セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2013年03月

 御復活の主日の聖伝ミサを視聴ご希望の方はこちらを:

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御復活に当たり、ある考えが浮かびました。陰謀論と信仰にどんな関わりがあるのか?という疑問を持つ方がおられます。陰謀論を扱う方として有名なのが、聖伝界ではウィリアムソン司教様です。ただ、この司教様が陰謀論を扱う目的はしばしば正しく理解されていません。彼は秋田の巡礼中、私たちに言われました:『現実に対する感覚を失うと、人々は容易く欺かれる。50年代の米国カトリック教会は、自由主義の侵入した教会の現実に対する感覚を持っていなかったが為、外面的に美しく、力強いが変質するカトリック教会に気が付かなかったのです。それが原因で、人々は容易に第二バチカン公会議を受け入れました(大方こう言う内容です。何方か、この講話を録音されておられたら私に分けて下さい)』 この司教様が911311に於ける陰謀を語る時、それが信仰と無関係でない事は、天主の十戒からも理解する事が出来ます、それはつまりカトリック者と無関係ではない事が分かります。天主の十戒の第四戒では『汝、父と母を敬うべし』と天主は命じております。両親のお陰で、私たちはこの世に生を受けたのであり、この両親に対する孝愛は、一歩進めて考えれば、自分の祖国や国の指導者(私は強調します。合法的に選出され、国民の共通善の実現を意図している指導者です)などに対する孝愛にも及ぶのです。そしてこの祖国が何らかの危険に晒されていることを、陰謀論を通して知る時(マスコミはそれについて沈黙するか、それを知らされていません)、祖国に対する愛から、それを暴き、声を上げ、何らかの策を講じるのは、人間として当然の事であり、それは天主の十戒を守る事にもなるのです。つまり信仰あるカトリックとして当然の行動となり、それは十戒という神法と、危険を避け、悪を防ぐという自然法とに適う行為となります。マスコミの報道が一切信用出来ないこの世界にあって、この世界の現実を理解するには、整合性ある陰謀論を参考にして、その対策に当たるのは当然であり、祖国の安泰と愛する家族の幸福の為に尽くすという第四戒を守る事になります。ウィリアムソン司教様による陰謀論言及には、現実に対する感覚の鈍った聖伝カトリック教徒に対する警告が多々含まれています。それを理解させるには、世界中で進行中の陰謀に言及するのが人々の理解を助けることになると彼はお考えなのだと私は考えています。しかし多くの信心深いカトリック教徒は、彼の意向を正しく理解する事が出来ず、単に賢明さを欠く(時に不賢明ではあった事もありますが)陰謀論者として一蹴してしまいます。そんな状態にあっても、天主の御摂理は働いており、全てはこの摂理の内にあります。しかし、危険に臨んで何もせず、天主により頼み、ただ起る事を甘受すればいいという『静寂主義』と勘違いしてはなりません。何のための警察なのか?何のための軍隊なのか?本来、警察、軍隊、病院、介護は天主の御摂理を妨害する為にあるのでしょうか?一例を挙げます。痴呆症の老母が、車の走り抜ける道路に立ち入ろうとするのを見て、『全ては天主の摂理の内にあるから、信仰を持って成り行きを見届けよう』と言って放っておくのは、愛徳と正義、第四戒にも反する、非常識極まりない反理性的な行為ではないでしょうか?これは神法にも自然法にも反する殺人行為です。仮にその様な事件が起き、トラックのドライバーが急ブレーキを掛けて止まり、『おばあちゃん、何してるの?危ないよ!』と言ったとして、傍らで成り行きを見ていた、この老母の子供がドライバーに対し、上の言葉:『全ては天主の摂理の内にあるから、信仰を持って成り行きを見届けようと思ったのです。車に轢かれればそれも摂理!轢かれなければそれも摂理です!運転手さん、貴方はこの摂理の中にあるのです。だから放っておきました。そんなに怒らないで下さいね!』と言ったならば、この運転手さんはどう考えるでしょうか?カトリック教徒は非常識な社会人ではなく、常識的な社会人なのです。マスコミが真実を伝えないという現実を悟れないマスコミファンは別として、それを悟ることの出来るカトリック教徒は、信仰に関して現実的でなければならないように、世俗的な事柄に関しても現実的であるべきです。ラッツィンガー神父(ベネディクト十六世)は、公に『イエズス・キリストの御復活』及び『世の終わりに起る肉身の蘇り(the Resurrection of the body)』を否定しています:

