ウィリアムソン司教様への回答』を和訳連載させて頂きます。これを掲載する第一の理由とは、カトリック教徒には正当な権威者だと自らが認める人々の教えを選り分ける自由などないという事を理解して頂きたかったからです。聖伝主義者を名乗る人々は、ローマは信仰を失い棄教しているので、彼らから来る教えは十分に吟味した上で、ある教えは受け入れ、ある教えは拒絶しなければならないと主張します。これ、非常に的を得ているかのように聞こえる言葉でありますが、実はカトリック教会の性質に対する無知、あるいは無視から生まれる主張なのです。本ブログをお読みになり、最近では「秀逸な記事」という賛辞/お世辞を付して転載して下さるブロガーもおられます。ただ、もし本ブログ上のある記事が秀逸だと判断する能力を真にお持ちならば、本日から連載するセデヴァカンティスト、ドナルド・サンボーン司教様の書かれた記事の内容は、特に難解なものではないと信じております。もし理解不能だとしたら、上述した賛辞は、単に例の記事が、日本の聖ピオ十世会とその指導司祭及び賛同信徒方を批判する点で「秀逸」だと判断されただけのことだと私は判断します。本ブログの趣旨は、悪戯に聖ピオ十世会を批判する事ではありません。出来る限り真の愛徳に基づいて、彼らに聖ピオ十世会の異端的な立場を理解して頂き、真のカトリック的な立場、つまりセデヴァカンティズムを理解して頂く事です。

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ウィリアムソン司教様への回答

ローマ聖座の空位に関して
ドナルト・サンボーン司教著


序文  
  
 
Sanbornウィリアムソン司教様が、キリエ・エレイソン・ブログ上にセデヴァカンティズムを論駁する一連の記事を最近発表されました。聖ピオ十世兄弟会の熱烈な反近代主義者たちを御自身に惹き付けた後で、私が思うに、ウィリアムソン司教様は彼らの内にセデヴァカンティズム(教皇座空位論)に対する傾向が幾分ある事に気付きつつあるようです。彼らの中のある者は、大抵の場合が、意見主義者(opinionistes)であるとはいえ、明白なセデヴァカンティスト(教皇座空位論者)です。これ(意見主義)は、ベルゴリオ(フランシス一世)は教皇でないと 考える 一方で、反対の意見、つまりベルゴリオは教皇だという意見には、それに有利なもっともらしい論拠が幾らかあると彼らが認めることを意味するのです。その上最近あった私のイギリス訪問が、事態を少しばかり動かしたと私は確信しています。この記事の中で、ウィリアムソン司教様のブログの2014年2月の第343号と、2014年2月14日の第344号の二つの記事に対して回答します。過去に於ける私たちの対立の数年にも拘らず、ウィリアムソン司教様との個人的衝突など私には一切ないと言わせていただきます。彼は高度かつ理性的な水準で議論をお守りになりましたので、私の方も同じ事をさせて頂く所存です。簡潔さを期して、私は彼の主張を要約し注釈を加えました。


第一の主張 

[第343号から]  


 Williamsonウィリアムソン司教はノヴス・オルドの教皇たち(公会議教皇たち)を受け入れますが、それと同時にカトリックであるものに関する彼らの教えと諸規律を選り分けて、カトリックでないものは拒絶するというルフェーブル大司教の姿勢を擁護します。自分の個人的選択によってそうする事は異端に等しくても、二千年の聖伝に基づいてこの選択をするなら、それは異端に等しくないと彼は主張します。 回答。(1)全ての異端者は、聖書であろうと聖伝であろうと、カトリック教会の教義に反した教えを選ぶ為に、天啓の(/天啓が有する)何らかの形式に訴えます。 ですから教義を選ぶ時、聖伝カトリック教徒は異端の精神を免れません。何故ですか?それは、彼が教会の教導権以上に聖伝に訴えるからです。しかしながら、教導権は不可謬であり、それ故それは 必然的に 聖伝的であります。(2)カトリックの聖職位階とは、現行の教えと聖伝の教えの一致に関する保証人です。一方で彼らを権威者と見做し、また同時に彼らの教えは聖伝から逸脱していると言う事が私たちには出来ません。聖伝から逸脱するという事は、誤りの内にあるという事だからです。まさに不可謬性の概念は、彼らの教える教義が聖伝と一致している事を含んでいます。もしそれが聖伝から逸脱するなら、どうやって不可謬であり得るのでしょうか?もし彼らの教義が聖伝から逸脱すれば、そこには言うべき事がたった一つだけあります:教義の公布に於いて自分たちがキリストから援助されていない事を示しているので、彼らは権威者ではない。  結果的に、カトリック教徒たちは誤謬又は異端に関する教会の教導権を選り分ける必要などなく、またそうしてはなりません。カトリック教会の目的とは、この正確な事柄を行なう為に絶えざる援助を教会にお与えになる、キリストの名に於いて不可謬なやり方で人類に教える事なのです。  さらに言えば、聖伝に関する教導権を選り分けるという方法は、自称教皇及び司教たちから権威を奪い取ります。こういう場合に、権威は 選り分け人 にあるのです。何故なら彼はカトリックであるものか、そうでないものついて決定権を持つからです。こうやってノヴス・オルドの聖職位階から教える権限を奪い取る事で、ウィリアムソン司教様は現にセデヴァカンティズムに利する議論をしておられます。 (続く)

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典拠記事:http://www.novusordowatch.org/sanborn-response-williamson.pdf


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