セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2013年09月


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 "Allelúja, allelúja. Sancte Míchæl Archángele, defénde nos in prælio: ut non pereámus in treméndo judício. Allelúja."

  『アレルヤ、アレルヤ。 大天使聖ミカエル、恐るべき審判に当たって我らが滅びぬよう、戦いに於いて我らを守りたまえ。アレルヤ』 (管理人試訳)

 

 

 

 大天使聖ミカエルの大祝日の聖伝ミサを視聴されたい方はこちらを20時頃からチェックして下さい:

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追伸、

 ef8fb6f1.jpg       バチカン市国を大天使聖ミカエルに奉献するという口実で用いられた同大天使の像は、どう見ても聖ミカエルのものとは思えません。しかもこのミカエルが手にする槍は足下のルチフェルを貫いていないという事です:http://www.traditioninaction.org/RevolutionPhotos/A540-Michael.htm

 素肌を露にした美男子の像に大天使聖ミカエルを重ねる事が私には出来ません。この像は、二名の自称教皇たちに共通する美的嗜好を表現しているのでしょうか?聖天使のセミヌードとも言える像は、どう考えても同聖天使への不敬と思えてならないのですが。もちろんこれは私の個人的意見です。私なら、崇敬する天使や聖人のセミヌードを身の回りにおきません . . .

一聖伝信徒より

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 聖霊降臨後第十八主日の聖伝ミサを視聴されたい方は、20時以降こちらを御覧下さい:

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 O神父様によるセデヴァカンティズム批判/讒言(ざんげん)をお読みになられた方は次の事をご存知でしょうか?通常このテーマを扱う際に、聖ピオ十世会はある共通した典拠に助けを乞います。典拠となる著書等を執筆した方々の中には、例えば、カプチン会のカール・プルヴェルマルシェ神父(Fr. Carl Pulvermacher)、聖ピオ十世会のドミニク・ブレ神父(Fr. Dominque Boulet)、アヴリエの聖ドミニコ会士たち、そしてノヴスオルド保守のブライアン・ハリソン神父(Fr. Brian Harrison )、さらにマイケル・デイヴィス氏や『教皇職擁護:セデヴァカンティストの企てに反対して(Defending the Papacy: Opposing the Sedevacantist Enterprise)』なる小冊子を出版したニュージャージーの弁護士、クリストファー・フェララ氏も含まれています。

 ところで、上述した反セデ執筆家たちの主張は、どれも論駁されています。特に、弁護士のフェララ氏による虚言と誤解が織り交ぜられたセデヴァカンティズム論駁ならぬ讒言は、セデヴァカンティスト司祭、アンソニー・チェカダ神父により見事に一蹴されました:http://www.traditionalmass.org/articles/article.php?id=66&catname=14。しかし、そうとは知らない人々、あるいはそうと知りつつ自らの過ちを認めようとしない人々は、彼らの主張を持ち出してセデヴァカンティズムを空しく批判します。この不正直な批判も、時にセデヴァカンティズムに関して無知な信徒を宥(なだ)めるには十分なのです。この様に宥められた信徒の中には、残念ながらO神父様も含まれているのです。

 ところで、私がO神父様にさせて頂いた質問の内、幾つか回答を頂いていないものがあります(それについては後日言及する予定です)。何故でしょう?私が思うに、O神父様は回答を避けた、つまり回答すればセデヴァカンティズムの正当性を自ら立証する事になると知り避けたからです。O神父様、もし回答を避けたのではないならば、もう一度回答を頂いていない私の質問に答えて下さい。しかしそうする事は、O神父様御自身と、御自身の所属する聖ピオ十世会の不正直な立場を曝け出す事になります。

 最後に、O神父様によって公になされたセデヴァカンティズム批判に対する論駁記事は、上述した執筆家たちの反セデ主張に対する論駁が中心となると考えています。典拠となっている誤謬を粉砕する事は、それを信用しかつ引用する人々の誤信を粉砕する手っ取り早く合理的な方法だと考えるからです。では今しばらくお待ち下さい。論駁記事掲載までには、幾つものささやかな日常コメント的記事を掲載する事になるとは思いますが、どうかそれをお許し下さい。

