セデヴァカンティズム(教皇座空位論)

ラ・サレットの聖母の御保護の下、カトリック教会の現状について情報を発信します。現ローマは反キリストの座!!!  

2012年12月

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 もしカトリック聖職位階が棄教し、天主を裏切れば、その結果は明らかでしょう。恩寵は途絶え、彼ら聖職位階の多くは棄教ゆえに職務を喪失し、そこは霊的に不毛な宗教団体、あるいは「偽りの教会」となり、ちょうど日食時の太陽の様に、「真の公教会」は月の様に暗いこの「偽りの教会」によって覆い隠される事になります。そしてこれがラ・サレットの聖母が言われた『公教会は覆い隠される』の意味であると考えられるのです。そうです、これは単に公教会の認可が付いた御出現ではありますが、余りにも的確に現代の公教会の状態を描写しています。

 

 ところで、将来、時間の許す限り翻訳をして、皆様に紹介したい記事があります。それは、第二バチカン公会議以降に起きた秘蹟の新しい儀式(形相と質料の変更)によりもたらされた秘蹟の無効性に関する記事です。第二バチカン公会議をベースにして、カトリシズムを語る時、それはちょうど、医師免許のない人間が、何も知らずにやって来た患者に対してもっともらしい診断行為をするのに似ています。「もっともらしい」と私が申し上げるその理由とは、この偽医師にも医学的知識が多少はあるからなのです。しかし彼は無効な医師であって、本来なら罰されるべき犯罪者と言えます。ただ問題は、この偽医師が思い込みによって、自分は本当に医師だと信じている場合です。あるいは偽(非カトリック)の医師免許を取得している場合です。カトリック司教と言われる人々に関して申し上げますが、第二バチカン公会議以降、新しい儀式により聖別された司教たちは、司教ではありません。つまり彼らの受けた司教聖別は完全に無効なのです。そして偽りの司教が授ける司祭叙階は当然の事ながら、無効となります。それを熟考するならば、この様な聖職者たちに、霊魂の医師としての聖務を果たす事が許されるのかという疑問が生まれます。その答えは、No! です。仮に彼らが聖トマスの神学大全を持ち出して、もっともらしい本来のカトリシズムを語ったとしても、彼らは単にエキュメニストなのです。そしてこのエキュメニスト的思考と行動こそが、キリストの教えの完成だと見做しています。このような偽診断行為の一般化は、第二バチカン公会議から起りました。聖ピオ十世会聖職者は言われるでしょう「いや、新しい司教聖別は有効である!」と。しかし、その司祭会司祭であり元アメリカ管区長であったピーター・スコット神父様はこの司教聖別を疑問視し、論文を書いています。ちなみに、この司祭は今回の司祭会総会で打ちたてられたローマとの合意条件に対して公然と苦言を呈したがために、アフリカに左遷されたと情報を得ています(どうでしょうか?)。つまり組織理論を優先すれば、時に真実を述べる少数派は左遷、あるいは追放、さらには「離教的」又は「離教者」だと讒言されるのです。しかし何故「離教者なのか?」と聞けば、何一つ神学的説明をする事が出来ません。そして信徒方も、この質問をする知識を持たないか、単に人間的な愛着からある司祭に繋がっているので、ただ彼を無意味に弁護する事となるのです。間違いに堅忍するよう弁護又は激励するのです。これは不倫関係に陥った家庭のある男性に対し、「貴方は誠実で尊敬する人よ。あなたは私のもの。誰にも渡さない。」と迫って罪の関係を保とうとする女性に似ています。では「どうして彼が誠実で尊敬に値する人のなのか?」と問えば、まともな返事は帰って来ないでしょう。そこには感傷的な、又は肉的な愛情しか存在せず、それがこの二人を繋ぎとめているからなのです。この関係は誠実で、尊敬に値するのでしょうか?私はそう思いません。信仰も同じです。間違いに気付いているならば、間違いを犯し、それを正当化しようと躍起になっている司祭及び司教方に「それはおかしい。どうみてもおかしい。」と言う勇気が必要です。私が聖ピオ十世会から身を引いたのは、まさにこれが原因でした。信仰を完全に守り、それを生きる為でした。何度も耳にした陰口が嫌いだから(確かにそれは嫌いでした)、テーブルの上に放置されていた持ち主の分らないバームクーヘンを持ち帰り用のお菓子の袋と一緒に手渡されたからではありません(当人は善意でそうしたのでしょう)。またある大きなチャレンジに失敗したからではありません。この様な非カトリック的な行動を聖ピオ十世会のサークルで体験したからではないのです。この程度の人々はどんな世界にも存在するからです。私が何を言っているのか、分る人には分るでしょう。

