2020年04月
2020年 白衣の主日ミサ
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聖主イエズス・キリストの御復活
おめでとうございます!
白衣の主日の聖伝ミサにお与りになりたい方は、こちらを本日23時と明朝1時に訪問して見て下さい。
ああ聖母よ、新型コロナウィルスの特効薬がアビガンである事が既に判明しているにも関わらず、催奇性の危険だけを強調し、医療関係者や一般患者の服用を妨げている偽日本政府の謀略からこの日本と日本国民を守り給え。もしアビガンには催奇性等の副作用の可能性が強いというならば、何故日本偽政府はイランその他の国々にそれほど危険な治療薬を大量かつ無償で提供するのか?他国民の健康は関係ないからですか?いいえ、アビガンは中国その他の国々で証明された様に、新型コロナウィルスの特効薬だからです。しかし日本国民には使用させない。では高級国民だと自称及び勘違いしているマスコミ各位、どうかアビガンの有効性と使用認可の緊急性を報道して下さい。もし偽政治家から成る偽政府の圧力がないのであれば。臨床試験より即増産、そして即市販認可あるのみです!最後に、アビガンの必要性をマスコミで訴えるごく少数の医療関係者及び評論家を偽政府の圧力から守り給え。
Veritas liberabit vos!
Victimae paschali laudes :
復活祭聖歌
2020年 聖主イエズス・キリストの御復活の前日祭儀式及び御復活の主日ミサ
2020年聖週間典礼の実況中継スケジュール
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*聖火曜日
本日午後11時-御ミサ
*聖水曜日
4月8日午後11時-御ミサ
*聖木曜日
(4月10日の)午前9時-聖主の晩餐ミサ
*聖金曜日
(4月11日の)午前7時-聖金曜日の午後の荘厳典礼儀式
*聖土曜日
(4月12日の)午後2時半-復活前日の荘厳儀式
聖ピオ十世会日本人司祭O神父様に捧ぐあるカトリック権威者の教え
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2020年4月7日修正アップデート済み
敬愛する聖ピオ十世会日本人司祭O神父様、
以前も申し上げた様に、誤った典拠に基づく主張というものは誤った結果/結論しか生み出しません。O神父様の採用された典拠であろう『True Or False Pope?』は単にこまごました説明を連ねるだけで、結局は『公の異端に陥った教皇が自動的に職務を喪失することなどあり得ない』という誤った結論へと導きます。そしてこれは1917年教会法188条4項(*)に記されている不可謬なカトリック教義に反する結論なのです。2019年9月24日の『クレディディムス・カリターティ』でO神父様は御自分の典拠を長々と、不完全な形で、引用して後に、『教皇が異端に陥ると自動的に教皇職を失うというのが嘘である事が分かります。』と明言されました。全教会に対して公布された教会法が信仰と道徳に関して『嘘』を教えるなら、カトリック教会の存在意義は果たしてあるのでしょうか?聖ピオ十世会が私たちに刷り込み得る考えとは、『聖主イエズス・キリストの創立されたカトリック教会も所詮は公に嘘や間違いを垂れ流す政治団体や詐欺宗教団体と何ら変わりはしない!』というものです。もしカトリック司祭であるならば、御自分の所属する組織の方針を正当化する為の『公の異端教皇の発見』に無駄骨を折るよりも、『あなたはペトロである、私はこの岩の上に私の教会を建てよう、地獄の門もこれに勝てぬ。(マ16.18)』と仰った、我々を決して欺く事のない聖主イエズス・キリストへの信仰から、聖アルフォンソ・ド・リゴリその他と共に、『ホノリウス一世は異端者ではなかっただろう。彼が排斥された理由は他にあるはずだ!』と考えるべきでした。以下はノヴスオルドウォッチの2017年7月12日の掲載文の和訳です。拙い翻訳ではありますが、どうか忍耐を以てお読みください。これをお読みになり、聖ピオ十世会の詭弁を理解される聖ピオ十世会賛同信徒の皆さま、これについてO神父様に質問し、『教会法の教えを嘘呼ばわりする司祭会は一体何者なのか?』