 一聖伝信徒より

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 聖マリアの七つの御悲しみの大祝日の聖伝ミサ視聴をご希望の方はこちらを20時頃から御覧下さい:

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 「聖母月」と言えば、通常私たちは五月を思い浮かべるでしょう。しかしカトリックにとっての聖母月とは9月であって、この月の間、私たちは4日の『聖母のご誕生』、12日の『聖マリアの御名』、15日の『聖母の七つの御悲しみ』、そして24日の『贖虜(しょくりょ)の聖マリア』とを祝います。聖母マリアの祝日に満ちた9月こそが、5月以上の聖母月なのです。これについての興味深いラジオ番組があります。エコンでルフェーブル大司教様から司祭叙階されたドナルド・ドーラン司教様のお話です:http://www.blogtalkradio.com/restorationradio/2013/09/11/true-restoration-xxvii-the-month-of-our-lady

 

 最後に本祝日のミサ中に歌う続唱『スタバト・マーテル(母は立っていた)』を紹介致します:



 追伸、

 『1968年の司教聖別式:それはやはり無効である 』のPDFファイルを添付しておきます。プリントアウトした方が読み易いという方はこれをご利用下さい:「japanese_the_1968_rite_of_episcopal_consecration.pdf」をダウンロード 

 この神学論文は公会議教会とその聖職位階の現実を理解する上で非常に重要なものの一つです。これと合わせて①『聖伝主義者、不可謬性と教皇』と②『抵抗と非変節性』もお読み下さい:

「japanese_traditionalists_infallibility_and_the_pope.pdf」をダウンロード

「resistance_and_indefectibility_in_japanese.pdf」をダウンロード


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2017年7月22日アップデート済み


 フランシス一世を名乗るベルゴリオ氏によると、『無神論者が救われる為には神を信じる必要などなく、ただ自分の良心に従っていればそれでいい!』そうだ!ではカトリック宗教の必要性は何処に?今棄教しても、自分の良心に従っていれば救われる?ならばカトリック教徒である必要などないのでは!?読者の中にはこの様な考えを抱く方もおられるでしょう。しかし悪魔的な開放感にときめいてはなりません!この人物の言葉をカトリック教皇の言葉として受け入れてはなりません!カトリック信仰に改心する事なくして、無神論者は救われないのですから。第一戒:『我は汝の主なり、我を唯一の天主として礼拝すべし。』の放棄こそ、フランシス一世がここで暗に教えている事なのです。

 公然の/明らかな異端者でも教会の頭(教皇)を務める事が出来るとO神父様は、スコラ神学の大家であり、かつ岩下壮一神父様の師でもあったガリグ・ラグランジュ神父様を引用し<たつもりで>、明言されました。しかし同神学者の著書にそのような主張を見出す事など不可能です。偽造しない限り、無い物を見出す事など出来ません。また、教皇を名乗るこの人物の今回の発言は、カトリック教義に於ける変節を証明するかのようです。しかし、カトリック教義は変節し得ない故に、このような発言をする人物は真の教皇であり得ません。つまり教皇座は偽物により占拠されています。これは陰謀論ではなく、神学的結論です。

 掲載したビデオの最後で、ベルゴリオ氏は『もし聖主を探し求めるゲイがいれば、彼を裁く私は一体何者だろうか?』と主張しています。ゲイを憐れむふりして滅びへと導く。これが実際に彼がやっていることです。


典拠記事:http://edition.myjoyonline.com/pages/news/201309/113153.php



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 2013年ワールドユースデイ(世界青年の日)で行なわれたロックコンサート、ではなく、“公会議教皇ミサ”のビデオを紹介致します。もちろんこれはカトリック教皇のミサではありません。ゴスペルシンガーたちの如くに心酔状態で体をくねらせ、ポップ風の聖(ならぬ俗)歌に一同が酔いしれる公会議教会のロマンチックな聖餐式。この様なミサを承認し、現代人の改心に役立つと判断する公会議教会の聖職位階は、真のキリストの教会のそれではありません。典礼憲章の誤解では、という理屈はもはや通用しません。これが公会議教会の目指す典礼刷新であり、そこでは神よりも人間が中心であり、人間の感性に神は従属しなければならないのです。 世界統一政府の宗教の儀式とはこういうものでしょう。これを見て、気分が悪くなるようならば、未だに『信仰の感覚』というものが貴方の霊魂に内在している証拠だと思います。

