セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2014年10月

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 (2014年12月14日アップデート済み)

 *2014年11月2日アップデート済み(特にanathema sit の意味=排斥/破門に注意して下さい!神は災いの為に災いを送る神ではなく、霊魂の回心と救いを期待して自らの教会からの災いなる排除/排斥/破門を行なう神です!この排斥がない場合、霊魂の滅びを期待する悪魔の災いを被ってしまうのは、この破門に値する霊魂と交流し堕落、あるいは棄教するキリスト教徒=カトリック教徒たちです!)



 本日は『ウィリアムソン司教様への回答』のその三を掲載させて頂きます。大変遅くなりました。申し訳ありません。

 ところで、本日の記事をお読みになれば、新旧聖ピオ十世会による「普遍通常教導権」に対する解釈と姿勢が決してカトリックではないと、先入観を持たない読者の皆様方は理解されるでしょう。
 
 特にO神父様、そしてSSPX-Japanの皆様、さらにTrue Trad Japanの皆様、本日の記事を良くお読みになって下さい。「教皇と教会の不可謬性」と「教会の非変節性」を守ろうとすれば、必ず聖ピオ十世会の矛盾した立場に突き当たります。ではどうすれば良いのか?カトリック信仰の完全な擁護という立場を取れば良いのです。そしてそれこそが『Sedevacantism(教皇座空位論)』の立場なのです。


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                                    <>:和訳者補足
 

第三の主張
 

[343号から]

 

 『世の司教たちが、教皇と一致して教える事が、教会の通常普遍教導権であり、それは不可謬です。』とウィリアムソン司教様は正しく述べておられます。それから彼は、第二バチカン(公会議の決定)は、第二バチカンの“教皇たち”と“司教たち”によって公布されたのであるから、彼らが真の教皇たち及び真の司教たちである事は不可能であるというセデヴァカンティストたちの主張を提示します。ウィリアムソン司教様は、第二バチカンとそれに続く数年の普遍通常教導権は聖伝と一致しないと言う事によりこの主張に回答しています。従ってそれは普遍通常教導権ではない。だからセデヴァカンティストたちの主張は間違っていると。<これがウィリアムソン司教様及び聖ピオ十世会の一見正論に聞こえる奇弁です!>

 

回答。普遍通常教導権(通常の言葉順はUOM。これ以降、普遍通常教導権をUOMと表記します。)に対するウィリアムソン司教様のお考えは間違いです。それは、ある教えはもしそれが聖伝と一致しないなら、UOMとしての資格を得ないという、私がいた頃のエコンで一般に広められた理論に基づいています。従って、この観点から見ると、司教たちの全一団と共にいるローマ教皇が、実際に異端的な教義を全教会に教える事が出来ると考えられます。<但し>この様な主張は、それ自体 異端的です。


 

 UOMを篩いにかけるというエコンの考え方は、教義神学の教科書、あるいはカトリック教会の教えの何処にも見出す事が出来ません。ドミニコ会のレジナルド・マリア・シュルツ(Reginald Maria Schultes)神父が1931年に書かれたUOMの定義は次のものです:『通常普遍 教導権は、教会が啓示された教義を説き、独自の学校でそれを教え、司教たちを通してそれを発行し、さらに教会の教父たちと神学者たちによってそれを証明しかつ解説する時に行使されます。』[強勢<=イタリック>は原文通り][1] 全カトリック神学者たちはこの定義で一致しているのです。




 シルヴェスター・ベリー(
Sylverster Berry
)神父はこう書いています

 