『「公の異端者教皇様の為に祈り、彼の為に苦しみを捧げよう!しかし彼の教える異端には徹底的に抵抗し、戦おう!」と標榜する聖ピオ十世会の考えは異常ではないのか?聖主は公の異端者である教皇によって教会が統治される事をお許しになったのか?それでは、地獄の門、つまり異端が教会に勝利したということじゃないのか?』と問い詰めるのはある意味皆さまの義務です。物わかりの良い、理解ある友人の様な顔をして、O神父様が聖ピオ十世会で堅忍するよう励ますようなことはどうかしないで下さい。O神父様、神父様が何年リサーチしても『公の異端者でありながら、教皇職を失わなかった教皇』など見つける事は出来ません。教導権を事実上侮辱する『教皇が異端に陥ると自動的に教皇職を失うというのが嘘である』という発言を出来るだけ早く撤回し、神に赦しを請うべきです。そして真のカトリック司祭になって下さい。友人の仮面を被った信徒から何を言われようが、どうか神とカトリック信仰を第一に擁護して下さいますように!敬愛するO神父様、神父様が以下の掲載記事で引用される大神学校教授司祭(後に聖教皇ピオ十世の枢機卿)の説明を拒絶するならば、O神父様の異端的思考レベルの深刻さがより鮮明になるという事をどうか忘れないで下さい。任命された営業エリア内で数多くの顧客を獲得し、欠陥商品を提供する営業マンの様に、御自分の会にとって不都合な教導権を排除した『不完全なカトリック信仰』を日本という司牧エリアにおいて、どれほど多くの霊魂に提供したところで、この霊魂たちの善にはならないのです。これは詐欺商法ならぬ、詐欺司牧と言えるものです。そして少なくとも客観的にはそうなのです。ルフェーブル大司教様がセデヴァカンティストの立場をしっかり取れなかったのは御会メンバーたちの圧力があったからです。そしてその中のある方は、既にノヴスオルド教会、つまり反キリスト教会の正式なメンバーとなっています。そして聖ピオ十世会もこの反キリスト教会の正式なメンバーとなりましたね?!もし聖主イエズス・キリストの為に反キリストの勢力と戦う事をお望みならば、『組織内組織として戦う!』などという聞こえは良いがその実臆病でしかない言い訳などせずに、先ずは反キリスト教会のメンバーシップを返上して、真のカトリック教会のメンバーシップを獲得し、その上で戦いを開始して下さい。これはO神父様に対する侮辱ではなく、愛徳に基づく私の心からの嘆願メッセージです。
(*):『もし聖職者が、4、公にカトリック信仰を棄てた(異端に陥る)場合、. . . . (彼が有する-和訳者補足) 全ての職務は、自動的にかつ如何なる宣告も伴わずに、空位となる。』
Veritas
liberabit vos!
教皇ホノリウス一世の判例
今日、(第二バチカン公会議以降の教皇たちを真の教皇であると)承認し‐かつ‐拒絶する(聖ピオ十世会的)方針の信奉者たちは、極めて困難な立場に置かれている:つまり、彼らはジョルジュ・ベルゴリオ(<通称>“教皇フランシス”)によって毎日のようにやらかされる恐るべき公の棄教をもはや否定する事が出来ないにもかかわらず、世界がこれまでに知ったこの最大の棄教者は、キリストの代理者であると同時に、不可謬かつ非変節なる(教義を決して変えない)ローマ・カトリック教会の頭ではない という見解(教皇座空位論)を一つの可能性としてさえも見做すのを完全に拒絶するのだ。
従って、彼らは再三に亘り、自分たちの立場の歴史的前例をしきりに見つけたがり、自分たちの立場を擁護する上で提示する事の出来る教会史における“異端教皇(heretical Pope)”を、表面上、見つける事以外に彼らを喜ばせてくれるような事は殆どないのである。19世紀のガリカン主義者(the Gallicns)たちの様に、今日の 承認し-かつ-拒絶する方針信奉者たちは、コンスタンチノープルの大主教、セルゲイウスへの書簡の中でキリスト単意論(Monothelitism)の異端を承認しているように思われるという理由から、幾つかの世界教会会議(第3コンスタンチノープル公会議、第2二ケア公会議、第4コンスタンチノープル公会議)が“異端者”として破門した、7世紀の教皇ホノリウス一世の様な判例を発見したと考えているのだ。
しかし歴史的事実とは何であり、またこの事実ついてどれだけ確信を持つ事が出来るだろうか?
