敬愛する聖ピオ十世会司祭方、特にO神父様、及び同会賛同信徒の皆様に、本日はカトリック教会から天使的博士と讃えられる聖トマス・アクィナスの「列聖」に関する言葉を贈ります。O神父様、神父様は何の為に司祭になったのか良くお考え下さい。神父様を今のままの状態でいるよう励ます信徒たちは、真の愛徳から行動していません。これは事実です。ただ神父様が今まで以上に世に知られる事を望み、また多くの人に聖ピオ十世会をただ認知してもらいたいだけです。信仰は二の次なのです。教皇がカトリックだろうが非カトリックだろうがどうでも良いのです。
しかし、もし聖ピオ十世会がフランシス一世を真のカトリック教皇だと認めていると明言されるのであれば、今回の列聖に関する一切の批判を止めてヨハネ二十三世とヨハネ・パウロ二世の崇敬をしなければならないのだと言うことを考えて下さい。真のカトリック教皇は、近代主義者という異端者にして、フリーメーソンであったヨハネ二十三世と、アシジの棄教集会を司会し、全ての宗教は救いの手段である(Catechesi Tradendae, n.32) と教えたヨハネ・パウロ二世を列聖する事など不可能です。よって今回の列聖は偽ものであり、それを行なった教皇とその教会も偽者となります。つまり教皇座は空位であり、ローマの権威者たちは正統なカトリック教徒ではありません。それでは、天使的博士の次の言葉をお読み下さい:
15a9300d.jpg 試訳: 我々が聖人たちに払う敬意は、ある意味に於いて信仰宣言、つまり聖人たちの栄光に対する信仰の宣言である事から、これ(列聖)に関しても同様に、公教会は間違わないのだという事を我々は敬虔に信じなければならない。(Quodlib. IX, a. 1, 6)
原文:“Puisque les honneurs que nous rendons aux saints sont dans un certain sens une profession de foi, c.-à-d. une croyance en la gloire des Saints, nous devons pieusement croire qu’en cette matière également l’Eglise n’est pas sujette à l’erreur.”