 司教たちの 通常の 教権(ordinary teaching authority)は、司牧書簡や、彼ら自身あるいはその目的の為に承認された他の者により伝えられる説教、さらに彼らにより出版されたか、認可されたかした公教要理、もしくは他の教育書籍を通して各々の司教区の信徒に教える事に於いて彼らが行使するものです。このように自らに委ねられた人々(their people:主に教区民)を教育するという義務に従事する教会の司教たちが、実際に信仰、又は道徳に関する教義を公布する事に於いて一致している時、彼らは普遍の教権(universal teaching authority)を行使していると言われ、その時の彼らはこの教義に関して不可謬なのです。言い換えるなら、実際に教会の全司教が同意している信仰あるいは道徳に関する教義は、間違いなく真実なのです。信じる教会の信仰は、教会内の教える一団(teaching body)を構成する司教たちによって提示される信仰と合致しなければなりません。従って、もし団体(body)としての司教たちが不可謬でないならば、全教会は何時でも誤謬へと導かれ、それにより真理の柱にして根拠である、キリストの教会でなくなるかもしれないのです。[2]

 

 

 私の見解をさらに進んで証明する為、フランシス・ダイカンプ(Francis Diekamp)神父により1917年に書かれました 教義神学マニュアル(Theologiae Dogmaticae Manualeと題された教義神学の教科書に貴方<ウィリアムソン司教様>が御払いになっている注意を私は読み上げます。彼は言います:

 

各々の司教は、自らが行なう宗教教育、あるいは自らの命令により、また自らの警戒下で生じるこの種の教育と、教皇によって発布され、文書で与えられる判断の両方に於いて、地方か教区の司教会議(Synods)に於いて、司牧書簡上での誤謬の排斥に於いて、全教区宛に配布される公教要理または信心書の出版などの両方に於いて、前述の通常教導権(ordinary magisterium)を行使します。

 

 司教たち及び特に教皇によって規定される典礼書は、教義に関する議論に於いて非常に重要です。それらに含まれている諸法規、諸儀式形式、さらに諸祈祷は、司牧者たちと信徒たちの信仰を証明します。全西方及び東方教会が信仰について同意しているものに基づいたこの一致から、信仰の同意を与える義務が生じて来ます。教皇セレスティノ一世[422432]はこう教えました:

『さらに司祭たちの祈りの神聖な神秘<御ミサ>も眺めましょう。それは使徒たちから伝承されて来たものであり、全世界と個々のカトリックの教会の中にあって、祈りの法が信仰の法を確立する為に [原文にある強調]、一様に挙行されます。』(書簡21.Ⅱ)

 

 

 まとまった司教たちの教えは、ちょうどローマ教皇によるエクス・カテドラの決定同様に、信じる教会がそれに与える同意により不可謬とされるのではなく;むしろ誤謬から守って下さる神的助け故にそれ自体で不可謬です。[原文にある強調]

 

 

 これらの権威者たちにより詳解される教義は、UOM(普遍通常教導権)の解説と同様に、各カトリック神学者のそれと一致しているのです。その証拠の全てを提示する事は、この記事の領域を超えています。


 

 

 celestinus一方で、ウィリアムソン司教様のUOMに対するお考えは、どのカトリック神学者の著書にも、あるいは教会の教導権にも見つける事が出来ません。UOMに対するウィリアムソン司教様のお考えは、教会の普遍的教えが信徒たちによる分析を受け、さらに聖伝と一致していると裁定されるよう要求するのです。このシナリオに拠れば、聖職位階はどの点においても異端を教える事が全く可能ですが、信徒たちがそれ<普遍的教え>は聖伝と一致していると認めないので、まさにこの教導権の拒絶 により、教会の不可謬性と非変節性(永久性)が維持される事は不可能となります。それは『カトリック教会は、それが間違っている時を除けば不可謬です』と言うのと同様に馬鹿げています。さらに彼のやり方は、聖伝と一致するかしないかという個人的確信に基づき、普遍通常教導権を受け入れるか否か判断するよう信徒たちに要求します。言い換えれば、信徒たちは普遍的教会の教えを、それが語る時は何時でも、真理と誤謬を識別する為に 選別 しなければなりません。上で申し上げた通り、教導権に対するこの様な考え方は、教皇と聖職位階とから権威を奪い、それを個人に移してしまいます。何故なら、個人はこの教義が聖伝と一致するか否かについて決定権を持つからです。

 
 

 ウィリアムソン司教様が聖伝について言われる事は、聖書に帰する事も出来ます。教会の教導権によるある教令は聖書と一致しないと私が考えたらどうなりますでしょうか? その時、この聖書否定の教皇をキリストの真の代理者と見做す間中、私にはそれ<その教令>を否定する権利があるのですか?
 