教皇ホノリウス一世の問題が、1869年から70年まで開催され、とりわけex cathedraを以て語る際の教皇の不可謬性をドグマ(教理)として決定した第一バチカン公会議の直前及び期間中以上に論争の的となる事は決してなかった。教皇ホノリウスに関する既知の事実が精査され、熱く論争されたのがこの時期であった。(仮に教皇が公の異端者になれば、何が起こるのかという質問さえ提起され-それに対する回答がなされたのだ。)各方面からの主張が書籍、小冊子、記事、さらには演説を以て交換された。例えば、1868年にイエズス会のポール・ボッタッラ神父(Fr. Paul Bottalla)は、ピーター・ル・パージ・ルヌゥフ氏(Peter Le Page Renouf)の小冊子、教皇ホノリウスの排斥(The Condamnation of Pope Honorius)に答えて執筆した 理知と歴史の法廷に直面する教皇ホノリウス(無料電子版はここで読む事が出来る)という書籍を出版した。
ある者は、確かに教皇ホノリウスはキリスト単意論の異端者であり、歴史がそれを証明していると主張し、またある者は、この非難が根拠とする歴史文書は改竄されていた、あるいは全くの偽造文書であると主張した。それでも他の者は、この文書は本物だと認められるべきであるが、実際ホノリウスが異端者であった事を証明していないと論駁した。
現代になって再燃したこの論争に決定的終止符を打つべく、我々はこの問題に関してルイ・ナゼ―ル・ベジェン神父(Fr. Louis-Nazaire Bégin, 1840-1925)が1873年に出版された自著 La Primautéet l’Infaillibilité des Souvereign Pontiffs(『教皇たちの首位権と不可謬性』) の中で提示された調査を原文であるフランス語から翻訳する事に取り掛かった。カナダ人であるベジェン神父は、ローマの教皇庁立グレゴリアン大学から聖神学の博士号を取得し、後に教皇レオ十三世により(1898年)ケベック州の大司教に任命され、聖ピオ十世から(1914年)枢機卿に任命された。第一バチカン公会議当時、ベジェン神父はケベックの神学校において教義神学と教会史を教えていた。
1873年の執筆時、ベジェン神父は当公会議に備えて行われた全学術調査、当公会議の諸決議、及び当公会議の教義から(参考資料を)引き出せるという承認を得たのだ。自身が大学で教便を執った一連の授業に基づく彼の著書は、当時ケベックの大司教であった、タシュルー枢機卿(Cardinal Taschereau)による必須のインプリマートゥール(Imprimatur:出版許可)が付いている。従って、それが‐歴史的事実の評価と教義的正統性の保証の双方の観点から‐教会の精神に則って教皇ホノリウスに関するややこしい判例を解明する上で極めて信頼のできる典拠となろう事は明白である。
ベジェン神父の著書は単に教皇ホノリウス論争だけを取り扱っているのではない。その題名が示す様に、それは全教会史における教皇の首位権と不可謬性とに関する包括的な擁護である。それはフランス語でのみ出版されており、こちらではオンライン上の無料閲覧が可能であり、ここではペーパーバック(紙表紙)版の購入が可能である。同著書全体の英訳は入手出来ない;しかしながら、ホノリウス問題を論じている講義を我々は翻訳した事から、以下のリンクで余すところなく閲覧する事が可能である:
● 教皇の首位権と不可謬性:教皇ホノリウス一世の判例/ルイ・ナゼ―ル・ベジェン神父著
この本文の中で、ベジェン神父は『教皇ホノリウス一世の正統性に反対して集められた全ての反論』に答える事を意図しており、またその期待に応えている。『霊魂たちを非常に混乱させ、公教会の敵が概して教皇職及びカトリック教義に対し再三悪用して来たこの論争を熟知しておく事は皆さまの為になります。』、と読む者に著者は説明している。