 

 さて、話が「第二バチカン公会議が教えた信仰の様に」逸脱していましました。そういう訳で、棄教した教会はカトリック教会ではなく、この教会から誕生した新しい司教と配下の聖職者は真のカトリック聖職位階ではあり得ず、彼らには、洗礼を除いては、霊魂に聖成の恩寵を注ぐ秘蹟を授ける事など出来ないのであり、それゆえ霊魂を救う事が出来ません。ですから、この教会を執拗に弁護するという事は、霊魂にとって無益であるどころか有害なものを弁護する事になるのです。そして彼らに出来る事は、覆い隠されているカトリック教会の権威失墜の継続です。この主張がバランスを欠いていると判断されるとしたら、それは第二バチカンのエキュメニズム思想や信教の自由という異端説に心酔しているからだと理解願います。もうこの辺で眠りから覚め、真のカトリック信仰を知り、生きる時だと思います。その為には「正直」な心が必要になります。あの極左自民党を見て下さい。総選挙直前にはTPPや原発には反対すると主張しながら、不正選挙によって胡散臭い大勝利を博したその直ぐ後で、それを撤回したのです。カトリックは極左のように行動すべきではありません。公教会は霊魂に有害なものを与える事が出来ません。もしそれが起ったとすれば、それはカトリック教会がカトリック教会ではないものに乗っ取られてしまったからです。そして「秋田日記」様が言われている昨今の教会の閉鎖等ですが、これらはもともと存在していた秘かな棄教が正式に公認された第二バチカン公会議の結果として花開いたのです。カトリックが棄教すれば、それに伴って似非キリスト教もそれと似た道を辿ることになるのは極自然の成り行きだと思います。真ともな親と教師がいなくなれば、まともな子供と生徒は存在しなくなるでしょう。再度申し上げますが、この上述した内容とローマにある教会の現実を認めるには正直な心が必要となります。

 

 思いつくままに書かせて頂きました。

 

 

一聖伝信徒より

 

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 仕事に追われブログを更新出来ない状態でありますが、就寝前に一言申し上げさせて下さい。『第二バチカン公会議の教令と宣言はカトリック信仰の棄教です。』と。よろしければバックナンバーである『聖伝主義、不可謬性と教皇』等をお読み下さい。第二バチカン公会議を元にカトリックを語る事に、大きな悲しみと危惧を抱きます。

一聖伝主義者

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聖主イエズス・キリストの御降誕、おめでとうございます!!!

 

Hodie Christus natus est,

 

 hodie Salvator apparuit!

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 そのころ、チャザル・アウグストから、天下の人を戸籍につかせよとの詔(みことのり)が出た。この戸籍調べは、クィリノがシリア総督だった時に行なった調べの前であった。それで人々はみな、名を届ける為に各々の故郷に帰った。ヨゼフもダヴィドの家系で、またその血統なので、既に懐胎していた許婚(いいなずけ)のマリアと共に、名を届ける為に、ガリレアの町ナザレトからユダヤのダヴィドの町ベトレヘムという所に着いた。そこにいる間に、産期満ちて、マリアは、初子(ういご)を生み、布に包んで馬槽に臥させておいた。旅館(はたご01836595.jpgや)に、いる場所がなかったからである。この地方に野宿して、夜、群を番していた羊飼いらがあった。聖主の御使がその傍らに立ち、聖主の栄光がその周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。天使は彼らに言った、「恐れるな。見よ、人民一般に及ぶ大いなる喜びを、貴方たちに告げる。今日、ダヴィドの町で、貴方たちの為に救い主が生まれ給うた、これは聖主キリストである。貴方たちは、布に包まれ、馬槽に置かれた嬰児(みどりご)を見るであろう、これがその徴(しるし)である。」 たちまち、夥しい天の軍勢が天使に加わり、神を賛美し、「天のいと高き所には神に栄光、地には善意の人々に平和」と言った。(ルカ2114;毎日のミサ典書参照)