典拠:http://www.novusordowatch.org/wire/index.htm#.Ui7fEPSCjIU

追伸、

 「これがカトリック教皇のミサではないというならば、真の教皇ミサを見せてくれ!」という気持ちを抱かれる方の為、そして上のビデオを観て、悪夢から目覚めたばかりの気分に悩まされている方の為に、典拠でも紹介されている、本ブログでは再掲となりますが、教皇ピオ十二世の捧げる真のカトリック教皇ミサを紹介致します:

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 童貞聖マリアの御誕生日おめでとうございます。

 本ブログのこれからの掲載予定の記事をお知らせ致します:

1:聖ピオ十世会日本人司祭、O神父様によるセデヴァカンティズム批判文に対する論駁記事。

2:当論駁文に用いた参考文書の和訳掲載。

 以上となります。

 さて、真実を述べるに当たり、時に私たちは偽りを述べたり、道徳に反する人々を非難する義務があります。もちろんそれは、神殿に於いて神の御前に遜(へりくだ)りつつ、その許しを請う人々を軽蔑し、非難するファリサイ人の如き態度であってはなりません。真のカトリック教徒として、セデヴァカンティスト(教皇座空位論者)は、神学的に真正の教皇ではない公会議教皇たちを、彼らが説いた誤謬と共に非難します。

 もし彼らを真のカトリック教皇と認めるならば、誤謬を『公布』する事の出来ない、つまり公に誤謬を教える事の出来ない教皇から来る公の教令に従わなければなりません。聖ピオ十世会の理屈はこの点で多くの矛盾を孕んでいます。よく教導権行使のレベル/程度と言いますが、それは教皇権の種類のことであって、何%の教導権を行使するかどうかという理屈ではないのです。公に教皇が何かを教える時、例え彼が教導権の行使をしなかったと主張しても、そこには必ずどこかに教導権の行使が伴います。よって彼らが真の教皇だと認めるならば、彼らから来る教義、規律等に完全に従う義務がカトリック教徒にはあるのです。その反対に、これまでの教導権と矛盾する公会議教皇たちを真の教皇ではないと神学的に判断するセデヴァカンティストたちは、彼らとの交流を一切持ちません。カトリック教徒は公会議教徒とは無縁だからです。この原則に基づき、私たちセデヴァカンティストたちは公会議教皇を非難します。彼らの発言を恰も真の教皇からの発言と認めつつ称賛し、また一方で非難することはしません。教皇を偽る彼らの行動は非難にしか値しないからです。泥棒が防犯を訴えるようなものです。例えば、同性愛を認め、同姓愛カップルによる養子縁組を認めたといわれる:http://www.novusordowatch.org/wire/leonardo-boff-on-bergoglios.htmフランシス一世、公会議教皇による『聖母の汚れなき御心への奉献話』や『シリア戦を阻む為の犠牲と断食への招き』などは、私たちカトリック教徒の称賛に値するわけがありません。この様な気まぐれを称賛する方々は、その一方で同一人物の教皇としての公の発言や行動を非難するのです。フランシス一世は、自分のためにロザリオの霊的花束を捧げる復興主義者(聖伝主義者)を、恩寵に関する異端である『ペラギウス主義的風潮だ』と非難する事によって、聖母が聖ドミニコを通して公教会にお与えになった信心業を異端業と見做しています:http://www.novusordowatch.org/wire/francis-counting-rosaries.htm。聖ピオ十世会が何と言おうと、公会議教皇は真の教皇ではあり得ません。それはルフェーブル大司教様でさえ、完全に否定する事の出来ない事でありました。1974年に彼は言っています:『私は彼(パウロ六世)が教皇ではないとは言いません。但し、彼が教皇ではないと言う事は出来ないとも言いませんJe ne dis pas que le pape n'est pas pape, mais je ne dis pas non plus qu'on ne peut pas dire que le pape n'est pas pape. )』と。神学的に彼らが教皇ではない事は知りつつも、心情的に彼らが教皇であって欲しかったわけです。そしてカトリック神学にではなく、心情に従ってしまいました。自分の創立した修道会がカトリック教会の一部であると認めてもらう為に。しかし、彼の相手はカトリック教会ではなく、公会議教会、つまり近代主義に染まった公会議教会、言い換えれば反キリストの教会だったのです。個人的心情ではなく、カトリック神学に従っていたならば、彼は同僚のデ・カストロマイヤー司教様やゲラール・ド・ロリエ司教様たちと共に、セデヴァカンティズムを、カトリック教徒の生き残りの為に、受け入れたはずなのです。