このカナダ人司祭は以下の様に自らの前にある職務の概略を述べている:
問題の諸文書、即ち、ホノリウスに宛てられたセルギウスの書簡、そしてセルギウスに宛てられたホノリウスの二通の書簡、さらに第六公会議の諸決議が真正なものである事を立証する事から私は始める事に致します;その次に、ホノリウスは、それにもかかわらず、異端に陥らなかったし、第六〔世界教会〕公会議〔つまり、第三コンスタンチノープル公会議〕は、彼を正式な異端者として排斥(condemn)しておらず、ただ単に怠慢の罪を犯した者として(as guilty of
negligence)排斥しただけである事を私は立証致します。
この全てを、ベジェン神父はこれほどにも重大な問題が要求する、なくてはならない真剣さ、博学、感覚、真理に対する愛、そして聖にして母なる教会に対する献身を用いて成し遂げている。
教皇ホノリウスの判例に関するベジェン神父の調査報告から選んだ次の引用文は、この論争にある幾つかの要点に触れており、この全文を読む為の追加的発奮材料として役立つだろう:
次に私たちはある非常に深刻な疑問、つまり私たちが取り扱う主題のまさに核心に触れる疑問に突き当たります。これがその疑問です:教皇ホノリウスはキリスト単意論の異端に陥ったのか?私は『いいえ!』と回答します。ここで私は、カトリック教会に反感を抱く著述家の大軍を敵に回している事に気付くのです。その一方、その知識と博学で最も著名な方々に支えられるのです。
…
[教皇ホノリウスは、セルギウス宛ての] 書簡の中で、『神的事柄と人間的事柄において活動されるイエズス・キリストは同一の御方であり』、『イエズス・キリストが二つの本性において、つまり神としてかつ人間として、活動される事を聖書は明確に論証している』という事を数回に亘って繰り返しています。これ以上に明瞭、あるいは明白なものはありません!直ちにこの異端は論破されてしまいます。従って、ホノリウスが単に二つの本性のみならず、二つの意志(two wills)と二つの働き(two operations)をもイエズス・キリストの内に認めているのは明らかです。結果として、この教皇は御自身の書簡においてカトリックの真理(Catholic truth)を表明しているのです;彼はただそれを表現する為に用いられた革新的な言葉(the new words)を拒絶するだけであって、こうするのは、ネストリオス主義(Nestorianism)又はエウテュケス主義(Eutychianism)を奨励しているなどと思われない為の慎重さ故であり、セルギウスが周到にこれらの革新的表現を教会内の波乱の原因及びキリスト単性論者たちの正統信仰帰還に立ちはだかる障害物として選定したからであります。
…
セルギウス宛ての書簡を書いた人物であり、この教皇のお考えを他の誰よりも知っていたに違いない、ホノリウスの秘書、ジョンはこの問題についてこう述べています:『私たちが聖主における単一の意志について語る際、彼の二重の本性、つまり神性と人性ではなく、彼の人性のみを思い巡らしており….イエズス・キリストは二つの相反する意志、即ち、罪により私たち自身が経験するが如き、肉体の意志と霊の意志をお持ちでなかったが、彼の人性に関しては、唯一自然の意志(人の意志)しかお持ちでなかったと言っているのです。』
教皇ヨハネ四世は、ホノリウスの言葉に全く同じ意味をお与えになりました。従って、誰も否定した事のない、神の御意志に加え、人の意志をも完璧に告白している事から、セルギウス宛ての書簡にあるホノリウスの教義は、正統な神学の観点から見るなら、非難の余地がない事は極めて明らかなのです。
…[ホノリウスの] 唯一の狙い、しかも非常に称賛すべきであること間違いない狙いとは、革新的な単語の導入を防ぐと共に、異端者たちによる真の教義への帰還を妨げる障害物を一切取り除く事も以て、教会内の平和を維持する事でした。
…
