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永遠の休息を与え給え。
聖ゲルトルード教会の司祭の一人、スティーブン・マッケーナ神父(Fr. Stephen McKenna)が、同司教様の死を確認した:
情報が漏れてしまったようです。
残念ながらドーラン司教様が4月26日、
善き御勧めの御母(sic)、今日、突然
お亡くなりになった事を皆さまに確認/告知致します。
彼の霊魂と私たち全員の為にどうかお祈り下さい。
ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!
ファティマ茶番劇:背教者の反教皇がロシアとウクライナをマリアの汚れなき御心に奉献する
本ページは頻繁にアップデートされます‐最新情報の為にページ更新をして下さい(sic)!
フランシスによって大いに待望されていた、汚れなき御心への“ロシアの奉献”が、本日、2022年3月25日、彼自身がこれ見よがしに告解に向かった悔悛式の一部として、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた。このブログ記事はこの出来事と関連する最重要な情報源にスポットをあてて取り扱う。
彼の人気取り的行為を“ファティマ茶番劇”と我々が呼ぶのは、ファティマの聖母の御出現とメッセージ、警告、あるいはその懇願に疑いを投げかけるからではなく、この奉献を執り行った男が教皇ではなく、カトリックではなく、神の御母、聖母の友ではない
からなのだ。
このウェブサイト上でたっぷりと証明されている通り、ホルヘ・ベルゴリオ(Jorge
Bergolio)-つまり“教皇フランシス”を自称する男-は、冒涜者(blasphemer)、偶像崇拝者(idolater)、異端者(heretic)、そして背教者(apostate)である。
ビデオクリップ
奉献に先立って行われた悔悛式
奉献式のみ
最後のドミニコ会司教逝去す
1927年7月8日‐2015年12月16日
彼の安らかに憩わんことを
ある非常に悲しいニュースが私たちのもとに届きました。本日米国に於いてロバート・フィデリス・マッケーナ司教様が88歳でお亡くなりになりました。彼は世界中でも最後の一人となったドミニコ会のカトリック司教でした。1958年に、マッケーナはアムレト・チコニャーニ枢機卿(Cardinal Amleto Cicognani 1883‐1973)からドミニコ会司祭に叙階され、1986年の8月22日には、パウロ六世による1969年のNovus Ordo Missae(ミサの新しい指導要綱) に反対して、いわゆるオッタヴィアー二インターヴェンション /オッタヴィアー二の介入(日本では一般に 『新しいミサ司式の批判研究』 として知られている)を著したドミニコ会のミシェル・ルイ・ゲラール・デ・ロリエ司教(Bp. Michel-Louis Guerard des Lauriers, O.P.
1898-1988)により司教に聖別されました。
マッケーナ司教は、公のセデヴァカンティズムの草分け時代にあって、フランシス・フェントン神父(ジョゼフ・フェントン司教とは無関係)と共に正統ローマ・カトリック運動(ORCM)の共同創立者でありました。
ご自身の司教聖別者であったゲラール・デ・ロリエ司教同様、マッケーナは第二バチカン(公会議)以降の教皇自称者たちに関するカッスィチアクム論(別名、質料的⁻形相的理論又は“セデプリヴァショニズム‐Sedeprivationism/教皇座在位論)” の主張者でした。一言で言って、この複雑な理論は、第二バチカン以降の“教皇たち”は真の教皇ではない<下線:翻訳者補足>が、ローマ教皇への有効な選任を獲得していている為、もし彼らが自身の異端を放棄して、カトリック教義へと回心するなら、自動的に真の教皇に なる だとうと主張しています。彼らは、ある意味で、“次期教皇(pope-elect)”-つまり、教皇に有効に 選択 かつ 任命 されていますが、その途上に自らが置いた障害(異端)故に、実際は教皇に なる 事が出来ないというものです。少なからぬ神学的根拠に基づくこの理論はゲラール・デ・ロリエ司教に端を発しており、世界中で多くのセデヴァカンティストたちから支持されています。アメリカ合衆国に於ける、この理論の最も著名な擁護者が、2002年6月19日にマッケーナ司教から司教に聖別されたドナルド・サンボーン司教(Bp. Donald Sanborn)です。
例えどんな事があろうとも、この最も困難な時代にご自身の全生涯を聖主とその教会への奉仕にお献(ささ)げになられたこの偉大な方の霊魂の安息の為にあなた方の祈りをお注ぎ下さい。
トム・ドロレスキー(Tom Droleskey)さんが、この優れた司教の生涯と活動についてもう少し背景を提供してくれる短い記事を掲載されました。
本日は連載記事である『ルフェーブル大司教とセデヴァカンテズム
』をお休みし、急きょ三日前の18日にお亡くなりになったドン・ルイジ・ヴィッラ神父様の伝記の抜粋を紹介させて頂きます。恐らく日本では全く無名の司祭だと思いますが、この方はパードレ・ピオの霊的息子であり、教皇ピオ十二世の隠密として、公教会内のフリーメーソン勢力と執筆による戦いを繰り広げた方として有名な司祭です。彼の著書には「Paul VI BEATIFIED?」というものがあります。本日の記事にある同司祭の伝記抜粋文の判断を下されるのは読者一人一人です。内容から見て、ある意味「反使徒1025」に似たスリリングな部分もありますが、私自身、これは決してフィクションではないだろうと思っています。現実を受け入れたくない方々の反応は予想出来ますが、やはり現実は受け入れなければ、私たちが公教会の為にする祈りの意向も、現実味を欠いたものとなるような気がします。
典拠:http://www.catholique-sedevacantiste.com/
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フリーメーソンによる公教会侵入に対して疲れを知らない戦いを繰り広げた事で知られる、ドン・ルイジ・ヴィッラ(Don Luigi VILLA)が、11月18日、享年94歳にしてその霊魂を天主へと返した。
願わくは、彼の霊魂の安らかに憩わん事を!
