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2019年9月13日修正アップデート済み


 皆さま同様に世俗の生活に追われている私ですが、久々に手付かずだった『O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁』の第三弾を書く時間と力を見出す事が出来ましたので、本日ここに掲載させて頂きます。文章的未熟さや難解さの原因となる部分は、発見次第、逐次修正して行くつもりです。どうか忍耐を以てお読み下さいますように。また、本論駁の内容を理解された方がいらっしゃれば、残念ながら似非カトリック教会のメンバーと化してしまったO神父様が、一日も早く真のカトリック教会へと方向転換出来るよう、聖母マリア様にお祈り下さい。

 Veritas liberabit vos!




  批判B-1再論駁及びB-2論駁



 最初にO神父様は、『もしも特別教導権を行使したのでもなければ、通常普遍教導権を行使したのでもないならば、それは必ずしも不可謬とは限らない、これは、カトリック神学の古典的な教えです。』という主張をされています。この主張のように、「特別/荘厳教導権」か「普遍通常/通常普遍教導権」の何れかを行使しない教皇の教え又は命令が、必ずしも不可謬とは限らない、という主張に誤りはありませんが、この主張をされた理由と説明には欠落と誤りがあるのは否めません。当主張の理由として、O神父様は『何故なら、カトリックの古典的な神学は、教皇その人とその職務とを区別することを教えているから . . . 』、『 . . . 教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているから』と、やや的外れな理由づけをされています。先ず、カトリック神学の古典的な教えが、我々カトリック教徒に知性の同意を要求する「特別教導権」か「普遍通常教導権」を行使しない教皇の教えが不可謬とは限らない、とどこかで説いたとすれば、それは第三レベルの教導権があり、それと前者二つの教導権とを、「不可謬性の有無」を基準に区別する為だったはずです。ところで、カトリック神学者たちが教皇の職と人を区別した理由/目的とは、2013年12月29日の記事「批判A論駁」で説明した様に、「教皇でさえ離教者/異端者になり得る」事を説明する為でした。さらに、もしO神父様が『教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです。』と主張されるならば、少なくとも、この主張を擁護する歴史上の例をいくつか挙げるべきだったと思います。全教会に向けて『教皇様が常にどこででも教え続けてきた同じ意味の同じことを(eodem sensu eademque sententia)、すなわちカトリック教会の聖伝をそのまま教える教皇の発言や命令というものは、O神父様が批判Bで言われる様に「荘厳/特別教導権」ではなく「普遍通常教導権」に属するものであります。仮に、それらがある理由から「普遍通常教導権」のカテゴリーに属さないとしても、実のところ、それらは三段階ある教導権の第三レベルである「真正(正統)教導権(Authentic Magisterium)」に属します。また、例えこの教導権が不可謬性を有していないとしても、キリストの権威を有する性質上、カトリック教皇は、公会議教会の偽教皇たちとは違い、それを教える際、「霊魂にとって有害な」発言や命令を公布する事が出来ません。さらに、『 . . . つまり、教皇は、自分の最高の権威に訴えて教導職を行使しない場合には、個人として誤謬を犯しうる、ということです。』というO神父様の主張は、非常に曖昧で紛らわしいものです。同神父様はここで「荘厳/特別教導権」についてのみ言及しているようにも思えますが、最初の主張の内容から見て、「荘厳/特別教導権」のみならず「普遍通常/通常普遍教導権」にも言及しているようです。ここで疑問に思う事が一つあります。何故、O神父様はここで第三レベルの教導権である「真正教導権」について一切言及されないのかという疑問です。それを御存知か否かについて私には断定する能力などありません。しかし、もしO神父様がそれをご存知であったならば、必ず言及していたはずだと思います。では、言及を避けたのでしょうか?もしご存知でありながら、それに言及しなかったとすれば、それは聖ピオ十世会の過ちを隠蔽する為です。しかし、もしそれを御存じなかったならば、結果として、O神父様は教導権には二つのレベルしか存在せず、第三レベルの教導権である「真正教導権」の存在とその性質に気付いてもいない事を曝け出しているのです。O神父様にとって『「荘厳教導権」か「普遍通常教導権」の行使の伴わない発言や教令というものは、全て『教皇が朝起きてから夜寝るまで発言するすべての言葉(クレディディムス・カリタティ、201374日掲載文)』と同程度の、教導権に属さない、我々信徒たちが耳を傾ける価値のない、個人的見解に過ぎない』と言っているに等しいのです。

では、第三レベルの教導権である「真正教導権」とは何でしょうか?これを理解すれば、上で言及したO神父様の下線を付けた主張は一瞬にして論駁され、挫折するでしょう。しかし、O神父様、そんな誰にでもある挫折に打ちのめされる事なく、どうか正統なカトリック神学の教えに立ち戻って、真のカトリック司祭職を生きて下さい。以下はヨアキム・サラヴェッリ神父著『神聖神学大全IB:キリストの教会について504番(Sacrae Theologiae Summa IB: On the Church of Christ, n. 504)』からの引用です:

『真正教導権Authentic magisterium <[ギリシャ語の]authentiaauthority(権威)>)とは、合法的な権威者により制定された教義の伝達職務である。従って、それは(この職務にある)教師の内に、教義伝達の権威(power)および機能(office)を暗示するが、弟子たちの内には、教えを受け入れる義務と権利(the obligation and right to receive instruction)を暗示する。教導権は広義と狭義の二つの意味で真正authentic)であり得る。

広義の意味における真正教導権Authentic Magisterium in the broad sense )は、それ自体、知性の同意を弟子に要求する権威を有しないものである。例えば、大学教授の教授権のようなものである。狭義の意味における真正教導権Authentic Magisterium in the strict sense )は、それ自体、教師の行使する、神の使節の権威ゆえに、弟子たちが自動的に知性の同意を与えなければならないほど、教義を強要する権威を有するものである。』(1)

上述の権威あるカトリック神学書の説明を無視するように、O神父様は『教皇の人による不可謬性の伴わない「真正教導権」に属する教えは、日常会話レベルの無価値で受け入れる必要のないものだ』というお考えを、無意識に、我々信徒たちに植え付けておられるのです。しかし、これは自分たちの存続にとって不都合となってしまう正統カトリック神学をそれとなく遠回しに否定、歪曲する聖ピオ十世会の巧妙なロジックに染まった結果であります。

さらに、これらの主張の後に続く『聖パウロが聖ペトロを非難した』という件も、聖ペトロがユダヤ人たちの非難を恐れ、アンティオキアにおいて異邦人たちとの食事を避けた人間的弱さを聖パウロが非難したというものであって、「悪い/有害な教え」を公に教えたわけではないと説明されています。また、『もしも特別教導権を行使したのでもなければ、通常普遍教導権を行使したのでもないならば、それは必ずしも不可謬とは限らない』という、O神父様が古典的なものとして、引用している典拠不明の教えは、アンティオキアにおける聖ペトロの行為の間違いを検証する事は出来ても、『公に異端を教え、それを命じておきながら、聖ペトロは教皇のまま留まった』とカトリック神学に反してお考えだろうO神父様を正当化する事など出来ません。逆に、この様な考えは『「荘厳教導権」の行使と「普遍通常教導権」の行使のどちらかに属さない教えを、我々カトリック教徒は受け入れる義務など持たない』という誤謬へと我々を導くものです。従って、本日取り上げたO神父様による引用個所の多くは、それに付されたカトリック神学の正統解釈から逸脱している事から、カトリック的であるどころか、我々「真のカトリック教徒」たらんとする人々の霊魂を、非カトリック的な結論へと導く誤謬であるという事になります。『お前は不可謬ではない「真正教導権」の教えも、我々カトリック教徒には受け入れる義務があるというが、もしそれがその不完全さ故に霊魂を害する内容を含んでいるとしたら、拒絶すべきではないのか?教皇であっても、我々が拒絶しなければならない、何らかの異端を公に教え命じる事が出来るのではないのか?』という方がいれば、私は『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能です』と回答します。「真正教導権」の教えは不完全であり得ても、決して霊魂を害する教えであり得えません。『カトリック教皇でさえ、真正教導権の行使においては、公に異端を教える事が出来る』という見解は、O神父様の学び舎たる聖ピオ十世会が苦し紛れに編み出した、公言する事を許されない、誤謬であり、それに従う時、『教皇が信仰と道徳に関する異端的教えや命令を公布した場合、それは彼が「荘厳教導権」か「普遍通常教導権」を行使しなかった結果であって、彼が教皇ではなかったからではありません。このように異端を公布した場合、彼は決して教皇職を失わないのです。』という反カトリック神学の誤謬説を容易に受け入れる事間違いありません。

 

 St. Alphonsus最後に、聖アルフォンソ・ド・リゴリオの言葉を引用させて頂きます:

『もし何時の日か教皇が、個人として、異端に陥るとしたら、彼は直ちに教皇職から転落するだろう。しかしながら、もし悪名高く反抗的な異端者となる事を神が教皇に許す事となれば、彼はこの様な事実によって(自動的に)教皇ではなくなり、使徒座は空位となるだろう。』(2)

 






 O
神父様に対する偽りなき真の愛徳を以て。

 Veritas liberabit vos! 


_______________

(1)"Authentic magisterium (from [Greek] authentia = authority) is the office of handing on doctrine instituted by a legitimate authority. Therefore, it implies in the teacher the power and office of handing on doctrine; but in the disciples [i.e. in the taught] the obligation and right to receive instruction. Magisterium can be authentic in two ways: in the broad sense and in the strict sense.

Authentic magisterium in the broad sense is that which by itself does not have the power to demand from the disciple the assent of the intellect. Such is, for example, the magisterium of a professor in a university. Authentic magisterium in the strict sense is that which has such power in itself to impose doctrine, that the disciples by that very fact are bound to give the assent of the intellect, because of the authority of the legate of God which the teacher makes use of."

(Fr. Joachim Salaverri, Sacrae Theologiae Summa IB: On the Church of Christ, trans. by Fr. Kenneth Baker [original Latin published by BAC, 1955; English published by Keep the Faith, 2015], n. 504; italics given.)

(2) “If ever a Pope, as a private person, should fall into heresy, he should at once fall from the Pontificate. If, however, God were to permit a pope to become a notorious and contumacious heretic, he would by such fact cease to be pope, and the apostolic chair would be vacant.”