 

キリスト教入門(Introduction of the Christianity)、 p. 349:

 

 今や、復活に対する信仰の真の本質は、肉身の蘇りという考えに少しもない事、そして私たちがそれ(復活)を自らの思考の中でそれ(肉身の蘇りという考え)に変えてしまったのだということがはっきりします。これ(復活)は聖書の至るところで用いられている絵で表した表象ではありますが、それが(思考の産物というのが)実情なのです-試訳。<やや曖昧な訳となりましたが、結局のところラッツィンガー神父は、肉身の蘇りという信仰箇条を否定しています>

 

It now becomes clear that the real heart of faith in the resurrection does not consist at all in the idea of the restoration of bodies, to which we have reduced it in our thinking; such is the case even though this is the pictorial image used throughout the Bible.

 

 信仰箇条である『肉身の蘇り』を現実に否定する人物を教皇だと考える行為は、信仰の精神の為せる業でしょうか?現実に対する感覚を失い、現実を無視する方の信仰にとって、この矛盾も信心深い行為なのかもしれません。但し、「現実に対する感覚の必要性」を強調したウィリアムソン司教様でさえ、公に異端を教える教皇が職務を喪失するというカトリック神学の教えを現実のものとして捉えられないという弱点もあります。これはルフェーブル大司教様から受け継いだものです。父親というものは、大罪を犯しても、父親のまま留まる。これが彼らの理屈です。しかし教皇の場合、この理屈を適用する事は不可能です。もしそんな事になれば、「教皇の不可謬性」も「公教会の非変節性」も保たれなくなるからであり、天主はそれをお許しに成り得ません。ウィリアムソン司教様は文書で私に言われました:『私はベネディクト十六世が教皇だと信じるからこそ、彼を教皇と見做します。』と。彼の公然の異端、無効の司教聖別、アシジⅢの企画及び司会という冒涜を見ても、彼は教皇であり続ける。これは間違いです。先ず公の異端者はカトリック教徒ではなく教皇選出の資格を有しておらず、無効の司教聖別は司祭職の充満を受けていないので、司祭叙階及び司教聖別をする権能も持っていません。仮に彼が有効な教皇であったとして、聖主イエズス・キリストの御復活及び世の終わりにある肉身の蘇りを出版物を通して公に否定し、アシジⅢを企画、司会しておきながら、大罪を犯した父親が父親のまま留まるように、教皇として留まる事は不可能なのです。それが現実というものです。この程度までの現実は認めるが、これ以上は願い下げです!これでは棄教の時代をどう生き残るのでしょうか?カトリック教徒によるこのような姿勢が、世俗的な事にも見られます。それを、ある程度まで、陰謀論を通して警告して下さったのがウィリアムソン司教様なのです。しかし彼は教皇座の空位を、現実に即して、信じていないのです。従って、自己矛盾に気付きながら右往左往しておられます。

 

 追伸:

 

 311の地震を海底核爆発で惹起する事は不可能であるという一部の科学者だけの証言に基づいて、否定する方々が多く見られます。しかし、このような方々は、太平洋戦争中に起きた、愛知県半田での不可解な地震(東南海地震)について御存知ないようです。当時、既に米国は人口地震の技術を持っていました。彼らは1930年代からこの計画実現の為に、研究していたのです。半田地震についてはNHKでさえ特集を組んでいます:

 

http://www.youtube.com/watch?v=AKeH9lRIG4M

 