 
 

恐ろしい現実は、ウィリアムソン司教様のお考えが、主たる近代主義異端者のハンス・キュング(Hans Küng)が 不可謬性とは?ある一つの問い(Infallibility? An Inquiry)と題する1970年の自著の中で述べている事とちょうど符合するという事です。その中で彼は、教会の不可謬性は、実際に誤り得る教義上の決まり文句に結ばれているのではなく、真理に対する教会の全体的かつ長期的な傾倒/固執に結ばれているのだと言っているのです。キュングは明言します:

 
 

 

 従って、本来の意味では不可誤導性(和訳者によるindeceivabilityの試訳:欺かれ得ない性質)である、不可謬性は、 個人的な誤謬によって取り消されない真理に於ける教会の基本的残留 を意味する。[原文にある強調][3]

 

 

 しかし、教会が真実であるのは、完全に確定的である不可謬な諸命題に無条件で依存しているのではなく、あらゆる命題‐間違ってさえいる命題‐に亘って存在する真実における教会の残留に依存している。』[4]

 

 

 彼は公会議に於ける同輩である主要な近代主義者、イヴ・コンガール(Yves Congar)を引用します:

 

 

『教会の一部あるいは他の部分は、司教たちでさえ、教皇でさえ、誤り得ますし、教会は暴風によって揺らぎ得るのです:最後に教会は忠実なままに留まります。』[5]


 

 さらにキュングの著書にあるこの主張は、ウィリアムソン司教様の御立場に酷似しています:

 

 

 『それでは、これらの暗黒時代にあって、教会の非変節性<永久性・不朽性>は一体どこに於いて証明されたのでしょうか?それは聖職位階に於いてでも神学に於いてでもなく、これらの数え切れない‐教会にとって最悪の時代にあってさえ、キリスト教のメッセージを聞き、それに従って信仰、愛、そして希望に生きようとした‐その殆どか無名のキリスト教徒たち‐そこには常に数名の司教がいましたし、彼らの中には神学者たちもいました‐の間に於いてでした。』[6]


 

 『彼らはキリストの真理の真の証し人です . . . [7]


 

 キュングは自身の論点を立証する為に東方離教徒たちを引用します:

 

 

 1848年に、離教徒の総主教たちはピオ九世に宛てて書いている:『私たちの間では、総主教も教会会議(Councils)も、新しい教えをこれまで導入する事など出来ませんでした。何故なら、宗教の守護者とは、まさに教会の身体、すなわち民(laos )そのものだからであります。』[8]


 

 キュングはロシア人離教徒の神学者アレクセイ・ホミャーコフ(Alexei Khomiakov)を引用しています。彼はこう言っています:

 
 

 『キリスト教教義の変わる事なき恒久性と誤る事のない真理は、どの聖職位階にも依存などしておらず;<むしろ>それは全体、つまりキリストの身体である教会の民全体によって守られている。』[9]


 

 私たちは英国国教会の三十九信仰箇条でこう読みます:『エルサレムやアレキサンドリア、さらにアンチオキアにある諸教会が間違った様に、ローマの教会もまた、彼らの聖職禄(living: 聖職に結び付いた教会財産の所領及び奉納物に対する権利‐訳者補足)や諸儀式 の作法に関してのみならず、信仰に関する事柄においても間違った。』

 

 

kungウィリアムソン司教様は、これらプロテスタント異端者たちとの同意を逃れる事が出来ません。何故なら、近代主義の聖職位階がカトリックの聖職位階だと主張する事を以って、彼は『ローマの教会が間違ってしまった』という結論を逃れられないからです。セデヴァカンティスト<教皇座空位論者>は、その一方で、第二バチカンの誤った教えと実践は、ローマの教会から来るのではなく、カトリック聖職位階に成り済ました聖職者ヤクザ、つまり異端者たちの一団から来ると主張します。この危機に於けるカトリック教徒の義務とは、これらの偽者たちの仮面を剥ぎ、偽りの聖職位階として告発する事です。