Requiem æternam dona eis, Domine, et lux
perpetua luceat eis
聖主よ永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え
ドン・ヴィッラはパードレ・ピオの霊的息子であったが、この霊父の死の少し前、彼はバチカンの聖職位階に侵入した者や、悪名高い教派(レオ十三世に拠ると、≪Inimica Vis:邪悪な力)の思想と戦う任務をこの霊父から受けている。
ルイジ・ヴィッラ神父は、神学博士であり、“キエザ・ヴィーヴァ(Chiesa Viva:活ける教会‐バチカン発行誌)”の編集長だった。1918年2月3日に誕生、1942年司祭叙階。
彼の伝記からの抜粋文:
バリ(Bari)を発つ前、ベルニ(Berni)神父は、ヴィッラ神父がサン・ジオヴァンニ・ロトンド(San Giovannni Rotondo)まで一緒に来てくれる事を望んだ。現地に到着すると、ベルニ神父は昼食を注文しに“サンタ・マリア”病院まで行く間、自分の事を待ってくれるよう彼に頼んだ。するとヴィッラ神父はそこにある修道院の小教会堂へと祈りに向かった。
教会堂には誰もおらず、彼はベンチに跪いた。突然、彼はある存在に気付き振り向いた。すると彼の傍には、並外れて美しい、青年がおり、彼にこう尋ねたのだ:≪貴方はパードレ・ピオにお会いしたいのですか?≫。≪いいえ!≫とヴィッラ神父は答えたが、この青年は懇願した:≪行って下さい、ただ行ってみてください、パードレ・ピオが貴方を待っていますから!≫。ヴィッラ神父が自分に話しかけて来た人に向き直ると、自分の傍にはもう誰もいなくなっていた。これらの言葉を発した人は消えていたのである!
それから、彼は修道院の中に入り、パードレ・ピオの修室がある所まで上って行き、そこで強烈な花の香りを感じたのだ。そしてその事を通り掛かった修道士に伝えると、この修道士は彼に向かい≪良い印です、良い印ですよ!≫と言って、パードレ・ピオは間もなく自分の修室に戻って来ますと言い足した。
彼を待つ間、ヴィッラ神父は自分がしたいと思う12の質問を手帳に書き出した。少ししてから、パードレ・ピオが彼の方を向き(彼は狭い廊下の二十メートルほど奥にいた)、≪貴方はここで何をされているのですか、ヴィッラ神父様?≫と言って、自分の修室である5号室まで彼を案内すると、彼は付き添いの医師二人と一緒にそこに入ってしまったのだ。しかし数分が経ち、この医師たちがいったん退室すると、パードレ・ピオはヴィッラ神父を呼び、彼を自分の修室に入れた。さらにそこで、彼は例の12の質問に答えてくれ、三十分以上も神父と話をしてから、彼に成し遂げるべき任務を託したのである。つまり、フリーメーソン、それも特に聖職者のフリーメーソンによる仕業から公教会を守る為、自分の全生涯を捧げるという任務を。
ヴィッラ神父は当惑したままこう伝えた:≪ですが、私はこの様な任務の為に準備されていませんし、司教様から守って頂かなければなりません。≫ パードレ・ピオは彼の話しを遮り、その彼に言った:≪セント・マリー・デ・グラース・デュ・クーヴァン(Ste. Marie des Grâces du Couvent:修道院の恩寵なる聖マリア)の古い小聖堂とチエッティ(Chieti)の司教様を見つけに行って下さい。そうすれば、彼は貴方に何をすべきか教えて下さるでしょう。≫ 数日後、ヴィッラ神父はバリを出発し、モンスィニョール・ジアンバッティスタ・ボズィオ(Mgr Giambattista Bosio)の所に赴いた。司教は彼に尋ねた:≪どうして貴方はここに?≫ ヴィッラ神父は≪パードレ・ピオが貴方を見つけに行くよう私に言われたのです。≫と言い、彼にその理由を説明したのだ。
終わりにモンスィニョール・ボズィオが彼にこう言った:≪司教は自分の教区内でしか権限を持ちませんからそれは不可能ですし、貴方の計画はその範囲が余りに広いのです!何れにしても、私が今まで会った事も見た事もないパードレ・ピオが貴方にそう言われたとなれば、私はローマに出向いて説明して見ます。≫