 番組の初めに登場する名古屋地方気象台に保存されている昭和19127日にの東南海地震の地震波グラフを御覧下さい。P波(初期波:Primary Wave)から最大値に達する地震というものは自然地震ではありません。この事実を何故多くの御用科学者は語ろうとしないのか?かつてある聖伝ブログに『チャンネル桜』という似非右翼番組に度々救世主のように出演する学者が、311の地震は通常爆弾の数千倍(数万倍)のものだという記事が掲載され、その終わりに『日本の原発はこの地震を耐えた。つまり日本人は化石燃料の尽きようとしている今、原発を受け入れるかどうか「神に」試されたのだ。頑張れ日本!(大方この様な文章)』という愚かな発言をしていました。さて、原爆、水爆の何千倍の威力を生み出す技術というものは決して不可能ではないのです。海底に数千メートル掘削し、その穴に小型核を投下する事でそれは可能だと考えられています。海底掘削船の乗組員はユーチューブのビデオの中で、自分たちの任務の一つとして、海底を掘削して、地震を人口的に起こし、地震波を計測する事があると発言していました。海底数千メートルまで掘削し、そこに海水が流入する事により、大きな圧力がマグマ層まで達し、核融合反応の前段階と呼ばれるプラズマ状態が生まれるそうです。この状態を誘発させて、そこに小型核を投下/発射する事によって、通常の原爆/水爆の何千倍の爆破も可能となります。さらに言えば、3・11の地震は、一度に三つの大きな地震が連発するという観測史上前例のない事が起きました:

http://www.youtube.com/watch?v=MqHqVOycqJo 

 この中で「この様な複雑な形で地震が起るというのは極めて稀で、少なくとも我々は初めてで御座います」と気象庁のスポークスマンは言っています。総論否定する方は、先ず御自分の力で調査する事をお勧めします。

 さて、米国は太平洋戦争前から人工地震の技術を研究していました。1930年代、米国はニュージーランド沖で海底爆破による人工地震を試み、30メートルの津波を生み出す事に成功しています。この計画はプロジェクト・シール(Project Seal)と呼ばれています。上で紹介したNHKのビデオに登場する俳優、土屋嘉男さんの証言をお聞き下さい。米国は広島、長崎への原爆投下の前に、既に海底爆破による人工地震攻撃計画を持っていたのです。「地震の次は何を御見舞いしましょうか?」というB29からまかれたビラを読んで土屋氏は驚愕したようです。地震の被害を受けなかった日本国民さえ知らされていなかった東南海地震について米国が知っていたからです。ちなみに彼は自然地震だと考えているかもしれません。しかし名古屋地方気象台にある東南海地震の地震波グラフは、それが人工地震であった事を科学的に証明しています。

 

 現実を認めたがらない、あるいは現実からどうしても目を背けたい人々は、信仰の領域に於いても、矛盾に身を委ね、仕舞いには近代主義のローマとの合意も悪くない、これも天主の御摂理じゃないか、と考えてしまうかもしれません。現実を見極める知性は天主から人間に与えられています。どうして人はそれを使って、カトリック教会と世界の現実を見ようとしないのか?

 

 長くなりました。思いつくままに書かせて頂きました。現実を知ろうとしない霊魂は虚偽の中に留まるので、真のカトリックとして信仰の証しは不可能となります。それでは、良き御復活節を!

 

 

 

一聖伝信徒より

 

 

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 我らの聖主イエズス・キリストの御復活おめでとうございます。『復活の主日』の御ミサ中に歌われる昇階唱 Heac Dies 今日こそ、聖主のつくり給うた日である‐詩篇117、24.1)の紹介をもって、先ずは聖主の復活の喜びを皆様にお伝え致します。

 

 

 

一聖伝信徒より

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 いよいよ聖週間が始まりました。聖主イエズス・キリストの御受難を黙想する事さえ儘成らないこの私の脳裏に、かつて耳にしたことのあるバッハ作曲の『マタイ受難曲』が思い浮かびました。この曲が聖土曜日までの連載記事のようなものです。聖土曜日までブログの更新は控えさせて頂きます。

 聖主の御復活を待ち望みながら . . .

一聖伝信徒より

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「枝の主日」の聖伝ミサを視聴されたい方はこちらを御覧下さい:

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 自由主義に犯された人物を、何がなんでも、教皇だと言い聞かせる行為は、『自由主義とカトリック教義の和解』を試みること、又は『ある人物に於けるカトリック教義と自由主義の共存』を弁護する自由主義的過ちです。

 ところで、ニューヨークタイムズによれば、ジョルジュ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(フランシス一世)は、2010年の司教会議に於いて「アルゼンチンの教会は、同性婚(Gay Marriage)を支持する」という極めて非倫理的な解決策を弁護したということです:http://www.nytimes.com/2013/03/20/world/americas/pope-francis-old-colleagues-recall-pragmatic-streak.html?hp&_r=1&