このように、第六公会議の教父たちからのホノリウスに対するあらゆる非難のどれを見ても、実質的に形相的/正式な異端となるものはなく;全ての非難は、イエズス・キリストにおける二つの(意志の)働きに関する教義について沈黙を指示した、セルギウスの忠告に従ってしまった事でこの教皇を訴えるに止まっていました。要するに、この沈黙がもたらすキリスト単意論者たち(Monothelites)の大胆な活動やカトリック教徒たちの盲目的従順が原因で、この誤謬(キリスト単意論)は拡散されましたし、大体において教皇の内に見いだされるべき勇気と気力とによって異端者たちは拒絶され、排斥されるということもなかったのです;しかし只今申し上げた事の中で、この公会議がホノリウスを教会の教義に反するもの(異端)を公言した事で非難(accuse)していない事を皆さまはお分かりです。彼の怠慢(negligence)‐これが彼の犯した罪の全てであり、これが故に彼は非難されたのであって、これが彼に排斥をもたらしたものなのです。
…私はこの排斥を否定致しません;それどころか、たった今私が申し上げた事に基づいてそれを認めます;しかし私は、かなり不明確で、問題の公会議当時においてはなおさらそうだった、異端者(heretic)という言葉を区別致します。この言葉は、異端を承知の上で執拗に公言する者に対してのみならず、対抗措置を講じる義務を自らの責務が負わせる時の沈黙や怠慢によるものであれ、異端者である人々もしくは異端者たちの著書の擁護によるものであれ、それどころか異端者たちとの交流の結果であれ、はては不本意に彼らの教義を承認した結果によるものであれ、如何なる形であるにせよ、この異端に利益をもたらした者に対しても割り与えられました。
…以上の事から、ホノリウスはこれら三つの公会議により異端者として排斥される事は可能でしたし、実のところ彼は異端を説いたから排斥されたのではなく、単に教会の頭としての義務には欠かせない活力を発揮しなかった事、また異端を鎮圧する為に自らの権威を精力的に行使しなかった事、さらに真理の表現方法について沈黙を命じ、その結果として、誤謬拡散の一因となってしまった事により排斥されたのだと私は断定致します。
これは第一バチカン公会議中にこの問題を取り扱われた方々のほぼ全員が行き着いたのと同じ結論であります。ソレムのベネディクト大修道院長(Abbot of the Solesmes Benedictines)のドン・ゲランジェ(Dom Guéranger)はこの問題について、『信徒たちの敬意を要求する、必要かつ教会法に基づく形態をローマ教皇が付与された真の第六公会議は、ホノリウスを単に信仰の遺産(the deposit of the faith)の不忠な守護者として排斥しただけであり、彼自身が異端の信奉者だったとしてではありませんでした。正義と真理は我々にそれを超える事を禁じています。』と述べられました。
以上の抜粋した引用個所は、決して注意深く入念な全文の読書と取って代わるものではないが、我々は皆さまの為の英訳版入手に困難を来たした。再度お知らせするが、ここに全章(第六課)のリンクがある:
● 教皇の首位権と不可謬性:教皇ホノリウス一世の判例 ルイ・ナゼ―ル・ベジェン神父著
この著名な神学校教授であり後の大司教枢機卿(cardinal-archbishop)によるこの学術的説明を読む事に幾ばくかの時間を費やすのを皆さまは後悔しないだろう。
教皇ホノリウス論争を正しく理解する事は、カトリック教義の純正を保ち、歴史的事実を明確にする為のみならず、取り分け公の棄教者をキリストの代理者かつカトリック教会の頭として昇進させる目的でこの論争が他の人々により誤用される事が出来ないようにする為にも今日では極めて重要なのである。次回何者かが、教皇ホノリウスは異端者だった、あるいは幾つかの公会議が教皇ホノリウスを異端者として排斥したという事を皆さまに教えようと試みる時、その時皆さまは歴史的記録を正すのに必要となる攻撃手段を持っているだろう。