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 50d7c7fa.jpg
 聖ヨゼフと聖マリアを除けば、人類初の聖主の礼拝者となった羊飼いたちが、聖ヨゼフと聖マリアの見守る聖主イエズスを礼拝し、別れの挨拶を告げる情景を表現した『聖家族への羊飼いたちの別れ(The Shepherds' Farewell to the Holy Family)』(エクトール・ベルリオーズ< Hector Berlioz>作詞・作曲)を紹介致します。この羊飼いたちは、私にとって最も身近な模範です。

 

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 1917年に起きたロシア革命の首謀者であったウラジミール・レーニン、カール・マルクス、エンゲルスら革命家たちと、今や米国政府に住み着いているネオコンたちには同じ民族性、つまり同根があることは(あるブログのコメント欄で)既に説明しました。これについて語り過ぎる事は人種差別という誤解を招くので先ず申し上げておきます。私は人種差別の観点から以下の内容を書くのではないと。私には、この民族の血が流れる恩人がいます。つまり私はこの民族を告発するのではなく、この民族の一部である人々が信奉しているシオニズムの完成とも言える「新世界秩序」確立の遂行者を告発しているのです。テオドール・ヘルツルの提唱したシオニズムが、ユダヤ教とは無縁な、無神論のユダヤ民族国家の建設を目的としている事を皆さんは御存知だと思います。そしてこの思想は、第一に共産主義という形態を取って、多角的に遂行されたと私は仮定しています。そして一国社会主義というスターリン主義に対する幻滅から、この思想は後にネオコンという形態を取ったのです。これについても既に説明しました。ベネディクト十六世も奨励している「新世界秩序」、あるいは「世界統一政府」とは、トロツキストが目指す、世界革命を経た、社会主義国家でもあって、結局シオニズムとトロツキストたちが目指しているものとは、無神論的ユダヤ民族による反キリスト的国家の建設なのです。これは一般に大イスラエルと呼ばれています。ロシア革命の背後にユダヤ人革命家がいた事を証明するビデオを紹介します:http://www.youtube.com/watch?v=DQf98abYSTs。このビデオに登場する革命家たちの後継者たちが、現在米国、そしてイスラエル政府を牛耳っているのです。実は今回の総選挙の不可解な結果も、これらネオコンという名のトロツキストたちの傀儡たちによって捏造されたと考える事は決して非現実的ではないと思います。何故、自民党総裁と維新の会党首たちは、スターリン主義の中国にここまで挑発的発言を繰り返すのでしょうか?何故憲法9条を改定し、戦争の出来る国家にしたいのでしょうか?彼らトロツキストたちは、国民の敵であるのみならず、カトリック教会の敵でもあるのです。選挙に纏わる一連の記事が、決してカトリック教徒に無縁でない事は理解して頂けると期待します。

 

一聖伝信徒

 

 

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 不正選挙に関して最新情報があります。日本未来の党の藤本利久氏が、近く公職選挙法に基づいて訴訟を起こす事となりました。マスコミ各位には、「アセンション」あるいは「次元上昇」というニューエージ思想、あるいは「マヤ暦の予言」などという空虚な話題の報道に時間を費やさず、国民にとって重要な第46回総選挙の背後で行なわれた可能性が大である不正行為について報道する事を期待します。ネオコン又はトロツキストである自民党と維新の会等の大勝利は、カトリック教徒にとっても看過の出来ない事柄です。これに関して納得の行かないという方は、12月13日の本ブログ記事をお読みください:http://sedevacant-hodie.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/12/post_5a6e.html