 仮にこの記事が真実であり、この考えを公に破棄しないならば、カトリック道徳教義を否定する公の異端者という理由から、彼は教皇であり得ません。

枝の主日に

一聖伝信徒より

 

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 聖主イエズス・キリストの御受難の主日です。本日の挽課で歌われるVexilla Regis (王の御旗)と共に、幾つか情報を提供させて下さい。

 将来この日本に聖主の御旗が掲げられる為にも、日本人はTPPに隠された真実を知るべきです(TPPがそのゴールであるNWOに道を開いてしまえば、この日本もまたそれに統合され、聖主の御旗がこの国に掲揚される事は不可能となるからです。TPP⇒NWO=反キリストの支配)。特に聖伝信徒は、日本という国の為に、「自民党こそ私たちの支援できる政党だから!」などという無知かつ夢想家的な態度を捨てて、この事実を弁えた上で、祈るべきです。

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1)TPP(Trans Pacific Partnership)=TGP(Trans Global Partnership)又はTWP(Trans World Partnership)への道=NWO(New World Order)

2)安部総理を支援するネオコン団体『がんばろう日本、国民協議会』の旧名称=『マルクス主義青年同盟』 

3)米国政府を牛耳るネオコン=トロツキスト=世界共産革命論者

(参考資料:http://sedevacant-hodie.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/12/post_5a6e.html

4)日本のマスコミが称賛する自民党総裁=ネオコン米国の走狗=トロツキストの走狗

5)TPPへの参加を急ぐ安部総理=NWOの建設を急ぐトロツキストの走狗

安部(偽)総理よ、君、国売り給うことなかれ!

以上は思いつくままに書き出した事実であって、三段論法ではありません。

 聖主の御受難の主日前日に、聖主はこの私にも素晴らしい恩寵を下さいました。日々の仕事に追われ、信仰生活については後回しにしがちだった私に、四旬節という重要な時期を想起させて下さったからです。ああ聖母よ、ローマに現れた公会議教会の教皇は、もちろん御身の淨配聖ヨゼフの取次ぎにより選出されたのではありません。マスコミさえも、このローマをカトリックのローマとして報道しますが、それは彼らに取って信仰などどうでもいいことだからです。しかし聖伝信徒は、信仰を捨てたローマをカトリックのローマと見做すという過ちを犯してはなりません。どうか御身の御取次ぎによって、一人でも多くの霊魂が「棄教したローマ」を非カトリックのローマと見做す事が出来るよう恩寵を与えて下さい。

一聖伝信徒より

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 先日の記事に於いて、フランシス一世の教皇選出は無効だと断言しました。この断言をするに当たり、私は彼が1992年に受けた司教聖別の無効性をその理由として取り上げましたが、これを訂正し、かつお詫び致します。御存知の方もおられるでしょうが、教皇に選出される権利は枢機卿だけに限定されていません。厳密には理性の働きを有する一般信徒でさえ、その権利を有しています。この観点から、もしもジョルジュ・マリオ・ベルゴグリオ(Jorge Mario Bergoglio)師が、聖伝信仰を守る一般信徒であったならば、彼も教皇に選出される資格を有している事になるのです。では、私はこの記事に於いて、Habemus Papam! と断言しようとしているのでしょうか?いいえ、それは違います。私の訂正ポイントは、彼が教皇選出候補になり得ない、彼が固執する第二バチカン公会議の宣言及び教令への信仰なのです。彼は有効な司教でないから教皇とはなり得ない、とはもう言いません。しかし、エキュメニズムを信仰する第二バチカン公会議に固執した異端者として、彼は教皇になり得ないと今回断言するのです。さらに、今回のコンクラーベのメンバーであった枢機卿方も同様に異端者であって、彼らに有効な教皇選出は不可能である事も付言します。 

 以下に、教皇選出の資格に関する、数名の著名な神学者たちの見解を紹介致します。注意していただきたいのは、一般信徒の教皇選出が行なわれても、彼は教会の裁治権を行使する事が可能なだけであり、司祭叙階、司教聖別等の秘蹟の授与をする権能を持っていません。その場合、彼は有効な司祭叙階と司教聖別を受ける必要があるのです: 