 

 

 誰かが言う事は何であれ、私たちは教会の聖伝の教えと比較するというのは本当です。私たちは同様に、耳にする事は何でも理性の第一原理(the first principles)と比較し、矛盾するものは直ちに拒絶しなければならなりません。見せかけのカトリック聖職位階が誤った教義をお教え、誤った礼拝と罪になる規律を公布するのを見て来た私たちの事例では、真の教皇たち、又は司教たちが、全体として、このような事をする事は不可能でありますから、彼らが真の教皇と司教たちではないと結論付ける必要があるのです。第二バチカンによる真理からの離脱、さらに普遍教会に対する異端の教えは、パウロ六世が真の教皇ではなかった事の 不可謬な 印であります。何故なら、全ての世界教会会議<公会議>の全権威は教皇に依存しているからです。


 

 

 私が今解説したばかりの教義は聖書と全く一致しており、その中にあるガラツィア人への手紙第一章89で、聖パウロはこう述べています:『しかし、私たちにせよ、天からの天使にせよ、私たちがあなた方に説いた事柄以外の福音をあなた方に説くならば、その者は排斥/破門されよ。かつて私たちが言った様に、今私は再び言う:もし何者かが、あなた方の受けた事柄以外の福音をあなた方に説くならば、その者は排斥されよ。』彼は、正しい教義という欠片(かけら)を選別するために、偽りの教師を篩いにかけるよう彼らに教えているのではなく、その代わりにこの教師を完全に排除するよう彼らに教えている事に注意して下さい。その者は排斥されよ さらにこの教義は、教皇パウロ四世による1559年の大勅書Cum ex apostolatusとも一致しており、それは異端者である事が判ったローマ教皇の徹底的排除を要求していますが、彼の教えの選別など要求していないのです。

 

 

 私の回答を要約します:全世界に広められた、ローマ教皇と共にある全司教たちの信仰と道徳に関する教えである、普遍通常教導権は不可謬であります。この教義は1870年の<第一>バチカン公会議で 決定 され、1917年の教会法(第1884項)に存在します。従いまして、普遍通常教導権により教えられて事柄に疑いを挟む事でさえ異端的なのです。もし普遍通常教導権と思われる事柄が教会の教えと矛盾するならば、その場合の必然的な結論とは、この点<信仰と道徳>について誤りを犯さぬよう(from making errors in this regard)キリストに助けて頂いている<守って頂いている>カトリック教会の真の聖職位階から来得なかったというものです。普遍通常教導権を誤りだとして拒絶すると同時に、それを公布している聖職位階を真のローマカトリック聖職位階だと受け入れる事は教会の性分(the Church’s constitution)に反しています。普遍通常教導権に対するウィリアムソン司教様のお考えは誤っており、それは全教導教会(the entire teaching Church)、すなわち、全司教たちと共にあるローマ教皇は、信仰に関する事柄に関して誤りを教える事が出来ると考えるようカトリック教徒を誘導する事から、非常に危険なのです。それ故に、普遍通常教導権に関するウィリアムソン司教様の原理は、セデヴァカンティズム擁護の主張に対抗して用いられる事など出来ません。何故なら、彼の原理が間違っているからです。



[1]:シュルツ、レジナルド・マリア著、de Ecclesia Catholica Prælectiones ApologeticæParis: Lethielleux, 1931

[2]: Berry, Sylvester, D.D., The Church of Christ, (Saint Louis: B.

Herder, 1927) pp. 466-467.