 ところで本日の記事は、エクレズィア・デイ支持者方の立場を鮮明に描写しています。公教会の現状を悟り、それについて語る時、多くのノヴス・オルド信徒には受け入れ難いものがあるでしょう。しかし受け入れるべき現実とは、ノヴス・オルドはカトリックではないという事なのです。そして恩寵なき教会には、人間本性を完成する事が出来ません。

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B. 前述した基本原理のそれぞれ異なる<三>体制への応用

 

 

 

1. エクレズィア・デイ解決策。前述の諸原理を基にして、これは少しも解決策ではないという結論を読者は容易に下すでしょう。彼らはノヴス・オルドの事をカトリックだと認めてしまったので、自らの聖伝固守を“ノスタルジー旅行(nostalgia trip)”に変えてしまったのです。彼らは蛇、シヴァ(Shiva)、そして偉大なる親指(the Great Thumb)やブッダの礼拝、さらにトップレス姿の女性読師(topless female lectors)は言うまでもありませんが、マルチン・ルターの如き異端の祖たちの称賛を許しさえもする教会である、極度に包容力の大きい教会に於いて高教会派となってしまいました。実際この考えに与えられるべき名前とは、エクレズィア・ディアボリ <悪魔の教会>解決策(the Ecclesia Diaboli solution )なのです。しかしこの解決策に従う人々に味方して一つ申し上げなければなりません。それは、ヨハネ・パウロ二世を教皇と見做すと同時に彼の教義と彼の規律に関する権威を無視する事は出来ないと考えている事から、彼らは少なくとも自らの思考に於いては矛盾しておらず(consistent論理的(logicalだという事です。しかしこれらの人々が一致の内にいる為に、つまり、“握りこぶしで殴られるべき”である と聖ピオ十世が言われた近代主義者たちに匹敵する人々と同じ教会内にいる為に、これほどまで盲目になるがままになっているのが全く遺憾であります。

 

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 今朝方送られて来た、元聖ピオ十世会の『雑草』こと、リチャード・ウィリアムソン司教様のブログの最新記事を読ませて頂きました。かつて総長様がDICI掲載文の中で、同司教様の“本当の追放理由”として言及を避けられたものが書かれています。私はこの英国司教様がさり気なく言われている事は真実だと思っています。しかし本ブログ掲載記事(第一回?)でも書きましたように、創立40年が経った2010年ごろからその芽を吹き出した司祭会分裂の究極の原因とは、ルフェーブル大司教様が、デ・カストロ・マイヤー司教様とは反対に、セデヴァカンティストという明確なカトリックの立場を取らず、後退りしてしまった事に原因があると私は考えています。この後退りに対する「困惑」又は「良心の呵責」から、大司教様は一時激しくセデヴァカンティストたちを離教徒だと非難しました。しかし神学的知識のあった大司教様御自身、セデヴァカンティストたちが離教徒ではなく、むしろカトリック神学の原則から見れば、最も合理的な立場である事を理解されていたのです。では何故この立場を取る寸前に、それを拒絶してしまったのでしょうか?よく言われる事は、教皇座が空位であると明言し、セデヴァカンティストの立場を取る事から生じる、ローマ当局や、マスコミ、司祭会の同僚司祭、司教、神学生、そして聖ピオ十世会賛同信徒たちからの非難と、多くのメンバーたちの司祭会からの退会という巨大な十字架を背負う事になると予想したからという事です。しかし、本連載記事等をじっくりお読みになれば、教皇を教皇と認めつつ、彼が公布する教義や規律等には従わないという態度が如何にカトリック教徒として異端的かつ離教的であるかを理解されると思います。もちろん大司教様もこの矛盾には気づいていた筈です。実は聖伝の復興、カトリック信仰の復興を妨げているのは、聖ピオ十世会によるノヴス・オルドを取りあえず部分的にカトリックであると認めつつ、でもそれには従わないという曖昧で、エクレズィア・デイ的立場とセデヴァカンティスト的立場の両方を使い分けるハイブリッド的な態度を取り続ける事なのです。何時までもこのように曖昧な態度を取り続けられない事を知っている司祭会上層部は、最終的に、従順の名によって棄教したローマの配下に、条件を付けて、組み込まれる事になるだろうと私は予想しています。そして棄教したローマの配下に身を置きながら、『内部からローマの回心の手伝いをする』という理屈を用いて信徒たちを安心させるでしょう。しかし、『懐に入ってからローマの回心を手伝えば良いのでは』という考え方は数年前であれば、制裁の対象とされるほどの禁句でありました。実際にある司祭はこの発言をしたためにカナダに左遷されています。信徒は羊のように従順でなければなりませんが、もしカトリック信仰によって養われた自分の知性が信仰に反する矛盾に気付くならば、正直に声を上げる勇気も必要です。また根拠もなく、セデヴァカンティストたちを離教徒と排斥する事もやめるべきだと思います。彼らは教皇を認めないのではなく、公然の異端により教皇職を喪失しているはずの人物を教皇と認めないだけなのです。長くなりましたので、この辺で終わります。どうか時間の許す限りゆっくりお読みください。

