2017年8月2日アップデート済み
その御取次ぎと御導きを請い願う。
1846年9月19日、ラ・サレットの山上で聖母により与えられたメッセージ:
「. . . ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう . . . 公教会は覆い隠され、世界は悲歎にくれる事になります。ですが、天主の霊に満たされたエノクとエリアが天主の御力によって福音を述べ伝えるので、善意ある人々は天主を信じ、多くの霊魂たちは慰められ、聖霊の御力で大成長を遂げて、反キリストの悪魔的誤謬を非難することでしょう。」http://resistance-catholique.org/documents/la-salette/secretsalette.htm
冒頭に記したラ・サレットの聖母のメッセージを読んで、聖母の言われた『ローマの棄教』は、私たちの生きているこの時代ではないのかと考える事は決して間違いではありません。どう見てもローマは棄教しているからです。ただこの様に公教会の認可を受けた個人的啓示も、単にこの時代を理解する一つの信頼性ある道標にしかなり得ません。此処で大事なのは、これまでの公教会の聖伝の教えに基づいて、現状を理解する事となります。そして理解したものに更なる心的同意を捧げると共に、客観的確証性を加える為にも、これらの個人的啓示は、補足材料として、役立つでしょう。
『セデヴァカンティズム』に関するブログを開始するに当たって、私は先ずそれをラ・サレットの聖母に奉献したいと考えました。『セデヴァカンティズム(sedevacantism)』とは、ラテン語の名詞『sedes :(ここでは)教皇座/司教座』の奪格『sede』と『vaco, vacare :空になる(自)』の現在分詞『vacans:空になっている』の奪格である『vacante 』からなる、ラテン語文法上では「絶対奪格形(supine form)と呼ばれるものを『主義/論化(ism)』した言葉です。一般に私たちカトリックの世界において、『sede vacante』は『教皇/司教座の空位期間に於いて』、『教皇/司教座が空位である場合』等と訳す事が出来る「教会法用語」です。本ブログでは、『sedevacantist』は『教皇座空位論者』、そして『sedevacantism』は『教皇座空位論』と理解して下されば幸いです。
さて、ルフェーブル大司教様を含めた多くの聖伝主義者たち自身が言及している様に、私たちはまさにその時代に生きていると言えます。1986年10月27日に開催された第一回アシジ世界祈祷集会を前に、聖伝復興運動の著名な指導者の一人であったルフェーブル大司教様は、もし天主の許しでこの集会が開催されたならば、その時こそ聖ピオ十世会はセデヴァカンティストの立場を取ろうと考えておられました(これについて、現在の聖ピオ十世会は否定する傾向がありますが、それを証明する記事は幾つでも見つける事が出来ます)。しかし周囲の否定的反応を考慮した大司教様はこの決断を下されませんでしたので、多くの方々は、聖ピオ十世会がつい先日合意を望んだあのローマが、未だにカトリックのローマだと思い込まされています。棄教して尚、『可視的教会』なる名称を、現在のローマは保つ事が出来るのでしょうか?真のカトリック信仰を持たないローマに顕在する『可視的教会』は、単なる可視的な棄教教会、つまり離教又は異端教会、セクトに過ぎません。これをより良く理解する為に一つの指針となるのが、上述したラ・サレットの聖母のメッセージなのです。真の教会は姿を潜めています。私たちが日々目にしているローマは、もはやカトリック教会の可視的頂点ではありません。本当のカトリック教会は覆い隠されています。頭を失った教会は離散して存在していると考えて良いでしょう。
ところで、キリストの神性冒涜と棄教行為でしかなかったアシジ集会の約一年後の1987年10月4日、ルフェーブル大司教様は明確な言葉で『ローマの棄教』に言及されました:
「 ローマは信仰を失いました、親愛なる皆さん。ローマは棄教しています。これは根拠のない言葉ではないのです。これは真実です。ローマは棄教しています。もうこの人たちを信用する事は出来ません。彼<ラッツィンガー枢機卿と思われる>は教会を離れ去りましたし、彼らは教会を離れ去りました、そして彼らは教会を去っています。これは間違いありません、間違いなく確かです。私はラッツィンガー枢機卿に締めくくりました。『宜しいですか、もし貴方が司教一人を我々に下さっても、もし貴方が他の司教方からの自主性を幾分我々に認めて下さっても、もし貴方が1962年の全典礼の使用を我々に許して下さっても、またもし貴方が我々に神学校と司祭会を今機能しているように続ける事を認めて下さったとしても、私たちは協力出来ません!不可能です!考えられません。何故なら、我々は全く正反対の目的で働いているからです。皆さんは社会や人格、そして教会の非キリスト教化のために働いています。しかし我々はキリスト教化の為に働いているのです。上手く行く筈がないではありませんか。』この人たちに従う事など出来ません。これは棄教ですよ。彼らは君臨すべき方である聖主イエズス・キリストの神性をもう信じていません。どうして?何故ならそれがエキュメニズムに反するからです。そうです。信教の自由に反するからであり、エキュメニズムに反するからです。