もしカトリック聖職位階が棄教し、天主を裏切れば、その結果は明らかでしょう。恩寵は途絶え、彼ら聖職位階の多くは棄教ゆえに職務を喪失し、そこは霊的に不毛な宗教団体、あるいは「偽りの教会」となり、ちょうど日食時の太陽の様に、「真の公教会」は月の様に暗いこの「偽りの教会」によって覆い隠される事になります。そしてこれがラ・サレットの聖母が言われた『公教会は覆い隠される』の意味であると考えられるのです。そうです、これは単に公教会の認可が付いた御出現ではありますが、余りにも的確に現代の公教会の状態を描写しています。
ところで、将来、時間の許す限り翻訳をして、皆様に紹介したい記事があります。それは、第二バチカン公会議以降に起きた秘蹟の新しい儀式(形相と質料の変更)によりもたらされた秘蹟の無効性に関する記事です。第二バチカン公会議をベースにして、カトリシズムを語る時、それはちょうど、医師免許のない人間が、何も知らずにやって来た患者に対してもっともらしい診断行為をするのに似ています。「もっともらしい」と私が申し上げるその理由とは、この偽医師にも医学的知識が多少はあるからなのです。しかし彼は無効な医師であって、本来なら罰されるべき犯罪者と言えます。ただ問題は、この偽医師が思い込みによって、自分は本当に医師だと信じている場合です。あるいは偽(非カトリック)の医師免許を取得している場合です。カトリック司教と言われる人々に関して申し上げますが、第二バチカン公会議以降、新しい儀式により聖別された司教たちは、司教ではありません。つまり彼らの受けた司教聖別は完全に無効なのです。そして偽りの司教が授ける司祭叙階は当然の事ながら、無効となります。それを熟考するならば、この様な聖職者たちに、霊魂の医師としての聖務を果たす事が許されるのかという疑問が生まれます。その答えは、No! です。仮に彼らが聖トマスの神学大全を持ち出して、もっともらしい本来のカトリシズムを語ったとしても、彼らは単にエキュメニストなのです。そしてこのエキュメニスト的思考と行動こそが、キリストの教えの完成だと見做しています。このような偽診断行為の一般化は、第二バチカン公会議から起りました。聖ピオ十世会聖職者は言われるでしょう「いや、新しい司教聖別は有効である!」と。しかし、その司祭会司祭であり元アメリカ管区長であったピーター・スコット神父様はこの司教聖別を疑問視し、論文を書いています。ちなみに、この司祭は今回の司祭会総会で打ちたてられたローマとの合意条件に対して公然と苦言を呈したがために、アフリカに左遷されたと情報を得ています(どうでしょうか?)。つまり組織理論を優先すれば、時に真実を述べる少数派は左遷、あるいは追放、さらには「離教的」又は「離教者」だと讒言されるのです。しかし何故「離教者なのか?」と聞けば、何一つ神学的説明をする事が出来ません。そして信徒方も、この質問をする知識を持たないか、単に人間的な愛着からある司祭に繋がっているので、ただ彼を無意味に弁護する事となるのです。間違いに堅忍するよう弁護又は激励するのです。これは不倫関係に陥った家庭のある男性に対し、「貴方は誠実で尊敬する人よ。あなたは私のもの。誰にも渡さない。」と迫って罪の関係を保とうとする女性に似ています。では「どうして彼が誠実で尊敬に値する人のなのか?」と問えば、まともな返事は帰って来ないでしょう。そこには感傷的な、又は肉的な愛情しか存在せず、それがこの二人を繋ぎとめているからなのです。この関係は誠実で、尊敬に値するのでしょうか?私はそう思いません。信仰も同じです。間違いに気付いているならば、間違いを犯し、それを正当化しようと躍起になっている司祭及び司教方に「それはおかしい。どうみてもおかしい。」と言う勇気が必要です。私が聖ピオ十世会から身を引いたのは、まさにこれが原因でした。信仰を完全に守り、それを生きる為でした。何度も耳にした陰口が嫌いだから(確かにそれは嫌いでした)、テーブルの上に放置されていた持ち主の分らないバームクーヘンを持ち帰り用のお菓子の袋と一緒に手渡されたからではありません(当人は善意でそうしたのでしょう)。またある大きなチャレンジに失敗したからではありません。この様な非カトリック的な行動を聖ピオ十世会のサークルで体験したからではないのです。この程度の人々はどんな世界にも存在するからです。私が何を言っているのか、分る人には分るでしょう。
さて、話が「第二バチカン公会議が教えた信仰の様に」逸脱していましました。そういう訳で、棄教した教会はカトリック教会ではなく、この教会から誕生した新しい司教と配下の聖職者は真のカトリック聖職位階ではあり得ず、彼らには、洗礼を除いては、霊魂に聖成の恩寵を注ぐ秘蹟を授ける事など出来ないのであり、それゆえ霊魂を救う事が出来ません。ですから、この教会を執拗に弁護するという事は、霊魂にとって無益であるどころか有害なものを弁護する事になるのです。そして彼らに出来る事は、覆い隠されているカトリック教会の権威失墜の継続です。この主張がバランスを欠いていると判断されるとしたら、それは第二バチカンのエキュメニズム思想や信教の自由という異端説に心酔しているからだと理解願います。もうこの辺で眠りから覚め、真のカトリック信仰を知り、生きる時だと思います。その為には「正直」な心が必要になります。あの極左自民党を見て下さい。総選挙直前にはTPPや原発には反対すると主張しながら、不正選挙によって胡散臭い大勝利を博したその直ぐ後で、それを撤回したのです。カトリックは極左のように行動すべきではありません。公教会は霊魂に有害なものを与える事が出来ません。もしそれが起ったとすれば、それはカトリック教会がカトリック教会ではないものに乗っ取られてしまったからです。そして「秋田日記」様が言われている昨今の教会の閉鎖等ですが、これらはもともと存在していた秘かな棄教が正式に公認された第二バチカン公会議の結果として花開いたのです。カトリックが棄教すれば、それに伴って似非キリスト教もそれと似た道を辿ることになるのは極自然の成り行きだと思います。真ともな親と教師がいなくなれば、まともな子供と生徒は存在しなくなるでしょう。再度申し上げますが、この上述した内容とローマにある教会の現実を認めるには正直な心が必要となります。
思いつくままに書かせて頂きました。
一聖伝信徒より