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. それぞれ異なる諸体制[1]の批評

 

 

 

A. 基本的な原理。

 

 

 

1. ノヴス・オルドは、カトリックか非カトリックかのどちらかではあっても、両方である事は出来ない。

 

 

 

 カトリック信仰は<信仰する>程度(degrees)というものを認めません。それは本来 完全 なのです。何故ならそれは天主の権威に由来するものであり、天主の権威に基づき信じられるものだからであります。従ってそれは例外を認める事が出来ないのです。もしも教義あるいは道徳の教えに於いて、礼拝に於いて、もしくは規律に於いて、最も微々たる腐敗が存在すれば、その時それはカトリックではなくなる のです。

 

 

 

 誰であれ公教会の教導権により提案された教義のどれか一つの点から極小程度に遠ざかる者は、カトリック的通功(Catholic communion)外にいる者、さらに公教会と相容れない者と見做す事を常とした教父たちの満場一致の教えによって証明されている様に、公教会の慣行は常に同じものでした。( 教皇レオ十三世、Satis Cognitum 

 

 

 

 何らかの方法でカトリックと非カトリックとをノヴス・オルドの属性だと断定する事<カトリックと非カトリックの両方がノヴス・オルドの特徴であると見做す事>は、不条理な矛盾となりますし、それに加えて冒涜にもなるでしょう。さらに“ノヴス・オルド”という言葉を以って、私が第二バチカンと第二バチカン後の刷新の産物である教義、道徳の教え、礼拝と規律の秩序‐何故ならそれはオルドordo、つまり秩序であるから‐を言わんとしている事がここでは理解してもらえるはずです。

 

 

 

2. もしノヴス・オルドがカトリックであるならば、それは受け入れられなければならない;しかしもしそれがカトリックでないならば、それは拒絶されなければならない;中道は決して存在しないのである。

 

 

 

 ノヴス・オルドは見たところカトリック教会らしい事柄について全権を行使する事で公布されました。如何なるカトリック教徒も、それ故に上述した教えや、礼拝、そして規律を無視する振りをする事など出来ません。さらにもしそれらがカトリックであるならば、第二バチカンの変革に抵抗する 理由が一つとしてないのです。もし公会議の教え、礼拝、そして規律がカトリックであるならば、その時これらの事柄に対する信頼とその遵守は、私たちの霊魂の救いの原因となります。ところが、もし皆さんがノヴス・オルドの中にいて御自分の霊魂を救えるとするならば、どうして聖伝的な事柄の維持へと向かうのでしょうか?このケースに於ける聖伝への固守は、ノスタルジア、もしくは好みによって動機付けられているでしょうし、もしそれが<ノヴス・オルドの>聖職位階の意志に反すれば、決して正当化される事はないでしょう。もう一方で、もしノヴス・オルドというものが、公教会の教義や礼拝、そして規律の本質的変化であるならば、カトリック教徒は、自分がアリウス主義又はプロテスタント主義と戦っただろうのと同じ様に、妥協よりは死を選ぶことで、それと戦わなければならないのです<巧妙にハイブリッド的立場を取る事で公会議教会内に留まりながら、近代主義との真の戦いを避けてはならないという事>。