 これから掲載する拙くも全力を注ぐ論駁文は、O神父様のみならず、聖ピオ十世会の立場にある間違いを暴露すると信じています。さらに、真のキリスト教徒、つまりカトリック教徒である為には、セデヴァカンティストの立場を選ばなければならず、それなくして、カトリック教徒としての義務を全うする事など出来ないのだと読者の皆様が理解される事を祈っています。

 一聖伝信徒より

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 2015年7月12日アップデート済み

 『1968年の司教聖別式:それはやはり無効である』の和訳が完了しました。これが最終回です。拙い翻訳文ですから、理解に時間がかかるとは思いますが、どうか忍耐してお読み下さい。

 また本日は聖母マリア様の誕生日でありますので、当ミサの入祭唱[Salve Sancta Parens]を紹介致します。また本日の聖伝ミサを視聴されたい方は、下に添付した画面を20時以降に訪問してみて下さい。
 

************************


. アルヴァロ・カルデロン神父
 




 最初の論説で、ピエール・マリー神父は別の東方典礼の原文、つまりコプト派典礼の司教聖別の為の序唱を、第二バチカン後の<司教聖別>儀式の有効性の証拠として挙げました。“確実に無効である”の中で、パウロ六世が本質的な秘蹟形相に指定した文は、実際のコプト派の形相と同じで ない と私は指摘しています。私の論説に対するカルデロン神父の異論は取り分けこの問題に焦点をあてているのです。
 





A. コプト派の形相対パウロ六世の形相。
 




1. 誤った比較? 私の行ったコプト派の序唱全体とパウロ六世の<聖別>儀式内の“形相的‐有効な(formal-effective)”文と彼が呼ぶものとの比較は、誤っており不当だとカルデロン神父は主張しています。





 比較が正当である為には、a)コプト派の序唱内の“形相的‐有効な”文を特定し、それをパウロ六世によって指定された“形相的‐有効な”文と同一視するか、あるいはb)コプト派の序唱全体を、 “形相的‐有効な”文を取り巻いているパウロ六世の聖別の祈り<聖別祈祷>全体とを比較するかのどちらかが必要となるでしょう。[1]







 回答:

 





 コプト派典礼について:1898年のコプト司教会議(The Coptic Synod of 1898)は、司教聖別の為の形相を特定しました:“この形相は、叙階司教(聖別を行なう司教)が司教受任候補者(司教に聖別される候補者)に按手する間に唱える実際の祈り”[2]であって、教皇レオ十三世はこの司教会議の制定(acts)を承認しています。[3]



 <ですから>レオ十三世が“形相的‐有効な(formal-effective)”文として承認したもの以外に見る必要はなどどうみてもありません。
 





 新しい儀式<司教聖別式>について:パウロ六世自身、この儀式<司教聖別>の本質に属する“形相的‐有効な”言葉を特定しました。[4]





 このような言葉は、必要とされるもの 全て を必然的に含んでおりますので‐つまり、当然(by definition)これらの言葉は不可欠であるのみならず十分でもある事から‐、ここでも、同様に、比較を行なうに先立って、パウロ六世による聖別の祈り<聖別祈祷>全体に目を通す必要などどうみてもないのです。[5]