信教の自由であれエキュメニズムであれ、どちらも同じ事です . . . . 原理に従う事は単なる行為をするよりも常に重大です。違いますか。何故なら原理は行為の根源と、あらゆる活動の根源にあるからです . . . 自由主義や信教の自由の原理同様、それが貴方がたにエキュメニズムを行なわせるのであって、それが貴方がたに国家の世俗化<教会と国家の分離=政教分離>を行なわせるのです。そうですね。より重大なのです。アシジはさらに重大ですよ。これは棄教です。ただし、これは現実です、つまりこれは行為であって、原理ではありません。これは原理の結果なのです。』」 http://www.gloria.tv/?media=24975 (ビデオ映像にはいわゆるルフェーブル大司教様の1974年宣言の引用が映っていますが、上掲の訳文は1987年10月4日にあった大司教様によるお話しの録音音声を、可能な限り文字起こししたものです。)
このブログに関心を持って下さった訪問者の方々には心から感謝致します。しかしそれが理解に変わる事を期待して止みません。皆様が既成概念に囚われず、より客観的な目で教会の現状を理解し、多くの否定的憶測や誹謗中傷に流される事なく、真の信仰を矛盾なく生きられる為にも、このブログがその一助となればと考えております。一つ忘れないで頂きたいのは、セデヴァカンティズムを否定する聖伝主義者は、あの聖伝復興運動の指導者のお一人であったルフェーブル大司教様でさえ、この立場を一つの選択肢として見做していた事を知らないか、それに言及しようとしません。そして涼しい顔をして、「セデヴァカンティズムはカトリック的ではない」と一蹴します。さらに聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教様御自身によるセデヴァカンティズム的発言をあらゆるウェブサイトから削除しました。ルフェーブル大司教様の説教の内300以上が実際に掲載を禁止されています。その理由は、おそらく2009年頃から秘かに浮上した、同会2006年総会宣言の「ローマとの合意条件」である「ローマの回心」を事実上待たない、棄教的ローマとの合意交渉開始にとって、大司教様によるローマ及び教皇に対する批判は不都合だったからだと考えられます。しかし確かにルフェーブル大司教様はかつて「パウロ六世(公会議以降の教皇)は教皇ではない」と明言しています:http://www.meramo.net/AmigosdeMeramo/Francais_files/Mgr-Lefebvre_La-Rome-maconnique_mono56.mp3 (ただし、この明言の後で、直ぐにそれを単なる仮定に切り替える事により、周囲の躓きを回避しようと努めているのが伺えます。) 何れこの大司教様による講話の録音も文字にしたいと思います(http://sedevacant-hodie.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/10/post_07b1.html)。実際、日本の聖伝カトリック教徒の内、ルフェーブル大司教様とデ・カストロ・マイヤー司教様がどれほど真剣にセデヴァカンティストの立場を取る事について考えておられたか御存知の方はごく少数だと思います。あのマイヤー司教様でさえ、最終的にはセデヴァカンティストの立場を取りました。これから少しでもこの立場の正当性を理解する人が増え、セデヴァカンティストの司祭を海外から迎えられる日が来る事を期待します。その日が来るまで、私は単なる天主の道具となってこのブログを出来るだけ更新し、日本のカトリック教徒の方々、それも特に、英語やフランス語に親しみのない方々の為に、日本で掲載される事のない様々な情報を日本語で読んで頂けるように、私の拙い翻訳文を一つでも多く掲載して行きたいと考えています。
最後にコメントは承認制とさせて頂きます。また私のブログの趣旨はルフェーブル大司教様が創立した聖ピオ十世会の批判ではありません。しかし時にセデヴァカンティズムという立場を客観的かつ分り易く説明し、また擁護する為に、この立場を一つの選択肢として考えておられた当会創立者の方針から大きく逸脱し、棄教状態のローマとの合意交渉へのモーションをかけた新しい聖ピオ十世会を客観的に批判する事はあるでしょう。それでも批判の為の批判ではなく、聖ピオ十世会に対する愛徳の精神を決して忘れないよう心掛けるつもりです。これは本来司祭方の仕事であろうとは思いますが、残念ながら、日本には過去数十年の間、セデヴァカンティズムを正しく理解し、それを証明し得る聖伝主義司祭は存在しませんでした。かつてセデヴァカンティストを自称する司祭、及びグループが存在したと聞きますが、恐らくこの方々は、真実を見出し難い公教会の混乱の中にあって、何らかの個人的啓示に影響されるなどして、本来信仰の規範であるべき聖伝の教義や神学的考察から逸脱し、最終的に外部との交流を断ったが為に、ついには閉鎖的でセクトの様なグループを形成してしまったのではないかと私は考えています。これらの方々が、信仰の純潔を守り、それに従う上で、最も安全な立場だと考えられるセデヴァカンティズムを正しく理解して、再び立ち返る事を期待します。
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