 

 

 

3.  同時に教皇の権威に属する特権を認めもせずに教皇の権威を認める事など不可能である。

 

 

 

 教皇の権威は、信仰と道徳を教える事に於いて、また<公教要理などの>通常普遍教導権の行使に於いてさえ不可謬でありますし、これらの事柄について何か罪深いもの、異端的なもの、あるいは霊魂たちに有害なものを命令する事が出来ない事から、この権威は礼拝と規律に関しても不可謬なのです。パウロ六世あるいはヨハネ・パウロ二世に於ける教皇権威の認識は、第二バチカンが教義的誤謬から自動的に自由であり<免れており>、1983年の教会法典のみならず、ノヴス・オルドの典礼と諸秘蹟は、如何なる教義的誤謬も、罪深いもの又は霊魂に有害なものも何ら含んでいないと言う認識を必要とします。これらの事柄について言われ得る最悪なものとは、仮にそれらが教皇の権威に由来したと認められるならば、それらは軽率(imprudent)で、恐らくむしろ美的ではない、もしくはある意味で 本質的に 嫌悪感を催すかも知れないという事です。それらは 本質的に カトリックであり、完璧で、永遠の救いへの伝導性(conductive to eternal salvation:永遠の救いに導くもの)を有すると認められなければならないのです。教皇ピオ六(Pius VI)世は、公教会には誤っているか、あるいは有害な何らかの規律を規定する事が出来るという命題が『偽物(false)であり、軽率で、躓きを与え、敬虔な人々の耳にとって不快なもの、そして公教会と、公教会を支配している、天主の<聖>霊(the Spirit of God)にとっては有害で、少なくとも誤ったものである』と言明されました(デンツィンガー 1578)。ピオ九世は、一方では御自分の権威を認めるが、もう一方では御自分が規定した規律を無視しようとした人々を激しく非難したのです:

 

 

 

 聖ペトロとその後継者たちの至上権の教義を声に出して宣言する事が何になるのでしょうか?日常の振る舞い<教皇による規律の無視>が、これらの素晴らしい言葉など偽りである事を証明する時、カトリック教会に対する信仰と使徒座への従順に関する宣言を何度も何度も繰り返す事が何になるというのでしょうか?その上、従順が義務と見做されるという現実により、反抗はそれだけいっそう弁解の余地がないものになりはしないでしょうか?さらに、聖座の権威は、制裁として、私たちが取る事を余儀なくされてきた手段にまで及んでいないのでしょうか、それとも従順という服従を加えないで、この聖座と信仰の一致の内にあればそれで十分なのでしょうか‐それはカトリック信仰に損害を与えないでは維持され得ないものなのですが?実際、敬愛すべき兄弟たち及び最愛の息子たちよ、それは皆様の教会に及ぶものであり、単に信仰に属する事柄のみならず、規律に関係する事柄に於いても(この座の)権限を認識するという問題なのです。これを拒否する者は、異端者であり、これを認めつつも、強情に従うのを拒む者はアナテマ(anathema:破門)に値します。(カルデア典礼に属する聖職者及び信徒に宛てた教皇ピオ九世の回勅Quae in Patriarchatu187691日公布)

 

 

  今ここで明白に述べられたこれらの行動基準、つまりそれぞれ異なった<三つの>体制の批評に進みましょう。 


 

[1]:①エクレズィア・デイ体制、②ルフェーブル主義(SSPX)体制、③セデヴァカンティスト体制 

 
 

 