2
:省略された統計? カルデロン神父は、コプト派の序唱にある340語の大多数が新しい聖別の祈りの残りの部分に見出される事をこの私が指摘していないと主張します。[6]





 カルデロン神父は単に誤解しているだけです。私は “<司教聖別の>新しい<秘蹟>形相を取り巻いているパウロ六世の序唱はコプト派の形相に見出される多くの表現を含んでいます”[7]とはっきり申し上げました。






3.
承認と誤解。カルデロン神父は次の主張をしています:“(新しい聖別式に於いて形相的‐有効な表現と見做される表現に相当する)コプト派儀式の恐らく‘形相的‐有効な’表現は、新しい聖別式のそれより短いものであり、その結果、それが、仮により長くない場合、等しく曖昧なものです。”[8]






 この論説のもっと後のところで、カルデロン神父は
 “諸序唱の形相である言葉は、聖伝のローマ典礼儀式(Roman rite)においてすら、一般的に、やや曖昧で漠然としており”、“ローマ当局(Romans)は、当儀式文の曖昧さに気付いている”[9]と主張しているのです。





 二つの事柄が、上述の主張について仰天させてくれます:

 





 カルデロン神父は、新しい本質的な秘蹟形相が“曖昧”であるとはっきり主張しています。つまりこの主張は、新しい形相が、ピオ十二世の要求したものとは違う、不明瞭な ‐つまり曖昧な‐形相だと認めているのです<二重否定表現の簡略化の為の意訳>。





 しかしそうする事でカルデロン神父は、上のように神学的に四角い丸に相当するもの(the theological equivalent of a square circle‐実際に存在し得ないもの)を肯定的に仮定しました。どの秘蹟形相も、定義上“曖昧”であり得ないのは、仮にそれが曖昧であり得た場合に、それは<事柄を> 意味 しなくなるからです。
 





B. 新しい形相の文脈
 





 カルデロン神父は、新しい形相の有効性を保証する為に、この形相の文脈に注目させました。彼は言います:



“この文脈は序唱だけに縮小され得ないことから非常に広いものであり、全儀式が考慮されるべきです。”





 聖別と犠牲<いけにえ>に関する あらゆる 考えを英国国教会の叙階式から取り除く事に関するレオ十三世の言及からの引用文に基づき、カルデロン神父は次の原理を推定しています:もしこの儀式<聖別式>の残りの部分に“聖別と犠牲が関係している(were involved)”ならば、この儀式は“一貫性(consistency)”を持つだろう。[10]






 回答:
 





 カルデロン神父は‐これらの不明瞭な言葉が何を意味していようとも‐“一貫性”をもたらす“関係”に関する御自身の原理を立証する為に何一つ 典拠を引用 していません。





 しかしながら、カルデロン神父は文脈から自ら議論を 組み立て 得る核心に辿り着きさえしなかったのです。彼は、諸品級(Holy Orders)の為の<助祭、司祭、及び司教の権能を授ける司教聖別の為の>秘蹟形相にピオ十二世が要求した両要素:つまり品級の権能と聖霊の恩寵をこの新しい形相が‐曖昧に でも‐含んでいる事を論証しませんでした。
 





 新しい形相が“間違いなく有効な東方典礼に於いて使用されている”事を立証する事に於けるピエール・マリー神父とカルデロン神父の無力は、私たちを一直線に 統治する霊(Spiritus principalisという言葉へと連れ戻してくれます。それは実際に何を意味するのでしょうか?





 アンスガール修道士は、何らかの認識可能な聖伝カトリック神学原理に基礎を置いた回答を組み立てる事が出来ませんでした。またピエール・マリー神父とカルデロン神父は、そうしようとさえしなかったのです。
 





 しかしこの問いに対する回答は、 “確実に無効である”の中で私が論証した様に、 統治する霊 は、実際に何一つ正確な意味を 持たない というものなのです。それは少なくとも 十二の 異なる事柄の一つを意味する事は出来ます。
 