その結果、モンスィニョール・ボズィオは国務聖省のドメニコ・タルディーニ(Demenico Tardini)枢機卿の下に赴き、ヴィッラ神父がパードレ・ピオから頂いた任務について彼に話したのだ。枢機卿は直ちに反対を表明し、このような任務は普通の司祭にではなく、公教会の高位の方々に留保されていると言った。しかしながら、このような計画がパードレ・ピオから来ていると聞くなり、彼はそれについて教皇聖下に話してみると伝えたのだ。彼はそうしてくれた。
モンスィニョール・ボズィオがタルディーニ枢機卿の下へ再び赴くと、後者は、パードレ・ピオからヴィッラ神父に託された任務をピオ十二世は承認されたが、二つの条件を付けた事を彼に報告したのだ。その条件とは、ヴィッラ神父は教義神学<教授>から身を引かなければならないという事と、さらに検邪聖省長官のアルフレド・オッタヴィアーニ(Alfredo Ottaviani)枢機卿と、ピエトロ・パレンテ(Pietro Parente)枢機卿、さらにピエトロ・パラッズィーニ(Pietro Palazzini)枢機卿の指揮に彼は委ねられなければならないというものであった。
これらの枢機卿たちは彼を導き、この教皇の職務に関わる公教会の多くの秘密について彼に知らせてくれるはずだったのだ。モンスィニョール・ボズィオは、ピオ十二世からの“条件”をヴィッラ神父に伝えたが、自分からも条件を一つ加えた:≪私は貴方の司教となる事を受け入れます、ただし貴方には言っておきますよ、絶対にモンティニとは関わらないようにして下さい!≫ この言葉の厳しさに打たれたヴィッラ神父が尋ねた:≪ところでモンティニとは誰ですか?≫ モンスィニョール・ボズィオはこう答えた:≪一例を貴方に挙げます。私はテーブルのこちら側にいて、貴方は向こう側にいます。こちら側には、モンスィニョール・ジアンバッティスタ・モンティニ<将来のパウロ六世>、向こう側には、人類の残りがいるという事です!≫
モンティニ家とボズィオ家は、どちらも(ブレシア‐Brescia‐近くの)コンチェスィオ(Concesio)に住んでいた事に注意しよう。従って、ボズィオ家はモンティニの事を良く知っていたのである。
その後、モンスィニョール・ボズィオは、1957年5月6日の勅令に基づき、秘かにヴィッラ神父をチエッティ教区に入籍させた。
ヴィッラ神父は当時スイスのフリブール大学に登録してあったが、1963年7月をもって神学<教授>から“licencia:退いた”。その後、彼は1971年4月28日にローマのラテラン大学からも退く。
1963年後半に、ヴィッラ神父はパードレ・ピオと二度目の面会を果たしている。 彼のところにやって来るなり、パードレ・ピオは≪本当に長いこと、貴方を待っていましたよ!≫と彼に言ってから、ヴィッラ神父は自分に託された任務に於いて動きが遅いと嘆いたのである。この面会の終わりに、パードレ・ピオはヴィッラ神父を抱擁し、≪しっかり、しっかり、しっかり!公教会は既にフリーメーソンによって侵略されています。≫と彼に言うと、≪フリーメーソンは既に教皇のスリッパにまで(aux pantoufles du Pape)達してしまいました。≫と付け加えたのである。【フリーメーソン結社員の教皇選出は無効という神学者たちの見解を思い出します】
ルイジ・ヴィッラ神父はバチカンへの出入りを許されていた事から、度々ピオ十二世から迎え入れられた(そしてパウロ六世からは公然と疎んじられた)。ピオ十二世は高位聖職者の中に侵入したフリーメーソンを追い詰める為に、全幅の信頼を彼に寄せたが、パウロ六世がその全てを引っ繰り返してから直ぐに、ヴィッラ神父の生涯は兵士の道のりと化したのである。パウロ六世とその取り巻きは、彼に対して完全に敵対していたので、彼は数々の迫害と中傷、それから暗殺の試みにも立ち向かわなければならなかった . . .
ヴィッラ神父はその全生涯に亘り、オッタヴィアーニ枢機卿や、スィリ(Siri)枢機卿、それからモンスィニョール・ソラール(Mgr Sorale) . . . などからの支援を頂いている。聖レミ出版(Les Éditions Saint-Remi)は、彼の著作の幾つかをフランスで出版した。
ルイジ・ヴィッラ神父の伝記:http://wordpress.catholicapedia.net/wp-content/uploads/2012/11/donluigivilla_fra.pdf