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 第46回衆議院総選挙の開票結果を巡り、不正が行なわれたのではないかという情報が飛び交っていますが、カトリックブログに於いては、私が見るところこのブログ以外にはもう一つのブログがそれについて控えめに言及しているように思えます。私は人事を尽くして、天主の裁きを安心して受けたいと思いますので、国が危機に晒されている今、出来るだけ賢明な方法で、今回の総選挙を巡る不可解な出来事について情報を提供して行きたいと思います。本ブログは政治ブログではないのですが、こうする事により、マスコミの報道を丸ごと信じ込む妄信的あるいは狂信的(聖伝)カトリック教徒の覚醒に役立つだろうと思っています。社会的に影響力のあるマスコミ関係者におかれましては、真実を報道するという大きな責任を与えられているという事を肝に銘じて頂きたいと思います。むしろ今回の選挙を巡って囁かれている不正行為について報道する事を期待します。政治、国防を語る際に、米国政府の実態を無視して通る事は出来ません。トロツキスト米国による世界革命実現の為に「日本を取り戻そう!」という自民党総裁や、「憲法9条を改正して戦争の出来る日本にする!」という英霊たちの死を踏みにじる戯言を吐いている維新の会党首たちの「実態」について報道する事を期待します。その時、報道関係者には真の信用が回復されるだろうと思います。以上、思いつくままに書かせていただきました。

一聖伝信徒より

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 奇しくも『ガウデーテ(喜べ/喜び)の主日』に行なわれた衆議院総選挙の結果は非常に不吉なものでした。トロツキスト国家米国の傀儡諸政党の大勝利だったからです。この不正選挙、元い、この総選挙の結果が国民の民意を反映したものだとはどうしても信じられません。一部で不正選挙の可能性がささやかれていますが、それは十分にあり得ると思います。

 聖母の御保護が、日本と極東の上にあらんことを。

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 2023年8月28日修正アップデート済


C.
 セデヴァカンティスト解決策

 

 






 

 この解決策の基本原理とは、ノヴス・オルドとカトリック教会を同一視する事は不可能である というものです。信仰や道徳、礼拝及び規律に於ける公教会の非変節性を理由として、それが不可能だと彼らは言っているのです。もし上述した事柄に於けるノヴス・オルドの諸変革がカトリック教会に由来すると認めるなら、その時カトリック教会は変節してしまったという事を認めなければなりません。これらの変革は、実質的にカトリック教会の信仰、道徳、礼拝、そして規律と相反しているからです。しかしカトリック教会が変節する事は不可能なのです。そういう訳で、これらの変革がカトリック教会に由来するという事はあり得ません。またそれだからこそ、これらの変革を制定した人々(即ち、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世及びヨハネ・パウロ二世)が、カトリック教会の裁治権、つまり信徒たちを統治するというキリストから与えられた使命 を享受するという事はあり得ないのです。もし彼らがこの裁治権を享受しているとすれば、この権限が何か誤った事を教えるとか、あるいは公教会に向かって何か罪深い事柄を命令するという事は不可能であるのと同様、上述した事柄<信仰、道徳、礼拝、規律>について不可謬権を享受していたでありましょう。だからこそセデヴァカンティストたちは、近代主義者の聖職位階をカトリックの聖職位階と見做す事が出来ないと主張しているのであって、もしそうしないなら、『あなた方に聴くものは私に聴くのである』というキリストの御言葉を不条理なものとする事により、異端、冒涜、無効の諸秘蹟、誤謬、そして様々な罪深い掟を、キリストの汚れなき淨配と関係させている事でしょう。要するに、セデヴァカンティストの立場とは、近代主義者の聖職位階は、自分にあると主張するカトリックの権威を持ち得ない。何故ならカトリックの権威は、これら近代主義者たちが行なってきた事柄を行なわないよう、聖霊の助けに保護されているからである というものなのです。

 

 


 