 それらの中には聖霊があって、これは新しい形相の文脈で恐らく意味しているものなのです。実際、それを巡る議論が起きる前、新しい儀式<新しい司教聖別式>の主要な作者であったドン・ボットは、統治する霊 を含む一節を、単に“聖霊に対する祈願(the invocation of the Holy Ghost)”[11]と呼んだだけでした。
 





 しかしこの表現に対する多くの意味の中に、私たちは品級の権能(potestas Ordinis)を見出しません。この 統治する霊 は、如何なる意味に於いても品級の秘蹟を 曖昧にさえ 表しておらず、まして司教職(the Episcopal Order)を構成する司祭職の充満という意味に於いてそれ<品級の秘蹟>を表していないのです。
 





 これ無しでは、ピオ十二世の規定された二つの必須要素の一つは欠けますので、パウロ六世の聖別式にある本質的な秘蹟形相は明らかに無効なのです。“文脈”は、それがどれほど“広”かろうとも、全く存在してもいない言葉を“明細に述べる”事など出来ません。
 





 この問題をもう一度要約すれば:新しい司教聖別式の有効性に関する議論は、聖別式の本質的な秘蹟形相<聖別式に欠かせない秘蹟形相>‐つまり秘蹟儀式の中で秘蹟の効果を生じさせるのに必要かつ十分な言葉‐に集中するという事になります。
 





 司教聖別の新しい儀式に於いて、この形相は 品級の権能(the power of Orderを明瞭に表現していません。秘蹟倫理神学の一般原則(the general principles of sacramental moral theology)に拠れば、それは上のように、諸品級の為の形相(a form for Holy Orders)中に要求される要素の一つ<品級の権能>を欠いており、それ故に無効です‐つまり司教職を授ける事が出来ないのです。
 





 従って、この新しい儀式によって聖別された司教たちは、真の司教たちの有する秘蹟的権能を欠いており、さらにこの様な司教たちにより叙階される司祭たちは、真の司祭たちが有する秘蹟的権能を欠いている事から、司祭の特質(sacerdotal character)に懸かっている、彼らの授ける秘蹟は無効であり、彼らのミサに与る信徒たちは単にパンを礼拝し拝領するだけなのです。
 





 単に . . . パンを . . .
 





200719 


[1]:“Validié(有効性)”、213214;“Validity . . . Replies(有効性 . . . 諸回答‐試訳) ”、42-43



[2]:引用されているフェリックス. カッペッロ(F. Capello)著、De Sacramentis(ローマ、マリエッティ1951年)4732.“In collation trium ordinum majorum . . . forma est ipsa oratio quam ordinans recitat, dum manus ordinando imponit.



[3]Epistola Synodales Vestrae Litterae, 1899425日、Leonis XIII P.M. Acta 18教皇レオ十三世、公文書18‐(1899年)、43-44



[4]ローマ教皇の認可(Pontidicalis romani recognitio, 372, 373: quaenam in ritu ad naturam rei pertinere dicenda sunt,”“ad naturam rei pertinent, atque adeo ut actus valeat exiguntur.”



[5]:その上、新しい儀式の典礼法規は、 “共同聖別をする”‐従って理論上この秘蹟を同様に授ける‐司教たちが、本質的な 形相を唱えるどころか、聖別の祈り<聖別祈祷>全部をただ唱えるだけと規定している。パウロ六世著、司教、司祭及び助祭の叙階について(De Ordinatione Episcopi, Presbyterorum et Diaconorum, ed. typ. Alt.(ローマ:ポリグロ‐Polyglot1990年)、16,25番。



[6]:“Validié”、214;“Validity . . . Replies”、43



[7]:“確実に無効である(Absolutely Null)”、5



[8]:“Validié”、214;“Validity . . . Replies”、43



[9]:“Validié”、215;“Validity . . . Replies”、44



[10]:“Validié”、215:“もし仮にこの儀式の残りの部分に於いて聖別と犠牲が話題にされる<言及される>なら . . . . si dans le reste du rite il était question de consécration et



sacrifice….”;“Validity . . . Replies”、44



[11]:“司教の叙階<聖別>”、ラ・メゾン・ディュー(La Maison-Dieu971969年)。122123。“聖霊に対する祈願”;“儀式文の一部、つまり聖霊に対する祈願を含んでいる部分を、不可欠な部分として指定した(on a désigné une partie de la formule, celle qui contient l’invocation à l’Esprit Saint, comme partie essentielle. 