[3]:キュング著、不可謬性とは?ある一つの問い。Garden City, New York: Doubleday, 1971年)、p. 181

[4]:同書、p. 182

[5]:同書に於ける引用、p. 183

[6]:同書、p. 189

[7]:同書。

[8]:同書に於ける引用、p. 200

[9]:同書に於ける引用、p. 201


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 『Sedevacantism(教皇座空位論)』の引越しが完了致しましたが、どうやら画像のインポートに失敗したようです。幸い、これまで掲載してきた重要な翻訳文書は、全て無事だったようです。ブログ人解約前に全記事をファイル化しておいて助かりました。可能なら、近い将来に『Sedevacantism (教皇座空位論)』のアーカイブ用ホームページを作成しようかと考えています。インポートに失敗した画像は、様子を見ながら、最度それを必要とするページに貼付して行きます。

Veritas liberabit vos! より 

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2016年12月17日アップデート済み


 聖霊降臨後第十八主日の聖伝ミサを御視聴になりたい方は、こちらを21時半以降に訪問してみて下さい。  今月19日に閉会する家族に関する司教会議の結果を受けて、聖伝主義者を自称する人々はそろそろ教皇座空位論が正論であると理屈の上では理解されるでしょう。あくまでも理屈上では。しかし常に心情的にカトリック信仰に例外を設けようとする人間の堕落した本性は、通称カトリック教会による正式な「離婚の合法化」「同性愛者の結婚合法化」「離婚者及び非合法な再婚者による聖体拝領の許可」等は、この複雑な時代からみて致し方ないかも知れないと自分に言い聞かせて、思考を自ら停止するでしょう。ちょっとお待ちください。カトリック信仰と道徳は、時代の流れによって変わるものなのでしょうか?カトリック教会の非変節性/永久性/不朽性は我々が信じるべきカトリック教義です。それなら自称聖伝主義者の皆様、特に旧聖ピオ十世会日本人司祭であるO神父様、神父様がもしカトリック司祭であられるならば、どうかその時、カトリック教会は教義上の変化を受けない、つまり教義を変えないと主張して、近代主義ローマ行きの死臭漂う滅びの列車から信仰のダイビングをして下さい。神がO神父様を無傷でお守りになるでしょう。そして真のカトリック司祭として、この日本に存在する少数の自称聖伝主義者たちを司牧して下さい。そして『ローマにいるフランシス一世は、それでも私たちの教皇なのです!』などという妄言をお吐きになりませんように。司教会議から公式に発表される決定は普遍通常教導権です。もし神父様がカトリック教徒であるならば、それに従う義務があります。しかし、この決定がカトリック信仰と道徳に反していると、カトリック信仰と道徳に基づいて、理解されるならば、その時は、「ローマは棄教している。それは正に反キリストの座であり、教皇座は空位である!」と判断されますように!そしてその判断の後に、「それでもローマはカトリックなので . . . 』という堂々巡りの奇弁を御始めになりませんように!カトリック教会は霊魂にとって有害な事柄を『公布』する事が出来ません。ビルアルトの主張した公の異端者教皇説などというものは、不可謬な普遍通常教導権である教会法188条第4項と真っ向から矛盾するものです。同教会法の原則は「公の異端者となった全ての聖職者は、教皇も含め、自らの職務を自動的に喪失する」と教えているのです。

 このビデオを特にO神父様に紹介させて頂きます。ルフェーブル大司教様の聖ピオ十世会が取る似非カトリック的態度を鮮明に理解されると思います。問題は御会による「教導権」に対する解釈と態度です。あなた方は教導権の決定を是非するのではなく、それに従う立場にあるのです。そしてもし、提示された教導権の決定がカトリック教義に反するならば、それはカトリック教会とその権威者たちから公布されたものではない、という結論を出す事こそがカトリック的態度なのです:










 数日中に『ウィリアムソン司教様への回答 その三』を掲載致します。時間と体力(と能力)上の理由から、翻訳が遅れておりますが、決して中断したわけではありませんのでご心配なく。本ブログ記事の読者の皆様には心から感謝しております。どうかもう少しお待ちください。


 Veritas liberabit vos!より
 



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