 この立場に対する分かりきった反対は、聖職位階の大規模な変節は全世界的な司教座の空位状態(a state of universal vacancy of the sees)を引き起こす事となり、従ってそれは公教会の可視性を破壊するというものです。セデヴァカンティストはそれに対してこう回答します。各々の在位者<教皇座、司教座に就く人物>の死去に際して起きた空位の間、公教会は相変わらず可視的であるのと同様に、教皇座あるいは司教座の空位というものは公教会の可視性(the visibility of the Church)と矛盾する事はないのだと。空位の 長さ は、確かに公教会を混乱させはしても、そこには何ら聖座の空位状態にある公教会の性質と 本質的に 矛盾するものなど存在しないのです。さらに言えば、近代主義者たちをカトリックの聖職位階と同一視する事は、カトリック教会の可視性の為に何の役にも立たないし、それはむしろただ異端的教会の可視性(the visibility)を維持するだけであると彼は回答するでしょう。言い換えれば、非変節性というものは、近代主義者の聖職位階をカトリック教会と同一視する理屈によって守られず、むしろこのような理屈により 破壊される のです。何故なら、これについて彼らは屁理屈を言うでしょうが、信仰は公教会の構造の可視性よりさらに重要であるからです。言い換えれば、公教会の信仰に対する公教会の可視性の依存があり、それだけに、公教会の可視性にとって、ただ 何らかの 構造が可視的である事だけでは十分ではなく、むしろ カトリック信仰を表明する構造 が必要とされるからなのです。カトリック信仰を表明しない何らかの可視的な構造を持つという事は、可視的組織であるという事になるかも知れませんが、やはりそれはカトリック教会ではないのです。

 

 


 

 極少数のセデヴァカンティストたちは‐甚だしく誤解された理論である‐質料的に/形相的に materialiterformaliter theoryを保持していますが、それはただ単に近代主義者の聖職位階は、裁治権、つまり権威の形相的側面(the formal aspect of authority)を享受していないが、それでもローマと司教の座[1]の質料的継承 the material succession of the Roman and episcopal sees)は維持していると主張しているだけなのです。従ってこの理論の保持者たちは、ヨハネ・パウロ二世は教皇では ない が、それでも彼は、教皇と なる 立場に自分を置く有効な選出を受けており(is in possession of a valid election)、<教皇の>権威の受諾を妨げている障害物を取り去るべきだと言うでしょう。教皇権の受諾の障害物とは、第二バチカンに対する彼の執着でありますが、もし<異端の放棄とカトリック信仰への回心を通して>それを受諾する場合、根本的騒動(an essential disorder をカトリック教会内で巻き起こすでしょう。さらに彼<ヨハネ・パウロ二世>は、セデヴァカンティストたちは加えます、ある正式な行為により、例えば、カトリックの枢機卿たちのコンクラーベによって、またそれどころか、どれほど小さくとも、à la rigueur(最悪の場合には)、数人の裁治権者なる司教たち(jurisdictional bishops)の協議会によってこの選出を自分から取り除かせる<無効にする>立場にいます。前述の行動は明らかに予見可能な将来に起りそうもありませんが、第二バチカンは起りそうもありませんでした。この理論は、公教会がこの危機の間じゅうに 質料的な 連続性を必要とする限りに於いては、信仰、道徳、礼拝、そして規律に関する公教会の非変節性だけではなく、公教会の聖職位階の永続性をも保護すると彼らは言います。別の種類のセデヴァカンティストとは、言葉と行いの両方により明白となる、公然の異端表明が原因で、ヨハネ・パウロ二世と大抵のノヴス・オルド聖職位階は、公にカトリック信仰から離反したのであり、またそれゆえに、最低に見積もったとしても教会法第188条第4項の精神に基づき、彼らは自らの職務から暗黙の内に退いたのだと主張する絶対セデヴァカンティスト(the absolute sedevacantist)です。他の人々は、例え異端者が枢機卿たちの満場一致の合意により教皇職に選出されていたとしても、また例え彼が見たところは教皇職に就任したにせよ、彼は相変わらず教皇ではないだろうと言明する教皇パウロ四世の クム・エクス・アポストラートゥス(Cum ex Apostolatusを引き合いに出しています。

 


 

[1]:ローマ教皇座と司教座‐和訳者。

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