 

典拠:「NuEpConObjex.pdf」をダウンロード


和訳:「japanese_the_1968_rite_of_episcopal_consecration.pdf」をダウンロード



*************************

Salve Sancta Parens (めでたし聖母よ):

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 聖体礼拝が行なわれていますので、どうかお時間のある時に訪問してみてください。世俗との接触により想像出来ぬほどに疲労した霊魂の癒しはここで確実に頂けると思います。ちなみ、御存知のない方の為に、御説明しますが、聖主の御身体(聖体)は、祭壇中央にある箱の様に見える聖櫃の真上に顕示されています。金色の聖体顕示器が見えるでしょうか?その中に聖主は現存されます。

 聖アルフォンソ・ド・リゴリオ作であると思われる『聖体を訪(と)い奉る時の祈り』をご紹介致します:

****************

 我が聖主(しゅ)イエズスよ、聖主は人々を愛し給うにより、昼夜聖体の秘蹟(ひせき)にましまし、憐(あわ)れみと慈(いつく)しみとに満ち溢(あふ)れて人々を招き、全て聖主を訪(と)い奉る者を恵み給(たも)う。

 ▲ 我この聖体の秘蹟に聖主の真にましますことを信じ、平伏(ひれふ)して聖主を礼拝し、また全て我に施(ほどこ)し給いし御恩(ごおん)、特にこの秘蹟を以(も)って御身を我に与え、聖母マリアを我が代祷者(だいとうしゃ)となし、かつ今、われを聖主の御前(みまえ)に招き給えるを感謝し奉る。

 我いま御恵みに感じ、慈しみ深き聖心(みこころ)を恭(うやうや)しく礼拝し、一には聖主がこの聖体の秘蹟を定め給いし御恵みを謝(しゃ)し、二には聖体の秘蹟に於いて全ての敵より受け給いし辱(はずかし)めを償(つぐの)い、三には聖体の秘蹟のうちに聖主を敬い認めざる人々に代わりて聖主を拝(おが)み奉らんとす。

 ▲ 我が聖主イエズスよ、我が一心に聖主を愛し、今までしばしば限りなき聖主の慈しみに背(そむ)きしを悔(く)やみ、聖寵の助けによりて、この後聖主に背くまじと決心し奉る。

 我は我が身を全く聖主に献(ささ)げ、心をも愛情をも希望をも持ち物をもことごとく聖主に委(まか)せ奉る。

 ▲ 願わくは、今より我と我が全てのものとにつき聖旨(みむね)のままに計らい給え。ただ聖主を愛し、死するまで耐え忍びて、聖旨を成就せんことを願い奉る。また煉獄の霊魂を救い、特に聖体と聖母マリアとを厚く尊(とうと)みたる者を救い給え。憐れなる罪人にも御慈悲の御眼(おんまなこ)を注ぎ給え。つに我が愛情を、聖主の聖心の愛情に合わせて、これを永遠の御父に献(ささ)げ、聖父(ちち)のこれを受け入れ給わんことを、聖主の聖名(みな)によりて願い奉る。アーメン。

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 今夜「元駐ドミニカ共和国バチカン大使、ヨゼフ・ベゾロフスキ大司教の解任」劇について報道がなされておりますが、当“大司教”についての非常に簡潔な補足説明を箇条書きでさせて頂きます:

1:1948年、誕生。

2:1972年、1968年の新しい司祭叙階式により叙階(よって彼の司祭職は、疑わしく有効)

3:2000年、1968年の新しい司教聖別式により聖別(よって彼の司教職は、確実に無効)

4:2013年、児童への性的虐待に関与した疑いにより教皇大使を解任される。

典拠:http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bweso.html

 *今回の報道を受けてカトリック教会非難に傾いている読者の皆様へ。ヨゼフ・ベゾロフスキ氏はカトリック司教ではありません。

 一聖伝信徒より

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