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Austin Dowling: “Though since Urban VI none but a cardinal has been elected pope, no law reserves to the cardinals alone this right. Strictly speaking, any male Christian who has reached the use of reason can be chosen, not, however, a heretic, a schismatic, or a notorious simonist.” (Conclave, 1914 Catholic Encyclopedia)

 

 

 

オースティン・ダウリング:『ウルバノ六世以降、一人の枢機卿だけが教皇に選出されたが、如何なる法もこの<教皇に選出される>権利を枢機卿のみに保留しない。厳密に言うならば、理性の働きに達した男性のキリスト教徒(カトリック教徒)であれば、誰でも選出され得る、しかしながら、異端者、離教徒、あるいは周知の聖職売買者は選出され得ない。』(コンクラーベ、1914年カトリック大辞典)

 

 

 

William H. Fanning: “A layman may also be elected as pope, as was Celestine V. Even the election of a married man would not be invalid. Of course the election of a heretic, schismatic, or female would be null and void.” (Papal Elections, 1914 Catholic Encyclopedia)

 

 

 

ウィリアム・H・ファニング:『一般信徒もまた、チェレスティノ五世同様に、教皇に選出され得る。既婚男性の選出は無効ではない。もちろん異端者、離教者、もしくは女性の選出は、無効となる。』(教皇選出、1914年カトリック大辞典)

 

 

 

Caesar Badii: “The law now in force for the election of the Roman Pontiff is reduced to these points: […] Barred as incapable of being validly elected are the following: women, children who have not reached the age of reason, those suffering from habitual insanity, the unbaptised, heretics and schismatics.” (Institutiones Iuris Canonici,1921)

 

 

 

チェザール・バッディ:『ローマ教皇の選出に現在有効な法は以下の点に凝縮される:[]有効に選出される資格を欠く者として、次の者は除外される:女性、理性の年齢に達していない子供、常習的な精神病にかかっている者、未受洗者<未信者>、異端者及び離教徒。』(教会法諸法令、1921年)

 

 

 

Maroto: “Heretics and schismatics are barred from the Supreme Pontificate by the divine law itself, because, although by divine law they are not considered incapable of participating in certain type of ecclesiastical jurisdiction, nevertheless, they must certainly be regarded as excluded from occupying the throne of the Apostolic See, which is the infallible teacher of the truth of the faith and the center of ecclesiastical unity.” (Institutiones Iuris Canonici, 1921)

 

  マロト:『異端者と離教徒たちは神法それ自体によって教皇職から締め出される、何故なら、確かに神法によって、彼らはある種の教会裁治権に参与する資格を欠いていると見做されないにしても、やはり、信仰の真理の不可謬な教師にして、教会一致の中心である、使徒座の教皇聖座を占める事から除外された者と確かに見做されなければならないからである。』(教会法諸法令、1921年)

 

一聖伝信徒より

 

 

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 Non habemus papam!  

 フランシスコ一世を名乗るジョルジュ・マリオ・ベルゴグリオ(Jorge Mario Bergoglio)神父は、1992年に『新しい司教聖別式』によって司教になっています。つまり、彼はこれまで決して有効な司教でも枢機卿でもありませんでした。以上!

 フランシス一世については追って詳細を説明させて頂きます。取りあえず、昨日「Rorate Caeli」に掲載されたフランシス一世に関する記事を原文で紹介致します:

http://rorate-caeli.blogspot.com/2013/03/the-horror-buenos-aires-journalist.html

 第二バチカン公会議以降、教皇座は空位です。そろそろ目を覚ます時ではないでしょうか!

一聖伝信徒より

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 本ブログは政治ブログではないのですが、日本に於いてタカ派として知られる安部総理が、TPPへの参加を表明することを受けて、どうしても一言申し上げたくなりました。このタカ派を装った極左米国に従順、かつ統一教会の偽装右翼組織「勝共連合」からもバックアップされている似非保守政治家に、かつて御本人が小沢一郎氏に対して投げ掛けた言葉を繰り返します:

『君、国売り給うことなかれ!』

 マスコミがなかなかその正体を明かそうとしないTPPの実態を詳細に説明している海外のビデオを紹介します:http://www.youtube.com/watch?v=HLVKAalmD48

 因みにSSPXによる棄教したローマとの合意交渉への参加と、日本によるTPPへの参加には共通点があるように思えます。参加する主体が破滅に追いやられると言う事です。

 一聖伝信徒より

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